米倉昌晴

米倉 昌晴(よねくら まさはる)は、江戸時代中期の大名若年寄武蔵国金沢藩3代藩主。六浦藩米倉家6代。官位従五位下丹後守

 
米倉昌晴
時代江戸時代中期
生誕享保13年4月22日1728年5月30日
死没天明5年12月20日1786年1月19日
改名長之助(幼名)、昌晴
戒名政運道香義徳院大居士
墓所東京都渋谷区の長谷寺
官位従五位下丹後守
幕府江戸幕府 奏者番若年寄
主君徳川家重家治
武蔵金沢藩
氏族米倉氏
父母米倉昌倫、堀田氏
米倉里矩
兄弟昌長、昌晴
柳沢保経娘・瑞泉院
島津久芳娘
田中氏
昌賢、晴光、戸田光知、本多忠福、
遠山景祥正室、今大路正庸室ら
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略歴

享保13年(1728年)4月22日、分家で3000石の旗本である米倉昌倫の次男として誕生。寛延2年(1749年)、2代藩主・米倉里矩が子無くして早世したため、その養子となって跡を継いだ[1]。同年5月に9代将軍・徳川家重御目見し、12月に叙任する。

明和元年(1764年)8月に大番頭となり、安永5年(1776年)1月に奏者番、同年4月に日光祭礼奉行、安永6年(1777年)4月に若年寄など、要職を歴任した。しかし天明4年(1784年)4月、同じ若年寄である田沼意知が暗殺されると、罪を得て[2]連座により謹慎処分となった。同年5月に許されて西の丸御付となる。

天明5年(1786年)、病を得て若年寄を辞任しようとしたが、許されずに在職中のまま死去した。享年58。

跡を次男・昌賢が継いだ。

系譜

父母

  • 米倉昌倫(実父)
  • 堀田氏 ー 側室(実母)
  • 米倉里矩(養父)

正室、継室

  • 瑞泉院 ー 柳沢保経の娘(正室)
  • 島津久芳の娘(継室)

側室

  • 田中氏

子女

  • 米倉昌賢(次男)生母は田中氏(側室)
  • (三男)
  • 戸田光知
  • (七男)
  • 本多忠福[3](八男)
  • 遠山景祥正室後に米倉昌喜正室
  • 今大路正庸室

脚注

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