足利頼純

日本の戦国時代~安土桃山時代の武将。小弓公方足利義明次男

足利 頼純/頼淳(あしかが よりずみ/よりあつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士。別名に喜連川頼純

 
足利 頼純
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文元年(1532年
死没慶長6年5月4日1601年6月4日[1]
改名国王丸[2](幼名)→頼純
別名頼淳[3]、喜連川頼純
氏族足利氏小弓公方
父母父:足利義明
兄弟義純頼純、雪下等覚院某、
青岳尼里見義弘正室)、足利晴直(上杉憲寛)正室、旭山尼
女子、月桂院豊臣秀吉側室)、国朝頼氏、瓊山法清尼(東慶寺19世)
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生涯

天文元年(1532年)、小弓公方足利義明の次男として誕生した。天文7年(1538年)に第一次国府台合戦で父・義明が戦死すると、安房国里見氏を頼って落ち延び、その庇護を受けた。幼時には石堂寺に預けられたとみられている[4]

元服後は小田喜に滞在した[5]里見義頼梅王丸の家督争いの際には義頼に偏諱を与えたとする見方がある一方[6]で、それに続く義頼と正木憲時の争いの時には後者についたとする見方がある(千野原靖方説)。後北条氏豊臣秀吉による小田原征伐によって下総国から撤退すると、その機に乗じて里見義康と共に父が住した小弓城を奪還した様である[7]。「義」の字を家臣の逸見氏に付与しており、意識の上では関東足利氏正統として、その秩序の管理者として振る舞っていた[5]

娘の嶋子(のちの月桂院)が秀吉の側室となったことと、足利氏の血を引くことから大名として復帰を許され、嫡男・国朝下野国喜連川城を領した。ほかに娘として鎌倉東慶寺19世瓊山法清がいる。

慶長6年(1601年)、死去した。

脚注