馬超

中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の将軍

馬 超(ば ちょう、拼音: Mǎ Chāo熹平5年〈176年〉 - 章武2年〈222年〉)は、中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の将軍。字は孟起(もうき)。は威侯。司隷扶風郡茂陵県の人[注釈 1]

馬超
蜀漢
驃騎将軍涼州・斄郷侯
出生熹平5年(176年
扶風郡茂陵県[注釈 1]
死去章武2年(222年
拼音Mǎ Chāo
孟起
諡号威侯
主君馬騰 → 独立勢力 → 張魯劉備
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後漢の名将馬援の子孫[3]関中における独立軍閥の長の座を父から引き継ぎ、曹操に服属していたが、後に韓遂と共に反乱を起こした。敗北後、涼州において捲土重来を果たすも、地元の士大夫らに離反されて根拠地を失った。流浪の末に益州劉備の下に身を寄せ、厚遇を受けた。族の血を引き[3]、非漢族からの信望が厚かった。

祖父は馬平中国語版[4][注釈 2]。父は馬騰。弟は馬休馬鉄。従弟は馬岱。妻は楊氏[5]・董氏(妾)。子は馬秋・馬承。娘は劉理の妻。

生涯

若き日

興平元年(194年)における李傕との争いに敗れた後[6]、涼州に帰還した馬騰は義兄弟として韓遂と友好関係にあったが、やがて衝突するようになった。当時、馬超は勇将として知られていた[注釈 3]。争乱の渦中にある建安初期、若い頃に勇名を得ていた韓遂麾下の閻行が馬超を矛で刺そうとしたところ、矛が折れた。馬超はその折れた矛で首筋を殴られ、あやうく命を落としかけた[9]。その後、関中鎮定の任務を帯びた司隷校尉鍾繇と涼州の韋端が仲裁役となり、利害を説いて説得したため、馬騰と韓遂は和解した[3][10][注釈 4]

建安7年(202年)、鍾繇の要請を受けた馬騰は、曹操への援軍として1万余りの兵と共に馬超を派遣し、平陽郭援高幹を討伐させた[注釈 5]。馬超は司隷校尉の督軍従事に任命され、龐徳らと共に郭援と戦った[注釈 6]。この時馬超は足に矢を受けたが、負傷した足を袋に包んでなおも戦い続け、敵軍を大破した[注釈 7]。その功績から、詔勅によって徐州刺史に、後に諫議大夫に任命された[3][注釈 8]

建安13年(208年)、丞相となった曹操は馬超を召したが、馬超は応じなかった[3][注釈 9]。韓遂と再び不仲となった馬騰が老いを理由に入朝し衛尉となると[注釈 10]、馬超は偏将軍・都亭侯に任命され、父の軍勢を引き継いだ[16]。弟の馬休・馬鉄にも官職が与えられ、馬騰の一族郎党がに移住する傍ら[注釈 11]、馬超のみが領地に留まった[3]

潼関の戦い

建安16年(211年)3月、曹操は鍾繇・夏侯淵らに命じて漢中張魯を討伐しようとした。3000の兵で関中に入ることを求めた鍾繇は、表向きは張魯討伐を掲げていたものの、実際には馬超らを脅迫して人質をとるつもりだった[20]高柔は「みだりに兵を動かせば、韓遂・馬超に疑念を抱かせ、扇動し背かせることになります。先に三輔を安定させた後で漢中に檄し、平定すべきです」と、曹操の行動を諫めた[21]。曹操が荀彧を介して衛覬に意見を聞くと、衛覬は「兵を関中に入れて張魯を討とうとなると、張魯は深山にいて交通が悪いため、西方の諸将らは必ず疑うでしょう」と答え、出兵に反対した。曹操はこれをよしとしたが、最終的には鍾繇の策に従った[20]

馬超をはじめとする関中の諸将らはこの動きを見て、自分たちが攻められるのではないかと疑心暗鬼になった[注釈 12]。『魏略』によると、この時、韓遂は張猛の反乱を鎮圧するため遠征していたが、馬超は遠征から戻った韓遂を都督に立て、「以前、鍾司隷(鍾繇)は私に将軍(韓遂)を捕まえるよう命じました。関東の人間はもはや信用できません。私は父を棄て、将軍を父とします。将軍も子を棄て、私を子とされよ」と語った。閻行は参加を諫めたものの、韓遂は「(関中)諸将は諮らずとも意を同じくしている。これは天命であろう」と答え、謀反に同調した[9]

馬超・韓遂・楊秋李堪成宜らに加え、侯選程銀張横梁興馬玩らあわせて10の軍閥が挙兵し[3]弘農[注釈 13]馮翊の郡県にまで呼応する者が相次いだ[注釈 14]。反乱に従わなかった藍田の劉雄鳴は馬超に撃破され、曹操のもとへ逃亡した[9][注釈 15]。また馬超は京兆の学者である賈洪を脅し、露布(布告文)を起草させた[28]。この反乱に応じて、数万家にも及ぶ関西の住民が子午谷を経て漢中に逃れた[29][注釈 16]

馬超が10万の軍勢の指揮を執り黄河南岸の潼水の地に布陣すると、曹操は曹仁潼関を防がせた(潼関の戦い)。

同年7月、曹操が到着して黄河の南岸に布陣し、北岸の馬超らの軍と対峙した。曹操は徐晃朱霊らに黄河を渡らせ、陣地を構築し梁興を破った[31]。続いて曹操も潼関から北に黄河を渡ろうと試み、先に兵を渡河させ、自身は許褚が指揮を執る虎士100人余りと共に殿軍となったが、馬超はそこへ船で急襲した[32]。歩騎1万余りの馬超軍による猛攻は、曹操自身も九死に一生を得るほどだった[33][注釈 17]。しかし丁斐が牛や馬を解き放って馬超らの軍を混乱させたため、曹操は渡河することができた[32]。その後も曹操軍の進軍を許した涼州諸将らは、まず渭口へ退却した後、渭南に駐屯した際に黄河西岸の割譲および講和を要求したが、拒絶された。

『山陽公載記』によると、曹操の渡河作戦について、馬超は「渭水の北岸にて敵軍を渡らせずにおけば、20日と経たずに河東の兵糧は尽き、敵は必ずや撤退することでしょう」と主張していたが、韓遂の賛同を得ることができなかった。この話を聞いた曹操は馬超の存在をいっそう警戒し、「馬(ば)の小僧が死ななければ、わしには葬られる土地すら無い」と語ったという[35]

同年9月、曹操は渭南に到達した[注釈 18]。そして賈詡の進言に従い、土地の割譲と人質の引き渡しの要求に偽って応じ、会談の場を設けた上、そこで賈詡の離間の策を用いた[32][36]。単馬会語の際、馬超は己の武勇を恃みに曹操を捕らえようとしたが、護衛の許褚がいたため実行できなかった[注釈 19]。曹操は両軍間の交流を利用して、韓遂が内通しているように見せかけたため、馬超らは韓遂に疑念を持った[注釈 20]。統帥の乱れた関中軍はその後の会戦で大敗を喫し、馬超は安定に至ったのち涼州へと逃れた[3][注釈 21]

曹操は安定まで追撃したものの、蘇伯と田銀が河間で反乱を起こし幽州冀州を扇動していたため[42]、引き揚げようとした。涼州参軍楊阜は馬超の武勇と異民族への影響力について警戒を促し、「厳重に備えておかねば、隴上の諸郡は国家のものでなくなります」と進言した。曹操はもっともだと考えたが、結果として帰還の途に就いた。また潼関の戦いにおける曹操軍の戦死者は5桁にのぼり、曹操を悔やませた[20][注釈 22]

再起と敗北を重ねて

姜叙の母を殺す馬超(歌川国芳画)

建安17年(212年[注釈 23]1月、馬超が諸戎(西方の異民族ら)の渠帥を率いて隴上で蜂起すると、漢陽郡郡治である冀県[45]を除く全ての郡県が馬超に呼応した[注釈 24]。冀城を治める涼州刺史の韋康[注釈 25]は、馬超軍の包囲下に置かれながら8月まで抵抗を続けていたが、助けは来なかった[48]

5月、馬超の反乱に連座する形で、父の馬騰を含めた三族が誅殺された[49][注釈 26]

涼州別駕の閻温は、包囲網を掻い潜って夏侯淵に援軍を要請したものの、その足取りを発見した馬超軍に追われ、捕縛された。引き出された閻温に対し、馬超はその縛めを解いて、「今や勝敗は歴然としている。足下(あなた)は孤城のために援軍を求めながら、かえって囚われの身となった。いかに義を成すというのか? もし私の言に従うならば、城に戻り、東から救援は来ないと伝えるように。これぞ禍い転じて福と為すというもの。さもなくば、ただちに殺す」と言った。偽って要求を受け入れた閻温は、車に乗せられて帰城すると、「大軍が3日のうちに来る。頑張れ!」と叫んだ[注釈 27]。その後、懐柔に失敗した馬超は閻温を殺した[46][注釈 28]

閻温の死をきっかけに、韋康は太守ともども降伏の意思を抱くようになった。楊阜は徹底抗戦を訴えたものの、韋康はついに講和を求めて開城した。馬超は入城すると、援軍に来ていた張魯の大将である楊昂に韋康と太守を殺させた[48][注釈 29]。そして冀城を占拠し、征西将軍・并州牧・督涼州軍事を自称した[16]。また遅れて救援にやってきた夏侯淵[注釈 30]を迎撃して優勢に立つだけでなく、汧県族を呼応させて敗走させたほか[27]百頃氐の千万・興国氐の阿貴らを味方につけ、勢力を盛り返した[58][注釈 31]

復讐の機を窺っていた楊阜は、歴城(漢陽郡西県[60])を訪れた折、撫夷将軍であり軍権を擁する姜叙の無反応ぶりを趙盾に比して責め、反乱を仄めかした[注釈 32]。楊阜の悲憤を見た姜叙の母は、楊阜の計画に加わるよう息子をけしかけた[5][48]。この計画には韋康の旧臣である趙昂もまた加わったが、息子の趙月が馬超の人質であることを案じると、妻の王異は「忠義こそが立身の大本です。君父の恥を雪ぐにあたっては、命を差し出すのも瑣末なこと。ましてや子ども1人のことなど気にかけるものではありません」と叱咤したという[5]

9月[注釈 33]、楊阜・姜叙が鹵城[63]において反旗を翻した。楊阜らと結んでいた趙衢・梁寛らは、馬超を欺いて鎮圧に向かわせた後、冀城を占拠して門を閉じ、馬超の妻子をことごとく殺して晒し首にした[注釈 34]。馬超は初め鹵城を攻めたが、歴城に目標を変えた。そこで捕らえた姜叙の母に「お前は父に背いた逆子(ぎゃくし。不孝者)、主君を殺した桀賊(凶暴な賊)であり[注釈 35]、天地がどうしてお前を久しく容れられようか。それでいて早く死なずにいるとは、よくも人に顔向けできるものだ!」と罵倒され、激怒した馬超は姜叙の母と子を斬った[5][48][注釈 36]。馬超と楊阜との戦いでは、楊阜の兄弟7人が戦死し、楊阜自身も重傷を負ったものの、馬超はついに漢中の張魯を頼って落ち延びていった。

その後、馬超は張魯に何度も兵を借りて失地回復を試みたが、不首尾に終わった。趙昂らが立て籠もる祁山を馬超が包囲した際、姜叙らから救援依頼を受けた夏侯淵は、曹操の指令を待っていれば彼らは負けるだろうと判断し、進軍した。包囲から30日が経過して援軍が到着すると、馬超はその先行部隊を率いる張郃を羌氐数千人と共に迎え撃ったものの、結局交戦しないうちに退却した。またこの時に人質の趙月を殺した[5][27]

張魯は馬超を都講祭酒[注釈 37]に任じるだけでなく、さらには自分の娘を嫁がせようとしたが、ある臣下に「自らの親を愛せない者が、どうして他人を愛せましょうか」と諫められ、とりやめた[注釈 38]。また漢中には、潼関の戦いにおける馬超の敗北を機に、馬超の妾の弟である董种が三輔から移住していた。元日に董种が馬超を訪ねてお祝いを述べると、馬超は胸を叩いて吐血し、「家族が皆、1日にして命を落としたというのに、今われわれ二人で何を祝えるというのか!」と嘆いた[3]

劉備への帰服

馬超は張魯に対して不満を抱き、内心鬱々としていた。建安19年(214年)、張魯配下の楊白らからの妬みもあり[注釈 39]、妾の董氏と子の馬秋を張魯のもとに留めたまま、武都から氐族の居住地へと出奔した[3][注釈 40]。そして劉備が成都を包囲していると知り、密書を送って降伏を申し入れた[16]

劉備は李恢を漢中に派遣して馬超と誼を結ばせていたが、馬超の来降を聞くと「益州を手に入れたぞ」と喜び、人を遣わせて馬超を迎えとらせ、さらに密かに兵を補充した[3][73]。馬超の軍兵が成都城の北に駐屯するや、恐れをなした劉璋は馬超到来から10日足らずで降伏し、蜀は劉備の手中に入った[3][注釈 41]。馬超は劉備により平西将軍に任命され、臨沮を治め、都亭侯に再び封じられた[16]。この時、劉備の爪牙(武の重鎮)として、関羽張飛と共に名が挙げられている[74]劉備の入蜀)。

馬超の帰順を知った関羽は、馬超が誰に比肩するかを諸葛亮に書簡で問うたが、関羽の自尊心の高さを知っていた諸葛亮の「益徳(張飛)には比肩しますが、髯[注釈 42]には及びません」という返事を見て大いに喜び、来客に見せびらかした[75]

建安22年(217年)、馬超は漢中攻略戦において張飛・呉蘭雷銅らと作戦を共にした。沮道を経て下弁に進出した際には、氐族の雷定ら7部1万人あまりが呼応した[48][注釈 43]。これに応じて、曹操は曹洪曹休曹真らを派遣した[79][注釈 44]。下弁の東南にある固山[81]に駐屯する張飛の意図を看破した曹休は、呉蘭を攻撃して撃破した。建安23年(218年)3月、陰平氐の強端が呉蘭を殺し、馬超は張飛ともども漢中へ撤退した[32][注釈 45]

建安24年(219年)、劉備を漢中王に推挙した群臣たちの筆頭に馬超の名がある[74]。馬超は仮節・左将軍に任命された[16][注釈 46]

章武元年(221年)、驃騎将軍・涼州牧となり、斄郷侯に封じられた[注釈 47]。策命に曰く、「朕(劉備)は不徳を以て至尊(天子)を継ぎ、宗廟を奉承した。曹操父子は代々その罪を重ね、朕は惨怛として、憂慮すること疾首(頭痛)のごとくである。海内(天下)は怨み憤り、本源に帰らんとし、氐羌は順服するに至り、獯粥も義を慕っている。貴君の信義は北方の地において著しく、その威武もまた明らかである。これを以て貴君に委任する。虓虎(吼え猛る虎)のごとき勇を顕し、万里を統べ、民の苦難を救うのだ[注釈 48]。国朝の薫化を宣示し、遠近を安撫して保全し、粛然と慎んで賞罰を行い、かくて漢の祐福を篤くして、天下に対えよ[93][16][注釈 49]

章武2年(222年)に47歳[注釈 50]で亡くなり、子の馬承が後を嗣いだ。馬超の娘は後に安平王劉理に嫁いだ。馬超は没する間際、劉備に上疏した。「臣(わたくし)の一門宗族200人余りは孟徳(曹操)にあらかた殺されてしまい、ただ従弟の馬岱が残るのみです。途絶えんとしている宗家の祭祀を継ぐ者として彼を陛下に託します旨、くれぐれもよろしくお願いいたします。余言はございません」[16]

景耀3年(260年)9月、威侯の諡号を追贈された[16][97][注釈 51]

逸話

彭羕は劉備に重用されていたが、その野心を警戒した諸葛亮の進言により、江陽太守へと左遷されることになった。内心不愉快に思った彭羕は、左遷される前に馬超を訪ねた。馬超が「卿(きみ)の才能はずばぬけており、主公(劉備)もたいへん重用なさって、卿は孔明(諸葛亮)や孝直(法正)にも引けを取らぬとおっしゃっていたのに、地方の小郡に任じられるとなっては、期待外れではないのかな」と問うと、彭羕は劉備を「老革」[注釈 52]と呼んで罵り、「卿が外を執り、私が内を執れば、天下は定まろうものだ」と馬超に言った。流離の身で帰順し、常に危懼の念を抱いていた馬超はこの言葉に驚駭し、黙して答えなかった。彭羕の帰宅後、馬超がその発言を具述して上表した結果、彭羕は投獄された。獄中から諸葛亮に送った弁明の手紙で、彭羕は「内だの外だのと言ったのは、孟起(馬超)に北方で功を立ててもらい、主公に忠誠を尽くして、共に曹操を討とうというだけの話であり、他意はありません[注釈 49]。孟起の告げたことは事実ですが、彼は言葉の真意を汲み取れておらず、なんとも心の痛むことであります」と述べているが、最後には処刑された[100]

『山陽公載記』によると、馬超は、劉備からの待遇が厚いのをいいことに常々劉備の字を呼び捨てていたため、怒った関羽が馬超の殺害を申し出た[注釈 53]。劉備が「彼は切羽詰まって私のもとに来たのに、字で呼んだからといって殺したら、天下に申し訳が立たないだろう」と取り成すと、張飛が言うには「ならば、礼儀というものを見せてやろう」。翌日の宴会で、関羽と張飛が彼らの席におらず、刀を携えて劉備の側に起立しているのを見た馬超は驚き、字呼びをやめた。その翌日、「私は今、敗北の所以を悟った。主人の字を呼んだがために、あやうく関羽と張飛に殺されるところであった」と歎じ、それ以降は劉備に敬意を表して仕えるようになったという。しかし裴松之が論難することには、窮していたところで劉備に帰順し爵位も授かった(すなわち臣従を受け入れた)馬超が、主君を字で呼ぶほど傲慢に振る舞うとは考えられない。入蜀時には荊州の守りについていた関羽が益州に行ったことはなく、それゆえ諸葛亮に手紙を送ったというのに、(関羽が益州にいて)張飛と共に立っていることなどあり得ない。また、人はある行為をしようとする際、その可否を承知した上で実行するのだから、馬超が仮に劉備を字で呼んでいたならば、そうしてもよいと判断した謂れがある。そして、関羽と張飛が武装して直立しているのを見ただけで、関羽の建言を知らない馬超が事態を悟るのはおかしい。以上の4つの観点から、裴松之はこの逸話の信憑性を強く疑問視している[35]

評価

  • 陳寿:「馬超が武と勇を恃んで一族を破滅させたのは、惜しいことだ。窮地から安泰へと至ることができたのだから、まだ良かったのではないだろうか」と評している。
  • 荀彧:袁紹との衝突を目前にして関中の動静を憂う曹操に対し「関中諸将はまとまりがなく、ただ韓遂・馬超のみが突出して強いのです」と評している[47]
  • 王商:「勇あれど不仁、利を見て義を思わない人物であり[101]、唇歯(密接な関係)となるべきではありません」と評して馬超との連盟に反対し、「益州は、その国土はうるわしく民は豊かで、貴重な物品も産出する場所であるからして、狡猾な者が襲わんとするところであり、馬超らはそのために益州に接近するのです。もし彼を引き寄せるならば、虎を養って自らに患いを遺すものとなりましょう[102]」と、劉璋を諫めている[103]
  • 周瑜:馬超・韓遂を曹操の後患と見なし、建安15年(210年)、益州攻略について「奮威将軍(孫瑜)と共に蜀を取り、蜀を得たらば漢中を併合し、奮威将軍を留めてその地を固守させ、馬超と誼みを結んで連合しとうございます」と孫権に提言している[104]
  • 楊阜:「韓信黥布のような武勇を持ち、羌胡の心を甚だ得ている」と評する一方、「父に背を向け主君に叛き[注釈 54]、涼州の将を虐殺した」と糾弾し、「強暴にして不義である」と批判している[48][注釈 55]
  • 諸葛亮:関羽に宛てた手紙で「孟起は文武の才を兼ね備え、人並みはずれた勇猛さを持ち、当代の英雄である」と評し、黥布・彭越に喩えている[75]。またその書中では馬超を張飛と同列に扱ったが、黄忠を後将軍に据えようとした劉備に対しては「黄忠の名望は関羽・馬超と並ぶものではありません」と、関羽と併せて言及している[114]
  • 楊戯の『季漢輔臣賛』:「驃騎将軍(馬超)は奮起して合従連横した。三秦(関中)にて蜂起し、黄河・潼水を占有した。思惑は朝廷を旨とするも、〔その意を〕時には異にし、時には同じくし、敵がその隙に乗じたことで、一族は滅び軍勢も失われた。道に背き徳に反したが、龍鳳(劉備)に身を託した」と評されている[115]
  • 東晋孫盛:馬超が父に背いたことを、家族よりも利益を優先した残酷極まる行為であるとし、人質を取ることの無意味さを表す例として挙げている[116]。その類例として、降伏せねば実父を釜茹でにすると項羽に脅された際に「煮殺すならそのをわしにも分けてくれ」と答えた劉邦[注釈 56]や、長子を人質に出した後に反逆した隗囂が列記されている。
  • 南唐徐鉉:祖先が扶風人だという馬仁裕中国語版の神道碑に、扶風馬氏に関連する高名な人物として、伯益趙奢[注釈 57]馬融と共に馬超の名を挙げ、「公侯〔の子孫〕は必ず〔始初の公侯の位に〕帰すというが[120]、〔果たして〕関西は孟起の威に靡いた」と記している[121]
  • 南宋陳亮:「関中諸将は皆恐るるに足らず、恐るべきは馬超ただ一人である」と述べ、馬超が領地に独り留まったことは曹操にとっての養虎の患いだとする。そして「馬超が〔曹操の招きに応じて〕就任してしまえば、関西諸将など物の数ではない。袁煕袁尚が平らげられた今、強兵が西に向かうとなると、その風向きを理解した諸将はこちらに合流する、すなわち、韓遂らはあえて刃向かおうとはしない。たとえ叛いたとしても、これを破るのはたやすいことだ」と、関西平定における馬超の重要性を論じている[122][123]
  • 郝経:「馬超父子は関西随一の勇者だったが、韓遂と共に跳梁して寇(あだ)しては、三輔を荒廃させ、漢王朝を損ねた」と記し、董卓と併せて漢王朝衰退の一因と見なすほか、「一門が皆誅され、凋落すれども悔いず、勇はあれども義は無く、君子はこれを嘆くのである。しかるに、潼関の戦いにおいて曹操はあわや命を失うところと相成り、孤剣にて帰順するや関羽・張飛に列したからには、馬超もまた豪傑ではないか」と評し、曹操を追いつめたことで改めて「当代の雄」だとしている[124]
  • 徐鼒:馬超の不孝について、趙苞・劉邦の事例との「敝蹝を棄てる」行為[125]と共に俎上に載せ、「英雄の成し遂げることとは、聖人・賢人の精神ではないのだ」と記している[126]。舜が天下をなげうって孝行するように、趙苞は孝よりも忠を、劉邦は孝よりも天下を選んだのだとし[注釈 58]、馬超が父を捨て曹操に叛くに至った経緯もそれらと同様、両立困難な事象の相克から生じたものと受け取っている。
  • 清末盧弼中国語版:「馬超は戦闘に秀で、羌胡を手懐けていたが、隴右の軍衆を兼有し、さらに張魯の援助も得ているとあっては、向かうところ敵なしといえよう」と述べ、その強勢を認める一方、「〔韋康は絶望的な情況の中で〕無辜の吏民が死んでいくに忍びず、心苦しくも和睦を求めたのであり、その情況は諒解できる。〔しかし〕馬超はただ残忍で、約に背いて韋康を殺害し、また楊昂の手を借りて、殺戮をほしいままにしてしまった。だから韋康の死後、吏民は怨恨を抱き、姜敘の母や趙昂の妻は両者とも忠義の心を奮い、皆が故君のために復讐したのだ」と性格に起因する失策を指摘している[128]

墓所

成都武侯祠の馬超像

馬超墓には主要なものが二つある。

  • 新都県の墓所。の時代、四川按察使の楊贍、成都知府の王九徳、新都県令の邵年斉らが、墓の湮没を恐れ、墓前に碑を建てた。雍正11年(1733年)に、県令の陳銛が墓の四隅に石を設置して区画を設けた上、墓から18歩ぶん離れた範囲までを墓域とし、それより内側での採樵と耕作を禁じた[129]道光17年(1837年)には「漢故征西将軍馬公諱超字孟起之墓」という墓碑が建てられた。宣統元年(1909年)、四川提督中国語版の馬維騏[注釈 59]により立派な社殿が建てられ、「漢驃騎将軍領涼州牧斄郷侯諡威侯馬公墓誌」という墓碑も新たに作成された[131]文化大革命の際に徹底的に破壊された結果、現存しているのは上述した2つの石碑だけであり、それらは1987年に新都の桂湖公園にある碑林に移され、現在に至るまで安置されている。県級文物保護単位。
  • 沔県の墓所。万暦35年(1607年)に著された祁光宗中国語版『関中陵墓志』および清代の畢沅『関中勝蹟図志』によると、建興5年(227年[注釈 60]に諸葛亮が沔陽を訪れた際、自ら祭祀を行ったという[132]。また『古今図書集成』には、前書と同様の記載のほか、「諸葛亮が馬岱に喪服を掛けさせた」という記述が見える[133]乾隆41年(1776年)、陝西巡撫の畢沅により「漢征西將軍馬公超墓」という碑文が制作された[134]民国17年(1928年)、馮玉祥は馬超を偲ぶ聯詩を詠み、それを刻んだ「馮玉祥為馬超祠題聯」碑が作成された[135]。墓域は漢恵渠を挟んで前院と後院の2つの区域に分かれており、その間に風雨橋と呼ばれる橋が掛けられている。民国24年(1935年)、漢恵渠の修復時に馬超墓も開削されたが、甬道から一振りの鉄刀が発見され、墓の内部に暗器があるのではないかと恐れられたため、再び封印された[136]。馬超墓の周辺には、最古にして皇帝の詔のもと建てられた唯一の武侯祠である勉県武侯祠中国語版や女郎祠(張魯の娘中国語版の墓)がある[注釈 61]。省級文物保護単位。

伝承

古蹟

中国各地には、馬超にまつわる様々な遺跡の記録が残されている。所在地名は『古今図書集成』および各地方志の記述に則る。

  • 三馬祠(扶風県):飛鳳山にあり、馬援・馬融・馬超を祀る。本来は馬援を祀る祠だったが、康熙57年(1718年)、知県の丁腹松による修築を経て馬融・馬超も共に祀るようになり、「三馬祠」と称されるようになった[138]
  • 馬超坡(扶風県):湋水(古称は沮水。渭水の支流)の南にある坂道。俗称は馬超衚衕(胡同、すなわち小路のこと)[139]元末明初の高僧である宗泐中国語版の詩『発扶風』に、馬超祠(次項参照)と併せて言及がある[140][注釈 62]
  • 茂陵山(宝鶏県中国語版):かつて馬超祠が存在した[142]。馬超が住んでいたともいわれる[143]
  • 馬超岭(楊陵区):咸陽市楊陵区五泉鎮にある。馬超が駐屯し馬を育てたという伝説が伝わる[144]
  • 青州城(安塞県):馬超が築いたものといわれる[145]。藩延堡はその城址だという[146]
  • 馬超洞(甘泉県):青州城の対岸にあり、馬超が兵を駐屯させた地と伝わる[147]洛水北部にあり、現在も遺跡が残っている[148]
  • 野馬圪塔(平陸県):馬超が馬を放牧していたと伝わる[149]
  • 馬超窰(平順県):馬超がこの窰洞で敵軍を避けたという[150]
  • 渭源古城(渭源県):「馬超城」の跡地が存在する[151]
  • 馬超坪(灌県):馬超が駐兵した地点と伝わる[152]

出手法

馬超が発祥とされる剣術。明の地理学者鄭若曽の『籌海図編』や『江南経略』、嘉靖年代の兵法書である何良臣中国語版『陣紀』に記載がある。各書には複数の剣術が紹介されており、その中には虎殺しで有名な春秋時代大夫卞荘子中国語版や、劉備の名も見える[153][154]

創作における扱い

『三国志平話』

三国志平話』(以下『平話』)は、元代の至治年間に成立した『全相平話』という歴史講談集のうちの一つである。以下、馬超に関する場面の概略を記すが、後述する『三国志演義』と比較すると、登場人物の省略や人名の誤記、展開の稚拙さが顕著である。

  • 馬騰の長男であり、馬岱はその次男になっている。3人とも万夫不当の勇を持つと評判で、賈翊(賈詡)は劉備に対抗し得る勢力として「馬騰は諸葛亮、馬超は関羽、馬岱は張飛への対策となり得るでしょう」と述べている[155]。容姿については「生きた蟹のように青ざめた顔、明るい星のような目」と描かれる[注釈 63]
  • 平涼府節度使である馬騰は、曹操に呼び出されると「もし私が死んだら、曹操を殺して仇を取ってくれ」と息子たちに言い残して発つ。そして、献帝に謁見した際に曹操を除くよう暗に進言したことにより、曹操に殺される[注釈 64]。この時、馬超の母も殺されたことになっている。
  • 馬騰および一族誅殺の知らせは、従僕から馬岱に、そこからさらに馬超へと伝わる。嘆き悲しんだ馬超は、辺章と韓遂から1万の兵を借りて挙兵し、喪服を纏って戦場に立つ。馬超軍の攻撃に曹操軍は手も足も出ず、馬超と戦った夏侯惇があやうく射殺されかける上、命からがら逃げのびた曹操は食事も喉を通らない[注釈 65]
  • 次々に勝利を重ねる馬超軍が渭水の東南に布陣してから数日後、婁子旧(婁子伯)と名乗る道士が馬超のもとを訪れる。「馬岱に1万の兵を率いさせ、まずは長安に赴いて献帝を救い、曹操の家族を殺しなさい。それから曹操を殺しても遅くはない」という彼の策を、馬超は回りくどいと言って退ける。すると婁子旧は曹操軍の陣営に足を運び、辺章と韓遂に賄賂を送れば軍を退却させられると曹操に進言する。それによって馬超は軍勢のほとんどを失い、張魯のもとへ逃げ去る。
  • 劉備軍と対峙した際には魏延と矛を交える。諸葛亮が伊籍を派遣するや劉備に投降し、定遠侯[注釈 66]に封じられて五虎将軍の一員となる。荊州にいた関羽は、馬超の封侯とその武勇に対する賞賛を聞いて不満を漏らすが、諸葛亮から受け取った手紙を見て機嫌を直す。
  • 陽平関に侵攻する曹操軍の対処に立候補し、諸葛亮から策を授かるものの、飲酒が原因で敗北し、陽平関を張遼に奪われてしまう。諸葛亮と顔を合わせないよう密かに逃走するが、敵軍に出くわすたび、曹操を散々に叩きのめしている。
  • 劉備が仇討ちのため呉に出兵した際には、剣関(剣門関)の守備を任されている。そして、呂蒙と対峙する諸葛亮を関平と共に援護したのを最後に、物語から姿を消す。

『三国志演義』

小説『三国志演義』において、馬超は作中でも屈指の武勇を誇る武将として登場する。「冠の玉のようなかんばせ、流星のような眼、虎の体に猿のうでひょうの腹に狼の腰」[160]を持ち、「生まれつき白粉を塗ったように色白、唇は紅をさしたよう」[161]で、「獅子のかぶとに猛獣をあしらったベルト、銀の鎧に白い戦袍ひたたれを身につけている」[162]美将であり、その非凡な風采から「錦馬超(きんばちょう)」と称えられている。個人的な武勇が目立つよう描かれており、毛宗崗中国語版の分類では、五虎将の中で唯一、無比の武勇でもって敵陣を突き崩す驍将である[163][注釈 67]。この変形の一例として、曹操の「馬の小僧が死ななければ」という言葉は、馬超の戦略眼の鋭さに対する恐れの発露ではなく、馬超の勇壮な姿を観察しての腹立たしげな独言となっている。また許褚や張飛との一騎討ちは、単に場面を盛り上げるだけでなく、「虎将を描くとき、〔その相手に〕懦弱な者を用いて造形するよりも、勇ましい者を用いて造形することで武勇を実感するほうがよい」という理論に則り創作されたものである[165][166]

以下に示す馬超の事績からは、『平話』に引き続き、数多くの操作が全般的に加えられていることが見て取れる。その代表例である時系列の改変には、中国の伝統的な倫理観から大きく逸脱する馬超の行動を「是正」し、より英雄たるにふさわしい存在として物語に配する意図がある[159]。また、馬超を美化する過程には父の人物造形の変化も含まれている。『三国志演義』の馬騰は反董卓連合軍に名を連ね、さらには献帝の発した曹操誅殺の密勅にも漢の忠臣として参与し、死亡時にはその忠烈を讃える詩すら登場する[注釈 68]。これらの改変を経て、悍勇ぶりで名を馳せた叛将から、孝を尽くす悲劇の英雄へと姿を変えた馬超は、人々の共感と称賛に浴し、五虎将のひとりとして受容されるに至ったのである。

  • 長安を占拠した李傕一派と馬騰・韓遂軍が対峙する中、馬超はわずか17歳にして敵将の王方を討ち取り、李蒙を生け捕るという鮮烈な活躍を見せるだけでなく、馬騰らの敗走時にもしんがりを務め、追撃する張済を退けている。馬騰は曹操と対立する涼州の一勢力として描かれているため、袁紹残党の郭援らとの戦いは採用されていない。
  • 孫権討伐を目論んだ曹操は、後顧の憂いを断つべく西涼太守の馬騰を許昌に召し寄せ、謀殺を図る。馬騰は馬休・馬鉄・馬岱を連れて都に向かうが、黄奎との曹操暗殺計画が発覚し、息子2人もろとも殺されてしまう[注釈 69]。涼州に留まっていたため難を逃れた馬超は、唯一逃げ延びた従弟の馬岱と共に、復讐のために兵を起こす。
  • 馬超は、韓遂およびその8人の部将[注釈 70]と共に20万の大軍をもって長安に攻め寄せ、陥落させる。潼関の戦いでは、于禁・張郃を次々に退け、李通を刺殺し、その後も苛烈な追跡で曹操を討ち取る寸前にまで及ぶ[注釈 71]。戦役半ばでは許褚がしかけた一騎討ちに応じ、死闘を繰り広げる。しかし離間の計によって馬超以外の9人全員が曹操軍に寝返り、それに激怒した馬超は、楊秋にそそのかされて降伏を選んだ韓遂の左手を切断し、梁興・馬玩を斬殺する。その後曹操軍に包囲されながら孤軍奮闘するも、馬を射られて落馬したところを龐徳と馬岱に助けられ、隴西まで逃走する。
  • 涼州で再起した馬超は、降伏した韋康とその一族40人余りを殺害する。楊阜らはその報復に、冀城から締め出された馬超の目前で、彼の妻子たちを一人ずつ殺してはその死体を城壁から投げ落とす。その衝撃で馬超は失神した後、歴城を襲撃して住民を殲滅し、姜叙の母を手にかける[注釈 72]。同時に、尹奉の家族および本人と王氏(王異)を除いた趙昂の家族を皆殺しにする。そして、ここに至ってようやく救援に駆けつけた夏侯淵により、馬超の軍勢は壊滅する。
  • 漢中の張魯を頼って以降、馬超が涼州に出兵することはない。馬超と張魯の娘との縁談を阻んだ楊柏は、己に対する馬超の殺意を知ると、兄の楊松に相談して馬超暗殺を企てる。その後、劉璋への救援に名乗りをあげた馬超は葭萌関で劉備軍の張飛と一騎討ちをし、夜戦にまでもつれこむ。馬超の勇姿に感嘆する劉備の意向を汲み、諸葛亮は策を講じる。賄賂を送られた楊松の讒言によって進退両難に陥った馬超は、李恢の説得を通じて劉備軍に降り、援軍だったはずの馬超に脅され愕然とした劉璋は降伏を決意する[注釈 73]。関羽は馬超の帰順を知ると、馬超との試合を望む旨を記した書状を諸葛亮に送っている[注釈 74]
  • 定軍山の戦いでは、陽平関を失った曹操軍の加勢に来た曹彰孟達軍と共に挟み撃ちにし、曹操をして「鶏肋」と言わしめる状況へと追い込んでいる。そして劉備が漢中王となるに従い、五虎大将軍に任じられる[注釈 75]。関羽は黄忠と同格に扱われたことに怒るが、馬超については「代々続く名家だから」という理由で認可する。
  • 関羽が龐徳に降伏を迫る際、漢中在住の従兄である龐柔の名を出すが、作中ではさらに馬超にも言及している。関羽の敗死後、逮捕の情報を孟達に知らせるべく彭羕が遣わした使者を、馬超の巡視隊が捕える[注釈 76]。事情を知った馬超は彭羕に鎌をかけ、反乱の意思を聞き届けた後にそれを告発している。
  • 劉禅の即位に応じて、曹丕司馬懿の進言で5方面から蜀を攻めようとした時、諸葛亮はその対策の一つとして、羌族からの人望が厚く「神威天将軍」と称される馬超を西平関(架空の関)の守護に当たらせ、脅威を未然に防ぐ。馬超は南征には従軍せず、陽平関の守備を務めるが、南蛮平定後に死亡したことが語られる。諸葛亮は腕を折られたような思いでその死を惜しみ、北伐の際には馬超の墓を訪れている。

『後漢演義』

『後漢演義』は、清代から中華民国時代にかけての小説家および歴史学者である蔡東藩中国語版により著された、11部からなる『中国歴朝通俗演義中国語版』のうちの一つである。王莽による簒奪から始まり、禅譲を受けた司馬炎によるの建国で終わる構成になっている。作中には史実への言及のみならず、『三国志演義』の誤謬および創作部分の指摘や、同書の作者とされる羅貫中への批判が随所に差し挟まれている。この作風ゆえに、馬騰の誅殺は潼関の戦い以後に行われ、曹操を狙った苛烈な追跡や数々の一騎討ちといった描写もなく、馬超に関連する描写はおおむね史書に準じている。しかし、渡河の際に馬超が曹操からあと100歩余りの距離まで迫る場面や、妻子の首が城壁から投げ落とされる場面、張魯から離れて劉備に帰順し劉璋を降伏させるまでの経緯など、『三国志演義』の影響を受けている箇所も散見される。

『後漢演義』の各回の末尾には人物評が載せられている。そこでは「馬超は猛将、韓遂は愚物であり、両者とも曹操の敵ではない。(中略)馬超が強くとも韓遂は愚かだったため、まんまと曹操の計略に掛かった。これぞ用兵が謀略を重んずる所以である」と評されている[174]。また語り手は「馬超は勇烈ではあれど知謀に欠ける」とも評し、その欠陥ゆえ親から果ては妻子に至るまで破滅させたことを咎め、「劉備に投降せねば己の身すら保てずにいたのに[注釈 77]、どうして曹操の敵たり得ようか」と述べている[176][注釈 78]。とはいえ、馬超の武勇を実感したがために曹操は賈詡の策を用いるに至ったとし、また曹操の渡河作戦に対する馬超の案を「申し分ない」と形容しているように、馬超の軍事面の能力に対する評価は一貫して高い[179]。『後漢演義』においては、馬超の勇略に馬岱のそれが及ばなかったために、馬岱は北伐に従軍するも大役を任されず、諸葛亮にも重用されていなかった[180]。また『後漢演義』は馬超を評価する際にその道徳性をほとんど考慮しておらず、族滅の件についても、馬超が親を顧みず戦ったのを踏まえた上で、馬騰らを誅殺した曹操の手口は悪辣だと断じている[181][注釈 79]

京劇

京劇『両将軍』の馬超(中国WIPO協力50周年記念イベントで披露されたもの)

京劇において、馬超を主役とする演目は数多く存在する。演目の内容は『三国志演義』を題材としており、『反西凉』『戦潼関』(潼関の戦い)、『戦冀州』『賺歴城』(冀城放逐および歴城襲撃)、『戦馬超』『両将軍』(張飛との一騎討ちおよび夜戦)などがある。京劇には、身分や性格、年齢などにより区別される様々な役柄が存在するが、将軍である馬超は「武生」、具体的には「長靠武生」に割り当てられている[注釈 80]。衣装は白地で、喪を示す黒い紋様があしらわれている。張飛との戦いにおいては黒ではなく青を基調とした衣装を纏い、夜戦時には無地の白い箭衣に着替える。若い将軍として扱われているため、髭はつけない。

『耳談』

代中期の筆記小説集である王同軌中国語版『耳談』[注釈 81]およびその増補版『耳談類増』には、「漢左将軍馬超墓」という話が載せられている。以下はその前半部のあらましである。

新都の参議である楊廷儀が、父親の埋葬地にふさわしい場所を探していると[注釈 82]、ある土地から「漢左将軍馬超之墓」と彫られた石碑を発掘した。これを吉兆の験ありと見なした楊廷儀がその地を選んでから程なくして、錦袍をまとい玉帯を締めた馬超が夢に現れ、「私は漢の将軍である。わが墓を荒らさぬように」と戒めた。楊廷儀が意に介さないでいると、またもや夢を見た。武装した馬超が弓を引くと、楊廷儀は両目を射当てられて〔現実においても〕盲目になってしまうが、〔良地と見なしているため〕ますます意思を固めた。そして次に夢を見た時、馬超は大いに怒った様子で「お前に禍いをもたらしてくれよう!」と告げた。その後、楊廷儀の家族数名が道連れの商人たちを皆殺しにして金品を奪った。事が露見した結果、彼らは凌遅刑に科せられ、それに連座して、楊廷儀は棄市[注釈 83]に科せられてしまった[191]

後半部に添えられた見解には「土地は馬超ゆえに貴いのであって、土地ゆえに馬超が貴いのではない」とある。語り手は、馬超の一族子弟が曹操や張魯に殺されたことに触れ、また『三国志』が馬超の後裔について詳述していないことを理由に、馬超の家系は断絶したのだろうと推察する[注釈 84]。そして、子孫のために風水などにこだわるのは度が過ぎるとして、身を滅ぼすに甘んじた楊廷儀の行いを咎めている[192]

『耳談類増』には「漢将軍墓」という物語が新たに加わっている。酒盛りをしていた蜀の人々が無名の将軍の墓をそうとは知らずに荒らしてしまい、ポルターガイストに遭遇するという内容だが、ここでも馬超への言及があり、「馬孟起が弓矢をもて人を盲にせしめたところで、なんの不思議があろうか」とある[193]

家系図

 
 
 
 
 
羌女
 
馬平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
⚫︎
 
馬騰
 
⚫︎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
⚫︎
 
 
 
 
馬岱
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
楊氏
 
馬超
 
董氏
 
馬休
 
馬鉄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
⚫︎
 
 
馬秋
 
 
 
劉備
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
馬承
 
超女
 
劉理
 
 
  • 『三国志』巻25楊阜伝注引皇甫謐『列女伝』・巻34劉理伝・巻36馬超伝・馬超伝注引『典略』より作成。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 陳寿撰、裴松之注『三国志』
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  • 張東「馬超与蜀漢政権」『襄樊学院学報』第6号、2008年、78-81頁。 
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  • 朱子彦、呂磊「論漢魏之際羌胡化的涼州軍事集団」『軍事歴史研究』第3号、2007年、107-117頁。 
  • de Crespigny, Rafe (2004). To Establish Peace: being the Chronicle of the Later Han dynasty for the years 201 to 220 AD as recorded in Chapters 64 to 69 of the Zizhi tongjian of Sima Guang. II (Internet ed.). Australian National University. ISBN 9780731525362. オリジナルの2006年8月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20060825060727/http://www.anu.edu.au/asianstudies/decrespigny/peace2_index.html 

関連項目

外部リンク

中国中央テレビ(CCTV)の教養番組『百家講壇』において、四川大学教授の方北辰が講演を行ったもの。Youtubeの公式チャンネルからも視聴可能。