順天巡撫

順天巡撫 (仮名:じゅんてん じゅんぶ, 拼音:Shùntiān xúnfǔ) は、前期から初期にかけて存在した巡撫。明代における正式名称は「巡撫順天等府地方兼整飭薊州等處邊備」。[1]

明代

正統以降は都御史 (都察院の官職名) が巡撫を兼任する傾向が強く、「巡撫都御史」として財務・民政・監察という基本的な職務に加え、軍糧管理を中心とした軍務も担っていた。軍務については巡撫都御史の外にも、提督軍務、参賛軍務、賛理軍務、協賛軍務、鎮守といった各都御史が派遣されてきたが、英宗正統帝がオイラット軍に拘束された土木の変を境に、軍務を主務とする都御史、中でも提督軍務都御史と巡撫との併合が進むようになり、巡撫は強力な軍事的権限を握るようになっていた。[2]

英宗が再び践祚すると (天順帝)、天順初期に巡撫が革去 (廃止) され、後に復活するも軍事権限は取り払われたが、成化以降、巡撫は再び軍事権限を掌握するようになる。[2]成化2年 (1466) には順天に賛理軍務都御史[注 1]が初めて設置され巡撫を兼任し、順天永平の二府、後には河間真定保定を加えた五府、成化7年 (1471) には更に順徳広平大名の三府を加えた八府を管轄した。[1]

成化8年 (1472)、広大な畿輔 (近畿) の土地を分轄するため、居庸関を中心に東西で二分割し、東に新・順天巡撫、西に保定巡撫がそれぞれ設置された。順天巡撫は順天・永平の二府を管轄し、定員一名が遵化県 (現河北省唐山市遵化市) に駐在した。崇禎2年 (1629)、永平巡撫が分設され、山海軍務提督を兼務させたことで、順天巡撫の管轄区域は順天一府のみとなった。[1]

清代

清朝の北京入城 (明清交替) 後、順治帝直隷省に宣大総督と順天・保定・宣府の三巡撫を設置した。清代の順天巡撫は、明代同様に定員一名が遵化に駐在し、管轄区域は明代の永平巡撫を併合して順天永平の二府とした。

直隷においては直隷山東河南総督と順天・保定の統廃合が行われた。順治8年 (1651)、宣府巡撫が宣大総督に統合されて廃止された。[注 2]同13年 (1656)、宣大総督が順天巡撫に統合されて廃止された。[注 3][4]同18年 (1661) 旧暦10月には、直隷省に直隷総督が設置され、保定巡撫に統合される形で順天巡撫は廃止された。[5]

任職者着任年解任年
1宋權順治1年 (1644)順治3年 (1646)[6]
2柳寅東順治3年 (1646)[7]順治4年 (1647)[8]
3耿焞順治4年 (1647)[9]順治5年 (1648)[10]
4楊興國順治5年 (1648)[11]順治9年 (1652)[12]
5王來用順治9年 (1652)[13]順治10年 (1653)[14]
6祖重光順治15年 (1658)[15]順治18年 (1661)
7韓世琦順治18年 (1661)[16]順治18年 (1661)[17]

脚註

註釈

典拠

典拠

史書

論文

Web