1972年の大洋ホエールズ

1972年の大洋ホエールズでは、1972年の大洋ホエールズの動向をまとめる。

1972年の大洋ホエールズ
成績
セントラル・リーグ5位
57勝69敗4分 勝率.452[1]
本拠地
都市神奈川県川崎市
球場川崎球場
球団組織
オーナー中部謙吉
経営母体大洋漁業
監督別当薫(8月30日まで)
青田昇(8月31日から9月23日まで代行)
宮崎剛(9月24日まで代行)
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この年の大洋ホエールズは、別当薫監督の5年目のシーズンである。

概要

アメリカからクリート・ボイヤージョン・シピンの新外国人コンビが入団、ロッテから江藤慎一をトレードし打線を強化したものの、チーム防御率一位の前年から一転し、先発投手陣が脆弱化したことから、チーム成績は低迷する。そんな中、阪神村山実監督兼投手→金田正泰代行)、広島根本陸夫監督→森永勝也代行)と監督途中交代が連続、大洋でも8月31日より別当監督が「優勝が絶望的になった」として休養し、青田昇ヘッドコーチが監督代行となるが、青田代行はいきなり7連敗し、9月23日まで1勝14敗2分と低迷した。翌24日からは宮崎剛二軍監督が「代行監督の代行」となり、結局5位で終わった。シーズン終了後、別当監督は戻らずにそのまま広島の新監督へ就任、大洋の新監督には青田ヘッドコーチが昇格した。

チームは優勝の巨人に13勝13敗、3位中日に14勝11敗1分と勝ち越すも、それ以外への取りこぼしも目立った。野村収が移籍した先発投手陣は平松政次の球威が低下し、坂井勝二山下律夫の活躍こそあったものの、前年活躍した小谷正勝鬼頭洋も成績を落としたことから、チーム防御率3.66はリーグ5位で27完投はリーグ最下位。一方で、ボイヤー・シピン・江藤など新加入のスラッガーが主軸となったことで、打撃陣は優勝の巨人に次ぐ2位の135本塁打を放ったが、44盗塁はリーグ最下位でちぐはぐさが目立った。

チーム成績

レギュラーシーズン

開幕オーダー
1江尻亮
2中塚政幸
3松原誠
4江藤慎一
5シピン
6伊藤勲
7ボイヤー
8松岡功祐
9山下律夫
1972年セントラル・リーグ順位変動
順位4月終了時5月終了時6月終了時7月終了時8月終了時最終成績
1位中日--巨人--巨人--巨人--巨人--巨人--
2位大洋1.0阪神大洋2.5阪神阪神4.0阪神3.5
3位巨人2.0大洋1.5阪神3.0大洋4.0大洋8.5中日7.0
4位広島3.0中日5.0中日4.0中日5.0中日9.0ヤクルト14.5
5位阪神4.0広島7.5ヤクルト13.0ヤクルト8.5ヤクルト12.0大洋17.0
6位ヤクルト5.0ヤクルト10.0広島13.5広島12.5広島20.5広島24.0


1972年セントラル・リーグ最終成績
順位球団勝率
1位読売ジャイアンツ74524.587優勝
2位阪神タイガース71563.5593.5
3位中日ドラゴンズ67594.5327.0
4位ヤクルトアトムズ60673.47214.5
5位大洋ホエールズ57694.45217.0
6位広島東洋カープ49756.39524.0

[1]

オールスターゲーム

コーチ青田昇
ファン投票選出なし
監督推薦坂井勝二平松政次伊藤勲シピン
補充選手松原誠

できごと

  • 8月31日
    • 別当薫監督が休養し監督代行を青田昇ヘッドコーチが務めると発表[2]
    • 松原誠が後楽園球場での対巨人22回戦の1回表に20号本塁打を放ち、プロ通算150本塁打を達成[3]
  • 9月24日 - 監督代行の青田昇が胆石で入院。二軍監督の宮崎剛が代行に。
  • 11月14日 - 監督に、この年監督代行を務めた青田昇が正式就任。
  • 11月22日 - 横浜市に対し、本拠地を移転することを申し入れる。

選手・スタッフ

表彰選手

リーグ・リーダー
受賞者なし
ベストナイン
選手名ポジション回数
シピン二塁手初受賞
ダイヤモンドグラブ賞(新設)
選手名ポジション
シピン二塁手

脚注

注釈

出典

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