藤原忠君

平安時代中期の貴族・歌人

藤原 忠君(ふじわら の ただきみ)は、平安時代中期の貴族歌人。名は忠尹とも記される[1]藤原北家右大臣藤原師輔の五男。官位正四位下右兵衛督冷泉天皇円融天皇外叔父

 
藤原 忠君
時代平安時代中期
生誕不明
死没安和元年(968年
別名忠尹
官位正四位下右兵衛督
主君村上天皇冷泉天皇
氏族藤原北家九条流
父母父:藤原師輔、母:藤原盛子藤原経邦の娘)
養父:藤原忠平
兄弟伊尹兼通安子兼家遠量忠君、遠基、遠度登子源高明室、高光愛宮為光尋禅、深覚、公季、怤子、繁子、源重信
藤原尹風の娘、源俊の娘、藤原伊尹の四女
頼隆、頼定、有道、朝寿、禅智、源俊賢正室、藤原時明
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経歴

藤原師輔の五男として生まれるが、祖父の藤原忠平の養子となる[2]

右衛門佐を経て、天徳2年(958年村上天皇五位蔵人に任ぜられる。天徳4年(960年)正月には兄弟の藤原伊尹兼通兼家遠量と共に叙位を受け、正五位下に叙せられる。前代未聞の兄弟5人の叙位という栄誉に対して、父・師輔は「若是栄華之極哉」と述べたという[3]。同年10月右兵衛督応和2年(962年従四位下に叙されて蔵人を去る。

康保4年(967年)同母姉・安子所生の冷泉天皇が即位するが、翌安和元年(968年)卒去[2]。最終官位は右兵衛督正四位下。3人の同母兄(伊尹・兼通・兼家)が円融朝で外戚として摂関を歴任した一方、忠君は早逝したため公卿昇進を果たせなかった。

歌人であり、天徳元年(957年)清涼殿詩合、天徳3年(959年)清涼殿女房歌合で方人を務め、応和2年(962年)清涼殿前栽合にも出詠した。勅撰歌人として、和歌作品が『拾遺和歌集』に2首入集している[4]

官歴

系譜

尊卑分脈』による。

脚注

出典