青山忠裕

青山 忠裕(あおやま ただひろ / ただやす)は、江戸時代中期から後期にかけての大名老中丹波国篠山藩4代藩主。官位従四位下因幡守下野守。青山家宗家18代。

 
青山忠裕
時代江戸時代中期 - 後期
生誕明和5年5月8日1768年6月22日
死没天保7年3月27日1836年5月12日
官位従四位下因幡守下野守従三位
幕府江戸幕府 寺社奉行若年寄大坂城代京都所司代老中
主君徳川家治家斉
丹波篠山藩
氏族青山氏
父母青山忠高、桂香院
青山忠講
兄弟岡部長備正室、忠講牧野忠精正室、
忠裕、松平信弥正室、武田信誼室ら
土井利里養女、小川氏、鵜飼氏
忠良幸哉日野資敬松平忠誨正室ら
於久二
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生涯

明和5年(1768年)、2代藩主・青山忠高の三男として誕生した[1]天明5年(1785年)、兄で3代藩主の忠講が嗣子なく21歳で没したため、家督を継ぐ。忠裕は、寺社奉行若年寄大坂城代京都所司代と、およそ幕閣の登竜門とされる役職を残らず勤め、文化元年(1804年)に老中に起用されて30年以上勤めるなど、文化文政期の幕閣の中心人物として活躍した。老中在任中、相馬大作事件の裁判や、桑名藩忍藩白河藩三方領知替えなどを担当した記録がある。

文政元年(1818年)、藩領の王地山に、京焼の陶工欽古堂亀祐を招いて窯を開かせる。また、内政面では地元で義民とされる市原清兵衛ら農民の直訴を受け、農民が副業として冬季になど摂津国方面に杜氏として出稼ぎすることを認めた。

文政10年(1827年)5月7日、長年の幕政での功績により、遠江国に1万石を加増された。

天保6年(1835年)に老中を辞任。隠居し家督を四男の忠良に譲る。翌天保7年(1836年)没した。

逸話

  • 毎年春と秋に本所回向院で将軍臨席で大相撲があった。篠山藩の力士は毎年、真っ先に負け続きで忠裕はたいそう不機嫌であった。文政3年(1820年)春場所のある日、王地山平左衛門、波賀野山源之丞、飛の山三四郎、黒田山兵衛、曽地山左近、小田中清五郎、須知山道観、頼尊又史郎という8名の力士が篠山から出て来て、相撲を取らせてくださいというので忠裕が出場させたところ、全員が勝った。喜んだ忠裕が褒美を取らせようとしたところ全員どこにもおらず、後で調べたが篠山にはそんな名前の力士はいない、ただ篠山領の稲荷がまつられている地名ということがわかり、それぞれの稲荷神社へ感謝のためにのぼり絵馬を奉納したという。
  • 松平定信徳川治済大御所尊号をめぐって家斉と対立していたとき(尊号一件)、忠裕は家斉から諮問を受けた。忠裕は「上様は誠に孝心厚いことですが、国家にそのような先例は無く、故人ならまだしもご健在である治済公に追尊することは不可能なことで、越中守(定信)殿の申されることはもっともです」と答えて強く諫めたという(『続徳川実紀』)。
  • 老中職の座に通算31年3か月11日もおり、これは歴代の老中でもトップの年数である。
  • 経歴

    ※明治4年までの日付は旧暦。

    系譜

    脚注

    関連項目