鳥潟隆三
鳥潟 隆三(とりかた りゅうぞう、1877年明治10年)8月20日[注 1]- 1952年(昭和27年)2月19日)[5][6] 。医学博士。日本の生理学者。明治-昭和時代の外科医学者・免疫学者[1][5]。
人物情報 | |
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生誕 | 1877年8月20日![]() |
死没 | 1952年2月19日 (74歳没)![]() |
出身校 | 京都帝国大学、ベルン大学 |
学問 | |
研究分野 | 医学(生理学) |
研究機関 | 京都帝国大学 |
学位 | 医学博士 |
経歴
1877年、北海道函館市に生まれた。幼名は隆一。その後、6歳まで父・鳥潟精一の故郷秋田県大館市花岡で過ごした[7][注 2]。鳥潟家は慶長年間のころから続く旧家で、花岡村の肝煎(きもいり)を代々務めてきた家であった[2][注 3]。
6歳まで花岡で育ったのち、大分の病院長 叔父鳥潟恒吉・サイ夫妻の許で大分県立大分中学校を卒業。恒吉夫人が甥・息子らを引率して上京し[10][11]、旧制第一高等学校に進学、卒業に当たり、狩野亨吉の勧めで京都帝国大学医科大学に入った[6][12]。1904年、恩賜の銀時計を授与されて同大学医科大学を卒業した[13][14]。
卒業後は、同大学助教授に就任。1910年に医学博士となった。大阪府立大阪医学校(後の大阪大学医学部)の教員を経て、1912年から1917年までスイス・ベルン大学に留学[13]。血清細菌学を研究テーマとした。1917年に免疫学上のインペジン学説(the Impedin theory)を提唱した[5][7]。
帰国後に、大阪府大阪市に鳥潟免疫研究所と附属病院を設立。1922年、京都帝国大学教授となり、外科学第1講座を担当。学説に基づき「コクチゲン」(鳥潟軟膏)を発明し[注 4]、また「平圧開胸術」を考案して肺結核外科手術を向上させた[8]。学界では、日本外科学会会長を2期つとめた[10][16][17](のちに日本外科学会名誉会長[5])。1938年京都大学を定年退職[18][19]、名誉教授の称号を受ける。1945年から1947年まで故郷の花岡に疎開して暮らしたが、1947年6月に脳溢血で倒れ、大阪に戻った[20][21]。1952年、大阪府でこの世を去った[7]。
研究内容・業績
- 1939年にコクチゲン(鳥潟軟膏)創製の功績によりノーベル生理学・医学賞候補となったが、惜しくも受賞は逃した[10][22]。
- 著書にインペジン学説に関する3部(独文)がある[5][23]。
家族・親族
- 叔父:鳥潟恒吉(つねきち)(1855-1914年)。花岡生まれ。東大医学部二期卒業生。初代大分県立病院長を務め、大分県の医療の近代化、医師・看護婦の養成に貢献した[10][24][25]。
- 叔母:鳥潟サイ(1862-1943年)は恒吉の妻[10]。菅礼治の妹[注 5]。
- 娘:鳥潟静子。1932年におこった結婚解消騒動で知られる。静子は隆三の弟子と結婚したが、初夜に夫の性病を知り、そのまま実家に戻り、隆三は結婚解消を関係周囲に通知、これによって対立した両家がそれぞれ新聞に弁明を発表し、その是非を巡って文壇を巻き込む一大騒動に発展した[28](静子はのちに医師の革島貞吉と結婚した[3])。
- 従弟:鳥潟右一(1883-1923年)は工学者。鉱石検波器、TKY式無線電話機の発明者[10][29][30]。
著書
- 『鳥潟外科学総論』南江堂、1934。NCID BA44783339
- 改訂第7版 / 荒木千里[注 6]改訂、南江堂京都支店、1951。NCID BN07643230
- 改訂増補第14版 / 荒木千里 改定、南江堂、1965。NCID BN06941299
- 『鳥潟外科学教室論著抄録集』第1-2部 鳥潟博士還暦祝賀記念会編、日本外科宝函編輯室、1941。NCID BA45048240
- 『免疫元及び免疫方法』鳥潟博士還暦祝賀記念会、1944。NCID BA54866567
- 『外科学臨床講義』鬼東惇哉編、南江堂、1944。NDLJP:1045708
- 『免疫概論』日本医書出版、1947。NCID BN07163971