細川興貫

日本の江戸時代後期~明治時代後期の大名・知藩事・子爵・政治家。常陸谷田部藩8代藩主細川興建長男で、谷田部藩9代藩主→下野茂木藩主。従五位下玄蕃頭

細川 興貫(ほそかわ おきつら)は、江戸時代後期の大名明治時代華族子爵)、政治家常陸国谷田部藩9代藩主、初代藩知事、貴族院の子爵議員などを歴任。位階正三位

 
細川興貫
細川興貫
時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕天保3年12月8日1833年1月28日
死没明治40年(1907年9月11日
改名辰十郎(幼名)、興貫
戒名興信院殿正三位勲四等子爵貫忠宗徹大居士
墓所東京都練馬区桜台広徳寺
官位従五位下玄蕃頭正三位
幕府江戸幕府
主君徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
常陸谷田部藩主、下野茂木藩知事
氏族谷田部細川家
父母父:細川興建、母:細川興徳養女
兄弟興貫、嵯久、加藤泰壮、寅二郎
細川行芬之寿
興嗣(長男)、理、鎮、堀親篤(次男)、亀井貫一(三男)、健麿(四男)
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生涯

天保3年(1832年)12月、常陸谷田部藩8代藩主・細川興建の長男として誕生した。嘉永5年(1852年)9月6日、父の隠居により家督を継ぎ、従五位下・玄蕃頭に叙位・任官する。藩政では凶作が続いて百姓一揆も頻繁に起こり、藩財政も苦しかったといわれる。

慶応4年(1868年)3月、家臣119名を率いて上京し、京都警護を務めて新政府に恭順の意を示した。明治2年(1869年)6月22日に版籍奉還で谷田部藩知事となる。明治3年(1870年)12月、藩庁を茂木に移して茂木藩を再立藩し、明治4年(1871年)2月8日に茂木藩知事に任じられた。直後の7月14日、廃藩置県により知藩事を免職された。

明治17年(1884年)の華族令子爵となった。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選ばれて、明治37年(1904年)7月10日まで2期務めた[1]。明治40年(1907年)9月11日、東京府浅草の今戸で死去した。享年76。

家族

父母

子女

  • 細川興嗣(長男)
  • 理子 - 大岡忠明正室
  • 鎮 - 松井将之室
  • 堀親篤(次男) - 堀親義の養子
  • 亀井貫一(三男)
  • 細川健麿(四男)

脚注

参考文献

  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
谷田部細川家初代
1884年 - 1907年
次代
細川興嗣