黒崎久志

日本のサッカー選手、監督

黒崎 久志(くろさき ひさし、1968年5月8日 - )は、栃木県上都賀郡粟野町(現:鹿沼市)出身のサッカー指導者、元サッカー日本代表選手。ポジションはFWMF1992年から1999年までの登録名黒崎 比差支(読みは同じ)。

黒崎 久志
名前
カタカナクロサキ ヒサシ
ラテン文字KUROSAKI Hisashi
基本情報
国籍日本の旗 日本
生年月日 (1968-05-08) 1968年5月8日(56歳)
出身地栃木県鹿沼市 (旧:上都賀郡粟野町)
身長185cm
体重79kg
選手情報
ポジションFW / MF
利き足右足
クラブ1
クラブ出場(得点)
1987-1991本田技研工業サッカー部 95 (31)
1992-1997鹿島アントラーズ 144 (48)
1998-1999京都パープルサンガ 41 (16)
2000ヴィッセル神戸 17 (5)
2001アルビレックス新潟 44 (21)
2002-2003大宮アルディージャ 60 (9)
代表歴2
1989-1997[1]日本の旗 日本24 (4)
監督歴
2010-2012アルビレックス新潟
1. 国内リーグ戦に限る。2003年12月31日現在。
2. 1997年2月13日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

指導者としては、アルビレックス新潟監督大宮アルディージャヘッドコーチ、鹿島アントラーズトップチームコーチを歴任した。現在は中国超級リーグ・青島西海岸監督。

来歴

現役時代

宇都宮学園高等学校(現:文星芸大付高)時代から将来を嘱望され、セルジオ越後からも「将来日本代表入りする選手」と太鼓判を押されていた。[要出典]全国高等学校サッカー選手権大会にも2度出場し、2年生だった1986年1月の第64回大会では1学年先輩の小泉淳嗣とともに準々決勝で3連覇を目指していた帝京高校を下してベスト4に進出し(準決勝で江尻篤彦真田雅則のいた清水商に敗退)、黒崎は5得点で大会得点王となった。3年生だった翌1987年1月の第65回大会では1学年下にDF根岸誠一がいて、室蘭大谷高校との準々決勝ではPK戦の途中でテレビ中継が終わっても、なかなか結果がテロップで流れなかったPK戦史上に残る激闘の末、14-15で敗れた。高校時代のクラスメートの話によると、授業中ほとんど昼寝をしていたにもかかわらず成績は良かったとのこと。

高校卒業後、1987年に日本サッカーリーグ(JSL)1部所属の本田技研工業サッカー部(現:Honda FC)に入団(同い年で同期就職に古川昌明北澤豪)。本田技研がJリーグへの不参加を表明した1992年に、慕っていた前監督の宮本征勝や同学年の長谷川祥之、1年後輩の本田泰人や黒崎を追って本田技研に入社していた根岸らとともに鹿島アントラーズに移籍[2]。この際、登録名を本名の「黒崎 久志」から「黒崎 比差支」に改め、2000年に本名に戻すまでこの名前を使用した。長身2トップを組んだ長谷川祥之とともに、日本人エースとして活躍し、Jリーグ黎明期の鹿島を牽引した。この頃には日本代表にも選出されたが、代表では同じ長身FWでタイプが重なる高木琢也との争いに敗れ、目立った実績は残せなかった。ただ、1995年香港で行われたダイナスティカップでは、大会不参加の三浦知良に代わり招集され、得点王になっている。

鹿島には6年間にわたって所属したが、増田忠俊柳沢敦の台頭もあって徐々に出番が減り、1998年京都パープルサンガへ移籍。13得点の活躍を見せた。翌1999年は出場機会が減少。2000年にはヴィッセル神戸に移籍したが、ここではさしたる成績を残せず、2001年アルビレックス新潟へ移籍。新潟ではチームトップの21得点を挙げた。2002年からは大宮アルディージャに移籍し、2003年シーズン終了後に現役引退。

指導者時代

現役引退後の2004年JFA公認B級コーチライセンスを取得し、古巣・鹿島のジュニアユースコーチに就任。また、ブラジルに遠征するU-15日本代表のコーチも務めた。2005年からは鹿島ユースのコーチを務め、2006年にはJFA公認S級コーチライセンスを取得した。

2007年より、同じく古巣であるアルビレックス新潟トップチームのコーチに就任。2009年にはヘッドコーチに昇格し、2010年より監督に就任。就任当初は開幕から8試合未勝利と低迷したが、第9節でヴィッセル神戸に2-1で勝利すると、そこから2004年以来のリーグ戦4連勝を果たし、11試合無敗記録を樹立。最終的に9位でリーグ戦を終えた。

2011年は開幕から5試合無敗となった一方で、5-6月は9試合勝利無しと苦戦が続き、残り7試合となった第27節終了時点でJ2降格圏の16位のヴァンフォーレ甲府と勝ち点2差まで迫られたが、ここからの3連勝で持ち直し、第32節でガンバ大阪と引き分けてJ1残留を決定した。しかし、11月には公式戦5試合で1分4敗に終わり[3]、最終的には前年を下回る14位となった。

2012年も新潟の監督を続投したが、開幕からのリーグ戦3連敗、第12節でジュビロ磐田に1-6で大敗するなど不調が続き、12節終了時点で2勝3分7敗の17位と低迷。この結果を受け、5月21日に新潟の監督を辞任した[4]。シーズン途中での監督交代はクラブ史上初となった。

監督辞任後

新潟の監督辞任後は、地元・栃木県鹿沼市の「かぬまふるさと大使」に就任し[5]、中学生を対象としたサッカー教室を開催するなど地域貢献活動に携わった[6]。また、スカパー!プレミアムサービスのサッカー解説者も務めた。

2013年2月1日、古巣である大宮アルディージャの地域プロデュース部インストラクターに就任することが発表された[7]。同年6月6日、大宮のトップチームコーチに就任[8]2014年9月5日、ヘッドコーチに就任。[9]

2017年5月28日、成績不振を理由に、監督であった渋谷洋樹とともにヘッドコーチ職を解任された(後任は海本慶治[10]。同年12月から4か月にわたりJFA公認指導者の海外派遣プログラムにより渡独し、ブンデスリーガ2部デュッセルドルフを中心に同リーグにおける指導法などを学んだ[11]

2018年6月20日、規律違反により辞任した柳沢敦[12] に代わり、鹿島アントラーズのトップチームコーチに就任[13]。同年のAFCチャンピオンズリーグ制覇に貢献した。大岩剛監督の退任に伴って2019シーズンで退任し、2020シーズンは同アカデミースタッフを務めた[11]

2021年2月、中国超級リーグ山東泰山の監督に就任したハオ・ウェイに請われ、同ヘッドコーチに就任[11]。同年のリーグ優勝と中国FAカップの2冠獲得に貢献した[14]

2023年、武漢三鎮のアシスタントコーチに就任[15]

2024年、青島西海岸の監督に就任[16]

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点出場得点出場得点 出場得点
日本リーグ戦JSL杯/ナビスコ杯天皇杯期間通算
1987-88本田17JSL1部1823020232
1988-892270021248
1989-90211100222313
1990-911671007
1991-9218449442617
1992鹿島-J-8435119
1993301100533514
1994301010003110
19953911-003911
199619614320359
19979261053203313
1998京都271343243320
1999J11431010163
2000神戸1750041216
2001新潟11J2442120425023
2002大宮10357-31388
2003252-31283
通算日本J1202693313191325495
日本J2104302010411634
日本JSL1部95318910711347
総通算40113043223924483176

JSLオールスターサッカー 1回出場(1992年)

その他の公式戦

国際大会

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 24試合 4得点(1989年 - 1997年)[1]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
198971
199020
199100
199200
199310
199410
1995103
199620
199710
通算244

個人タイトル

資格

指導歴

監督成績

年度所属クラブリーグ戦カップ戦
順位試合勝点ナビスコ杯天皇杯
2010J1新潟9位344912139予選リーグ敗退(3勝1分2敗)4回戦敗退(2勝1敗)
201114位343910915準々決勝敗退(2勝1敗)3回戦敗退(1勝1敗)
201217位129237(予選リーグ途中)(2勝1敗)-
J1通算-80-242531
  • 2012年シーズンは2012年5月21日で解任された。順位は12節終了時。

脚注

関連項目

外部リンク


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