財津一郎

日本の俳優、コメディアン、歌手 (1934-2023)

財津 一郎(ざいつ いちろう、1934年昭和9年〉2月22日 - 2023年令和5年〉10月14日)は、日本俳優コメディアン歌手

ざいつ いちろう
財津 一郎
本名財津 永栄(ざいつ ながひで)
別名義財津 肇メ
生年月日 (1934-02-22) 1934年2月22日
没年月日 (2023-10-14) 2023年10月14日(89歳没)
出生地日本の旗 日本熊本県熊本市
死没地日本の旗 日本東京都
身長176 cm
血液型O型
職業俳優コメディアン歌手
活動期間1955年 - 2011年
配偶者財津ミドリ(死別)
著名な家族財津功(息子)[1]
財津優太郎(孫)[2]
事務所志母澤事務所
主な作品
テレビドラマ
新宿警察
3年B組金八先生』シリーズ
秀吉
天花
映画
連合艦隊
バラエティー番組など
てなもんや三度笠
CM
こてっちゃん
タケモトピアノ
日本フルハップ
 
受賞
日本アカデミー賞
優秀助演男優賞
お葬式』(1984年
その他の賞
ゴールデン・アロー賞
演劇賞1974年
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本名:財津 永栄(ざいつ ながひで)[注釈 1]、旧芸名:財津 肇メ。熊本県熊本市出身[4]熊本県立済々黌高等学校卒業[4]

生涯

生い立ち

財津家は、神武天皇の時代から続くというほどの名家であった[3]。父親は農林省(現:農林水産省)の役人で、3人兄弟の末っ子として東京に住んでいた、第二次世界大戦において、父が中国大陸へ日中戦争に出征したため、1944年に一家は故郷の熊本へ疎開した。

1947年に、阿蘇にある財津家の土地を守るために阿蘇郡黒川村(現・阿蘇市)へ移住、学校もそれまで通っていた済々黌中学校から阿蘇農業高等学校(現・熊本県立阿蘇中央高等学校)へ転校した。

1949年に再び、熊本市へ戻って済々黌高校に復学し[5]、高校生時代は水球部で活動した[6]。終戦後も、高校を卒業するまでを熊本で過ごした[7]

演技の道へ

1953年、上京後に早大文学部演劇学科受験に失敗。早大近くの印刷店などでアルバイト生活をしつつ[8]、当時東京都大田区にあった榎本健一映画演劇研究所(いわゆるエノケン学校)で演技を勉強する[9]。同時に帝劇ミュージカルの研究生になる。

エノケン学校卒業後は「もっと東京で修業を積みたい」として撮影所入りなどはせずに過ごしていたが、偶然ある野球場で憧れの仲代達矢に会ったことがきっかけで発奮し[9]1955年、帝劇ミュージカル解散の後、財津肇メ(ざいつ はじめ)の芸名で石井均一座に入門[注釈 2]

また、新宿の劇団「ムーラン」の舞台に立った。その「ムーラン」も数年後解散の憂き目に遭い、一時は大阪からやり直しと宝塚新芸座からOSミュージックホールと歩いた[12]

吉本新喜劇へ

1962年吉本興業に入り[13]1964年吉本新喜劇に参加、芸名を現在の財津一郎に改める。この芸名の名付け親は当時の吉本興業社長の林弘高で、「吉本では大衆的な名前でいかなあかん。本名は堅苦しい。一郎と言えば河野一郎有島一郎。みんな大物や」という名付け理由だったという[11]

1965年に吉本新喜劇座長に就任[5]。新喜劇では初期はサラリーマン役が多かったが、その後「老け役」が多くなっていった[14]

藤田まこと主演の『てなもんや三度笠』に浪人・蛇口一角(へびぐち いっかく)役で出演し、手を頭の後ろから回して反対側の耳をつかんで甲高い声で叫ぶ「ヒッジョーにキビシ〜ッ!」「〜してチョーダィ!」のギャグや抜いた刀の刃を蛇のようになめまわす、といった奇怪な動きが評判となり、一世を風靡ふうびした(当初はギャグで言った台詞ではなかったそうで、演技中に突発的に奇声を発すると予想外にウケたことが由来)[15]

なお、途中からは写真師・桜富士夫(さくら ふじお)役に変更になったが、レギュラー陣の一角を担った。当初はレギュラー出演の予定ではなかったが、奇人変人ぶりがあまりにも好評だったため、レギュラー化して最終回まで出演した。ちなみに役名の蛇口一角は、忠臣蔵清水一角(しみず いっかく)のもじり、桜富士夫はフィルムのブランドのさくらカラー(現:コニカミノルタ)とフジカラーからとられたもの。最初は、台本にあった自分の役名の蛇口をそのまま「じゃぐち」と読んでしまい、「アホ」と言われたという[16]

活動拠点を東京に

1969年に吉本興業を退社して東京に活動拠点を移し、志母澤事務所に移籍[5]

1970年代前半はコミカルな芝居でさまざまな喜劇作品に出演するが、やがて硬軟使い分ける俳優として映画、テレビドラマの話題作や大作に出演。なかでも1981年連合艦隊』では、中井貴一扮する神風特別攻撃隊に志願した青年の父親でもある海軍兵曹長役が、それまでのコミカル路線とは一線を画す重厚さで観ている側に強い印象を与えた。

1995年、61歳の時に脳内出血を発症し、開頭手術後は左半身に軽い麻痺が残ったが、リハビリに励んだ結果、3ヶ月後にテレビドラマの仕事に復帰した。

2010年11月13日公開の映画『ふたたび swing me again』に主演[注釈 3]。体力的な不安があったというが、監督の塩屋俊が何度も説得したことから出演を承諾し、撮影期間中は役を演じることのみに集中して、最後までやり遂げた[17]第23回東京国際映画祭の舞台挨拶に登壇した際、「この映画の出演は(俳優生活の)最後のごほうびだと思って演じました」と語っていた[18]

2011年3月27日放送の『3年B組金八先生ファイナル』の出演を最後に[19]、亡くなるまで芸能活動を休止していた。

晩年

2015年、『熊本日日新聞』において人生をふり返ったコラム「私を語る」を連載し、同年9月にそれを1冊にまとめた初の著書『聞いてチョウダイ 根アカ人生』を発売した。

2019年に元朝日放送プロデューサーの澤田隆治時代劇専門チャンネルでの『てなもんや三度笠』特別記念番組の出演依頼をかけたところ、体調不良を理由に出演を辞退されたといい[20]、同年に財津自身もメディアのインタビューに応じ、「脳出血など病気もやったことと、家内(妻)の具合が悪いことなどあり仕事は全て断っている」と語り[21]、翌2020年2月には妻に先立たれた[22]

2023年新潮社(デイリー新潮)のインタビューに応じ、毎朝4時半に起床して体操ヨガを日課としていること、家の掃除や洗濯も自分でやっていること、運転免許証を返納したこと、月1回のゴルフを目下の楽しみにしていることなどを語った[23]

同年9月末に長年出演していたタケモトピアノのCM出演契約が終了した。CMは同年8月まで放映されており、最終バーションは23年間放送され、年契約で毎年更新されていたという[24][25](同年11月よりナレーションベースの新CMが放送されている[26])。

逝去

2023年10月14日午後5時、慢性心不全のため東京都内の自宅で死去。89歳没。同月18日に通夜、同月19日に告別式が近親者により執り行われ、訃報は同月19日の一部メディアの記事によって伝えられている[27][28]

人物

  • 同じ昭和9年(1934年)生まれの愛川欽也坂上二郎長門裕之牧伸二森山周一郎藤村俊二大橋巨泉山本文郎睦五朗らとは「昭和九年会」を結成していた[29]
  • 長男・功(1961年8月22日 - )は日本テレビプロデューサー[30]で、孫・優太郎(1999年7月5日 - )は俳優である[31]
  • 人気があった反面、「クドい」と言われることも少なくなかったが、本人の持ち味であり、自覚もしていた[注釈 4]
  • 吉本新喜劇に出演していた頃はアドリブで仁丹を使ったネタをやったところ、当時の新喜劇のテレビ中継のスポンサーだった大正製薬を怒らせてしまった[注釈 5][32]
  • 森繁久彌から共演の誘いがあったが断っている[33]
  • ある舞台で演出家とBGMで揉め、好きなジャズを流すように財津が勧めたが、演出家は断固として拒否した。しかし、この演出家は「財津さんは、『枠を打ち破るパワー』のある人。だから、わざと枠に閉じこめ、それを壊すくらいの演技をしてほしかったからだ」と財津の高い演技力あってこその演出法だった、と述べている。
  • 一時期、楽屋での食事の時間を惜しみ、開演5分前になって到着したラーメンに「どうせ腹に入ったら一緒だ」として、急いで側にあったアンパンを放り込んで食べたりしており、周りからは「財津ラーメン」と呼ばれるなどしてしばらく変人扱いされた[34]
  • 歌手の財津和夫と縁戚関係があるとされる[35]。従来は血縁関係はないとしていた。ちなみにファンレターが間違って届くことがあったという(「財津さんへ」とは書かれているが、読んでいくうちに内容が音楽のことばかりのため、人違いに気づくという)。そんな縁もあってか、一郎の出身校である済々黌に向けて、『済々黌純情』という歌も書いている。

CM出演

  • 財津の奇声は『こてっちゃん』などのCMでも評判となった[36]
  • 長年にわたりタケモトピアノのCMが放映されていることから、関西圏でもブレイク。「CM中の財津の歌声を聞くと赤ちゃんの泣き声が止まる」と『探偵!ナイトスクープ』などで紹介された[注釈 6][37]。作り替える必要がないという理由で、タケモトピアノのCMは2023年8月の放映終了まで同じものが使われ続けた[20][38]
  • 日本電気(NEC)『バザールでござーる』のCMにも、1991年から2004年まで声で出演していた[36]
  • 「バブル経済」という言葉の語源は、彼が出演していた原ヘルス工業「バブルスター」のCMである。当時の「新潮45」の論文中にこのCMを揶揄して、「CMもバブルなら経済もバブルで、今の経済はバブル経済と言うべき云々・・・」という風に書かれておりこれをきっかけとして「バブル経済」という言葉が広まった。この言葉によって、好調であった景気が「好ましからざる状況」と誤って捉えられ、その後の長期不況をもたらす元となった。

ギャグ

ひっじょーにきびしーいっ
、、してちょーだい
吉本新喜劇で用いられていたギャグ[39][40]。 
元々こういった台詞は吉本新喜劇の台本に無く、新喜劇で兄弟役で出演していた花紀京との演技で「銭湯健康ランドのように改装しないとこれからの時代はやっていけない」というくだりがあり、そこで「銭湯を続けられないのは…」の所で思わず「サビシィ~!」と大声で発したら観客がウケたということで、それからこれらを持ちギャグとして発するようになったという[41]
これらのギャグは「いつでも私の原点」と話している[41]

作品

シングル

アルバム

  • NHKみんなのうたより 大全集6〜おふろのうた〜(1991年)
    同アルバム収録の「ぼくは大きな石ころさ」を歌っている。
  • モダンチョキチョキズのアルバム「くまちゃん」(1994年)
    同アルバム収録の「くまちゃん」で、濱田マリとデュエットしている。

出演

テレビドラマ

映画

Vシネマ 

  • (暴)株式会社1・2(1993年)- 平岡公平

アニメ

ラジオ

ナレーション

バラエティ

CM


著書

脚注

注釈

出典

参考文献

関連項目

外部リンク

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