銅梁区
銅梁区(どうりょうく)は中華人民共和国重慶市に位置する市轄区。
中華人民共和国 重慶直轄市 銅梁区 | |
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別称:龍郷 | |
県名の源は境界内の小銅梁山や銅梁山 | |
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簡体字 | 铜梁 |
繁体字 | 銅梁 |
拼音 | Tóngliáng |
カタカナ転写 | トンリャン |
ひらがな転写 | どうりょう |
国家 | ![]() |
直轄市 | 重慶 |
行政級別 | 市轄区 |
建置 | 唐代 |
区を設立 | 2014年(平成26年) |
区長 | 万 隆 |
区委書記 | 譚 慶 |
面積 | |
総面積 | 1,340.47 km² |
人口 | |
総人口(2020) | 68.5729 万人 |
経済 | |
GDP(2022) | 733.63億元 |
一人あたりGDP | 106,632.27元 |
電話番号 | 023 |
郵便番号 | 402560 |
ナンバープレート | 渝C |
行政区画代碼 | 50 01 51 |
市樹 | Ficus virens Aiton(イチジクの一種) |
市花 | シクンシ(使君子) |
公式ウェブサイト: http://tl.cq.gov.cn/ |
地理
位置と境域
銅梁区は長江上流地区、重慶北西部に位置する。東経105°46′22′′から106°16′40′′、北緯29°31′10′′から30°5′55′′の間に位置している。西南は大足区、東北は合川区、南は永川区、西北は潼南区、東南は璧山区に隣接し、南北の長さは62キロメートル、東西の幅は約48キロメートル、面積は1340.47平方キロメートルである[1]。
地質と地形
銅梁区の地質構造は新華夏系四川沈み込み帯に属し、盆中回転構造帯と盆東アーチ形構造帯の間の過渡帯、華蓥山隠伏断裂帯は区境中部を縦断し、区境地質構造を2つの部分に分け、東部は川東平行褶曲帯、西部は川中台向斜褶曲帯である。全区の出露地層は白亜系、第三系を除いて、三畳系の下三畳系統飛仙関組(かさんじょうけいとうひせんかんそ)から第四系の新、旧沖積物まで皆分布するところがある。一番広く分布するのは全区の面積の87.1%を占めるジュラ系砂質頁岩、次は12%を占める三畳系地層、残りは散発的に分布する第四系である。
銅梁区は渝西丘陵と渝東平行嶺谷を繋ぐ所に位置する。地形は多様で、丘陵を主とする。地勢は西南が高く、東北が低い。南東部は毓青山(いくせいさん)と巴岳山(はがくさん)が相対峙する。境内の最高点は海抜885メートル(燃灯寺)、最低点は海抜185メートル(旧県街道永清村張渡口)。
気候の特徴
銅梁は亜熱帯湿潤気候に属し、気候資源が豊富で、標高によって違いがあるいわゆる立体気候である。気候の全体的な特徴は春は早く訪れ、夏は暑く、秋は雨が多めで、冬は暖かい。降水量は暑い季節に多く、冬は少ない。日照が少なく、風が弱く、曇りと霧が多く、主な災害性天気は豪雨、雹、霜、凍結などがあり、気候リスクは全般的に低い。銅梁の気候は温和で、四季がはっきりしていて、雨量が豊富、空気が湿潤、温度差が大きく、快適で、空気が澄み、気候が穏やかなので、生活、レジャー、観光、療養の名所と認められる。年平均気温は18.4℃、年平均最高気温は22.1℃、年平均最低気温は15.7℃、観測史上最高気温は44.1℃(2006年9月1日)、観測史上最低気温は-2.5℃(1975年12月15日)である。年平均降水量は1082.4mm、最大年降水量は1482.2mm(1968年)、最小年降水量は680.8mm(2006年)、最大日降水量は233.4mm(2009年8月3日)である。年平均日照時間は1091.4時間、年平均相対湿度は80.4%、年平均風速は1.0m/sである[2]。
歴史
古代
今からおよそ2万年前の旧石器時代の晩期に,銅梁はすでに人類の活動していた跡がある。発見された遺跡は「銅梁文化」と呼ばれる[3]。
春秋戦国時代、今の銅梁区域は巴(は)国の属地。楚威王11年(紀元前329年)、楚国が巴国を滅ぼして、威王が彼の庶子を濮江(ぼっこう)の南(今の合川〈ごうせん〉と銅梁)に分封し、号を「銅梁侯」にした[4]。
秦時代には銅梁は巴郡の墊江(てんこう)県の属地。南朝の宋の永初元年(420年)、東宕渠(とうとうきょ)郡を設立し、宕渠(とうきょ)県に隷属した。西魏恭帝3年(556年)合州を設置し、東宕渠県を墊江郡に、宕渠県を石鏡(せっきょう)県にした。
唐武周長安三年(703年)[5]、合州刺史陳靖意(ちんせいい)は大足川(だいそくせん)の移民が集まるを以て上奏してから、石境県の土地を分割して銅梁県を設置し、合州に隷属した。
最初の頃、治所が奴侖(ぬろん)山の列宿壩(れつしゅくは)(今の潼南〈どうなん〉区塘壩〈とうは〉鎮)にあった。開元3年(715年)に武金坑(ぶきんこう)(今の合川区太和鎮富金壩〈ふきんは〉)に移った[6]。開元16年(728年)に東流渓壩(とうりゅうけいは)(今の潼南区彙集郷戴場壩〈たいじょうは〉)に移った[7]。
建県初期、銅梁県に従属する地域が今の銅梁区、合川区の南西部、潼南区の南部、大足(だいそく)区の瀬渓(らいけい)河の流域を含んだ。開元23年(735年)、合州刺史孫希荘(そんきそう)は上奏して石境県の南部、銅梁県の東部を分けて、巴川(川の名)を名として巴川(はせん)県を設置し、依然合州に従属した[8][9]。天宝元年(472年)、合州が巴川郡にした。乾元元年(758年)、巴川郡の名が合州に戻して、南西部を新設置した大足県に帰属した[10][11]。
北宋熙寧4年(1071年)、赤水(せきすい)県が銅梁県に合併されて、熙寧7年(1074年)に独立の県に戻す[12]。宋朝時代、銅梁・巴川二県が合州に従って、相次いで梓州(ししゅう)路、潼川府(どうせんふ)路に隷属した。
元至正17年(1280年)、巴川県は銅梁県に合併されて、依然合州に従属した[13]。銅梁の境域は南東へ広がった。もと巴川県全域と今の安居(あんきょ)、白羊(はくよう)を除いて、かつて銅梁に属する今の合川、潼南、大足の部分がそれぞれ石照(せきしょう)県、大足県、遂寧(すいねい)州遂寧県に帰属した。同年、銅梁の治所が戴場壩から巴川鎮に移った。至元22年(1285年)、大足県は銅梁県に合併した[14]。この頃、銅梁県に従属する地域は今の銅梁県の大部、大足区、永川区の大部、栄昌(えいしょう)区と隆昌(りゅうしょう)市の東部を含んだ[15]。至正13年(1363年)、明玉珍(めいぎょくちん)は帝位につき、明夏(めいか)を建国して、大足・昌寧(しょうねい)二県を独立の県に戻した。元末、もと巴川県に隷属する雍渓(ようけい)、曲水(きょくすい)が大足県に帰属した[16][17]。
明成化17年(1481年)銅梁県の一部と潼川州遂寧県の一部を安居渓[18](川の名)を名として安居(あんきょ)県を設置し、重慶府に隷属した[19]。
清康熙元年(1662年)、安居・銅梁二県を取り消して合州に合併された。康熙60年(1721年)、もと安居・銅梁二県に属した区域で銅梁県を再設置し、重慶府に従属した[20]。乾隆41年(1776年)に安居を安居郷にしたけれども、訓導、巡検、汛部庁外委(しんぶちょうがいい)、把総(はそう)など部分の県級機関が光緒29年(1903)まで保留した。
『新唐書』が銅梁・巴川両県を「中」[21][8][22]、『宋史』が巴川を「中」[23]、銅梁を「中下」[12]、『元史』が銅梁を「下」[13]、『清史稿』が銅梁を「繁」[20]と評価した。
現代
清宣統3年(1911年)9月、銅梁が「保路同志分会」を成立した。同年11月24日、銅梁県軍政府が成立して、県公署を知事公署にした。
中華民国2年(1913年)、省、州、府、庁の区画が取り消された。銅梁県が川東道[24]に隷属した。民国11年(1922年)、川軍と黔(けい)軍が混戦に入れた。1年内に、銅梁の駐兵は10回、知事が12回交替した[25]。
民国16年(1927年)12月、中国国民党銅梁県支部が成立した。民国17年(1928年)1月、中国共産党銅梁県特別支部が成立した。同年10月、中国共産党銅梁県委員会が成立した。翌年、銅梁県が四川省政府に直属した。民国24年(1935年)、銅梁県が四川省第三行政監察区に属した。
1949年12月2日、中国人民解放軍12軍34師が銅梁を解放した。12月22日に銅梁県人民政府が成立した。新成立の銅梁県が川東行政公署璧山(へきさん)専員公署に隷属した。璧山専員公署が1951年に江津(こうしん)専員公署に、1968年江津地方に、1981年永川地区にした[26]。1983年、重慶市は計画単列市にしてから永川地区が取り消され、銅梁は重慶市に管轄されることになった[27]。1997年3月14日重慶市が直轄するあと、銅梁県が継続して重慶市に属した[28]。2014年5月2日、銅梁は区にすると宣告した。同年7月15日、銅梁区は正式に成立した[29]。
行政区画
下部に5街道、23鎮を管轄する。
交通
健康・医療・衛生
2020年末まで、銅梁区内は6個の区級医療衛生機構、23個の鎮(センター)衛生院、5個の街道コミュニティ衛生服務センター、243個の社会的医療機構、558個の村衛生室(点)がある。全区の医療衛生機構人員が6000人近く、総計ベッド数は4千個以上。