馬屋原二郎
馬屋原 二郎(うまやばら[1] / うまやはら[2] / まやはら[3] じろう、1847年11月24日(弘化4年10月17日[3][注 1])- 1915年(大正4年)11月3日[2][注 2])は、幕末の長州藩士、明治・大正期の裁判官・政治家。貴族院勅選議員。別名、小倉衛門介[4]、小倉右衛門介・衛門太[5]。
経歴
長門国阿武郡萩江向村[4](現山口県萩市)で長州藩士・馬屋原良蔵の二男として生まれる[3][5]。同志と干城隊、御楯隊を組織して、馬関、三田尻に屯営し、下関戦争、第二次長州征討の小瀬川口の戦いなどに従軍し軍功を挙げた[1][3][5]。
明治2年(1869年)留学願を提出し、明治3年(1870年)周布金槌(周布公平)、光田三郎(光妙寺三郎)と共に長州藩費留学生としてフランスに派遣され、ベルギーの大学で法学を学んだ[5][6]。帰国後、1875年5月9日、司法省に入省し七等出仕、以後、判事に任官し、函館始審裁判所長、大審院評定官、神戸始審裁判所長、神戸重罪裁判所長、神戸地方裁判所長、大阪地方裁判所長、大審院判事などを歴任し、1898年11月30日、大審院判事を休職し、1899年2月3日退職した[2][4]。
1903年7月15日、貴族院勅選議員に任じられ[7]、在任中の1915年11月、東京市牛込区原町の自宅で療養中に死去した[2][8]。
栄典
- 位階
- 勲章
著作
- 『元治甲子禁門事変実歴談』防長学友会、1913年。
- 編『防長十五年史』馬屋原仙一、1915年。
- 訳書
- アントワーヌ・ド・サンヂョセフ著『英仏民法異同条弁』司法省、1882年。
- アントワーヌ・ド・サンヂョセフ著『各国民法異同条弁』司法省、1883年。