陘城の戦い
春秋戦国時代の戦い
陘城の戦い(けいじょうのたたかい、繁体字:陘城之戰、簡体字:陉城之战)は、紀元前264年に秦が韓を攻めた戦争。
陘城の戦い | |
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戦争:陘城の戦い | |
年月日:紀元前264年 | |
場所:陘城(現在の山西省臨汾市曲沃県の北東) | |
結果:秦軍の大勝 9城を取って、5万人を斬首した | |
交戦勢力 | |
秦 | 韓 |
指導者・指揮官 | |
白起 | 不詳 |
損害 | |
不詳 | 50,000(斬首) |
魏の范雎は魏の国相の魏斉の迫害を受けて、秦に亡命した[1]。范雎は秦の昭襄王に客卿の身分で進言した。「穣侯はいま韓や魏と結んで斉を討とうとしているが、これは間違いです(仮に勝って領土を奪ってもそれを保持することができないため)。それよりも遠く(趙・楚・斉)と交わり、近く(魏・韓)を攻めるべきです。そうすれば奪った領土は全て王のものとなり、更に進出することができます」と。これが著名な遠交近攻である[2]。昭襄王は范雎の策を受け入れ、韓と魏への侵攻を始めた。
紀元前264年、秦の昭襄王は武安君白起に韓の陘城(現在の山西省臨汾市曲沃県の北東)に侵攻するように命じて、韓の陘城を含む、9つ(あるいは5つ)の城邑を取り、韓軍5万を斬首した。この戦いが陘城の戦いである[3][4]。
紀元前263年、白起は軍を率いて、南陽の太行山道を封鎖した。
紀元前262年、白起は再び韓を攻めて野王を取り、上党郡と韓の本土が切断され飛び地となった。上党郡守は趙に投降することを決めたが秦が侵攻した[5][6]。これが40万人の穴埋めで著名な長平の戦いである。