田中氏

日本の氏族

田中(たなか)は、日本の苗字のひとつ。明治新姓として農民身分が多く名乗ったことから、非常に多くの地域に亘って存在する。神主による一括姓名拝領式における、「すすきが転じて鈴木」と同様に、「田んぼの仕事してるから田中」、となったことが多数である苗字である。

吉政系 田中氏

出自は近江国人で近江源氏とも橘氏とも清和源氏新田氏一族ともいわれるが、田中吉政の父の名も系図により食い違うなど判然とせず、実際は近江国高島郡田中村(滋賀県高島市安曇川町田中)の農民の子にすぎなかったともいわれる。また、宇多源氏佐々木支流であるとも言われ、その後(家紋に一つ目結を使っている)淵上氏に分家したともいわれる。いずれにせよ家紋に一つ目結紋(釘抜き紋ともいう)を用い佐々木氏と関連付けを図ったことが確認できる。戦国時代の田中吉政は、はじめ近江国人の宮部継潤に仕えた後、天正7年(1579年)ごろ羽柴秀吉に仕える。その後秀吉の甥羽柴秀次の付家老となる。文禄4年(1595年)の秀次切腹騒動の後、多くの関係者が連座して罰せられたが、吉政は秀次の付家老という密接な関係ながら、咎めを受けることはなかった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に付く。そして戦に敗れ伊吹山を逃亡中の、西軍大将石田三成を捕らえることに成功した。この大功により、筑後国柳川32万石を与えられた。しかし、吉政没後に跡を継いだ2代藩主田中忠政は子を残さないまま死去、柳川藩は無嗣断絶となり立花氏に継がれた。

その後、忠政の兄田中吉興が2万石を与えられたが、部下の罪を咎められてこちらも改易処分となった。以後、田中氏一族は旗本陪臣として続いた。

系図

太線は実子。細線は養子。鈴木真年編による『古代氏族系譜集成」所収田中氏系図による橘義清 ┃清順 ┃貞成 ┃盛清 ┃盛親 ┃親清 ┃親信 ┃田中重信 ┃重治 ┃重則 ┃重寛 ┃重政 ┣━━┳━━┓吉政 清政 氏次 ┣━━┳━━━━┳━━━━┳━━┓吉次 吉信 吉興(康政?) 忠政 庸政 ┃  菅沼定盈  |       ┃ ┃   ┣━━┓|       ┃吉勝 菅沼定芳 吉官      栄政 ┃  (六男) (八男) ┃   ┃┌──┫政信   定房 定格 ┃   (三男) ┃ ┃        ┃政之      定賢 ┃        ┃信之      定安 ┃元陳

田丸系田中氏

北畠政郷-田丸具業(顕晴)-田丸具忠-田丸直昌-田中玄儀-田中玄重-田中正玄、会津藩始祖

里見系 田中氏

新田系里見氏一族。里見義俊(大新田竹林太郎)の次男・田中義清を開祖とする。

『千家系譜』、『千利休由緒書』によると、安土桃山時代茶人千利休(田中与四郎)はその末裔と称したが[1]、確証はない。

岩松系 田中氏

足利系岩松氏一族。畠山義純の次男・田中時朝を開祖とする。明治時代政治家社会運動家として著名な田中正造はその末裔という。

植松系 田中家

村上源氏流の岩倉家庶家である植松家出身の子爵・植松雅徳の子・植松雅行が田中家と称した。

伊達、宇和島藩系 田中家

宇和島藩領高山浦の庄屋・田中家

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その他

遠江国土豪井伊氏当主・井伊彌直の次男直家が田中姓を名乗り、井伊系田中氏も存在していた。

内閣総理大臣を務めたものでは、田中義一陸軍大将)の山口県士族の家系や、田中角栄新潟県の農民の家系が存在する。

上述した通り、田中という姓は非常に多くの氏族に亘って存在しており、一定の社会や組織の中において多数見られることがある姓の1つでもある。

これを活かして、公営競技オートレース飯塚オートレース場においては、2009年2月、開催初日に田中姓の選手を8人同じレースに出走させ、その名も「田中選抜」という企画レースを開催したことがある。

脚注