隅田 (砲艦)
隅田(すみだ)は、日本海軍の砲艦。「伏見」[I]とともに日本海軍初の本格的な河用砲艦である。艦名は東京府(当時)を流れる「隅田川」による[2]。
隅田 | |
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基本情報 | |
建造所 | 製造:ソーニクロフト社(英国)[1] 組立:ファナムボイド社(上海)[2] |
運用者 | ![]() |
艦種 | 砲艦[2] |
母港 | 佐世保[3][1] |
艦歴 | |
計画 | 第二期拡張計画[4] |
起工 | 1903年11月10日[2] |
進水 | 1903年12月5日[2][5] |
竣工 | 1906年4月17日[2] |
除籍 | 1935年3月1日[6] |
その後 | 解体 |
要目 | |
基準排水量 | 公表値:110ロングトン (112 t)[2] |
常備排水量 | 計画:126ロングトン (128 t)[7][1] |
垂線間長 | 計画:143 ft 11 in (43.866 m)[7] または145 ft 0 in (44.196 m)[1] |
最大幅 | 24 ft 0 in (7.315 m)[7][1] |
吃水 | 計画:2 ft 0 in (0.610 m)[7][1] |
ボイラー | ソーニクロフト式缶 2基[1] |
主機 | 直立2気筒2段膨張レシプロ 2基[1] |
推進 | 2軸[7] |
出力 | 680 hp[1] |
速力 | 計画:13ノット[7][1] |
燃料 | 計画:石炭庫量24ロングトン (24 t)[7] 1920年調:24.6ロングトン (25 t)[1] |
乗員 | 計画乗員:40人[7] 竣工時定員:41名[8] |
兵装 | 計画[9] 6ポンド(57mm[10])速射砲 2門 機砲 6門 探照灯 1基 |
搭載艇 | 2隻[1] |
その他 | 船材:鋼[7] |
中国長江流域での権益保護の必要性から建造された。日本海軍籍にありながら一度も本土に寄港したことがないという珍しい艦となった。
計画
艦型
兵装
- 1920年 (大正9年) 時の兵装は1号6cm砲2門、陸式機砲1挺、麻式6.5mm砲4挺だった[1]。
- 1931年 (昭和6年) 時の兵装は1号6cm砲2門、留式機銃2挺、三年式機銃4挺だった[11]。
試運転
1906年4月16日に行った試運転の成績は以下の通り[12]。
排水量 | 回転数 | 出力 | 速力 | 備考 |
---|---|---|---|---|
174.5英トン | 180 rpm | 7.5ノット | ||
174.5英トン | 250 rpm | 9.73ノット | ||
174.5英トン | 290 rpm | 11.12ノット |
艦歴
建造
昭和3年内令第43号「艦船要目公表範囲」によると「イギリス、ソーニクロフト社で1903年 (明治36年) 1月29日起工、6月26日進水、8月4日竣工」[13][注釈 1]。一旦解体して上海に輸送された。
上海のファナムボイド社で同年11月10日起工[2](組立開始)。12月5日、第三号浅喫水砲艦を「
1905年 (明治38年) 12月に工事再開のために監督官らが派遣された[22]。
「隅田」は1906年 (明治39年) 4月16日に試運転を行い[12]、4月17日に竣工した[2]。
第一次世界大戦
第一次世界大戦において、当初、中国が中立の立場であったため、1914年 (大正3年) から翌年にかけて武装解除の上、抑留されたが、中国が連合国側に加わると復帰した。
昭和期
1931年 (昭和6年) 6月1日、砲艦に類別変更。翌年の第一次上海事変において、上海や長江方面の警備に従事した。1935年 (昭和10年) 3月1日に除籍[6]。その後売却され上海で解体された。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
- (兼)堀田英夫 大尉:1903年12月8日 - 1905年1月12日
- 堀田英夫 大尉:1905年11月12日 - 1907年10月31日
- 大井五郎 大尉:1907年10月31日 - 1909年10月1日
- 橋本虎六 少佐:1909年10月1日 - 11月12日
- 東条政二 少佐:1909年11月12日 - 1912年1月22日
- 福与平三郎 少佐:1912年1月22日 - 1913年12月1日
- 石川庄一郎 少佐:1913年12月1日 -
- 菊地豊吉 大尉:1917年8月16日 - 1918年12月1日[23]
- 津田静枝 少佐:1918年12月1日 - 1919年3月10日
- 中村英彦 少佐:1919年3月10日[24] -
- 柴田源一 少佐:1919年12月1日[25] - 1921年3月9日[26]
- 斎藤二朗 少佐:1921年3月9日 - 1921年12月20日
- 土居政道 少佐:1921年12月20日[27] - 1923年1月20日[28]
- 後藤英次 少佐:1923年1月20日 - 1924年5月1日
- 志賀忠一 少佐:1924年5月1日[29] - 1925年6月1日[30]
- 久重一郎 大尉:1925年6月1日[30] - 1926年12月1日[31]
- 益田康彦 大尉:1926年12月1日[31] - 1928年11月1日[32]
- 福田勇 少佐:1928年11月1日[32] - 1930年12月1日[33]
- 岸良幸 大尉:1930年12月1日[33] - 1932年5月2日[34]
- 沢勇夫 少佐:1932年5月2日[34] - 1933年11月15日[35]
- 河野康 少佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
- (兼)阿部俊雄 少佐:1934年11月15日 - 1935年3月1日
脚注
注釈
出典
参考文献
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- アジア歴史資料センター
- 防衛省防衛研究所
- 公文備考
- 「諸軍艦の部 1(1)」『明治37年 公文備考 巻5 艦船2』、JACAR:C06091538600。
- 「軍艦隅田、伏見製造(3)」『明治39年 公文備考 巻12 艦船3 軍艦隅田、伏見製造』、JACAR:C06091735200。
- 「軍艦隅田、伏見製造(5)」『明治39年 公文備考 巻12 艦船3 軍艦隅田、伏見製造』、JACAR:C06091735400。
- 「軍艦隅田、伏見製造(6)」『明治39年 公文備考 巻12 艦船3 軍艦隅田、伏見製造』、JACAR:C06091735500。
- 「軍艦隅田、伏見製造(7)」『明治39年 公文備考 巻12 艦船3 軍艦隅田、伏見製造』、JACAR:C06091735600。
- 海軍公報
- 「4月」『昭和10年 海軍公報 (部内限)』、JACAR:C12070353800。
- 内令提要
- 「第3類 艦船(1)」『第72号 7版 内令提要 完』、JACAR:C13072068600。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集 航空母艦・水上機母艦』ダイヤモンド社、2005年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 31巻、朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1969年。
- 『官報』
関連項目
- 隅田 [II] (砲艦)