渡辺 廉吉(わたなべ れんきち、嘉永7年1月8日(1854年2月5日) - 大正14年(1925年)2月14日)は日本の法学者、裁判官、政治家。学位は法学博士。行政裁判所評定官(裁判官)、内閣総理大臣秘書官、法制局参事官、行政裁判所部長、行政裁判法取調委員、貴族院議員等を歴任。幼名は正吉[1]。渡邊廉吉とも表記される[2]。
越後国長岡(新潟県長岡市)出身。父渡辺櫓左衛門は越後長岡藩士。15歳のとき戊辰戦争に従軍して負傷した。大学南校独逸部、開成学校に学び、東京外国語学校で教諭・訓導としてドイツ語を教授。外務省書記生(専門職)として、オーストリアに渡り、ウィーン大学で法律と政治学を学び、伊藤博文の知遇を得て、帰国して大日本帝国憲法、旧皇室典範、民事訴訟法の制定に尽力した[3]。1897年に高等商業学校(のちの東京高等商業学校、現一橋大学)に専攻部が設置されると、1903年に美濃部達吉が兼任教授に就任するまで、憲法・行政法等を講じた[4]。
明治政府の最大の課題は日本の近代化であった。そのためには不平等条約撤廃の前提として列強各国が日本に対して要求していた近代法典(民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法の5法典。参照六法。)を成立させる必要があった。そこで、日本政府はヨーロッパの諸法典をモデルとすることを決め、有意の人物を捜していた。憲法制度調査のためヨーロッパを歴訪した伊藤博文は、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードなどのお雇い外国人を日本へ招聘するとともに、日本人法学者をも日本法の近代化に参画させ、そのうちの一人が渡辺廉吉である。
戊辰戦争を戦った越後山本[23]家は明治16年(1883年)2月に河井家とともに家名再興を許可されたものの、跡継ぎに恵まれなかった。このため名門の山本家が断絶することを恐れた渡辺廉吉らのはからいにより、大正5年(1916年)に長岡士族・高野家(高野貞吉)から養子に入ったのが後の連合艦隊司令長官山本五十六である。