歩闡

歩 闡(ほ せん)は、中国三国時代から西晋時代にかけての武将。本貫徐州臨淮郡淮陰県。『三国志書に伝のある歩騭の庶子。

歩璣
西晋
都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司・侍中・領交州牧・宜都公
出生生年不詳
徐州臨淮郡淮陰県
死去273年
荊州宜都郡西陵県[1]
拼音bù chǎn
主君孫皓司馬炎
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生涯

父の歩騭の代から呉に仕えた。兄の歩協が没すると西陵督の職を継ぎ、また昭武将軍・西亭侯を加えられた。

甘露元年(265年)9月、歩闡の上表に従って、武昌への遷都が行われた[2]

鳳凰元年(272年)8月[3]、中央への召還となる繞帳督転任を命じられる。代々西陵の地にあった歩闡はこれを、自らの職を奪うものと考え、同年9月[3]、呉に反旗を翻し、西陵城に籠城する。また甥の歩璣歩璿を西晋に降伏の使者として送り、歩闡は都督西陵諸軍事・衛将軍儀同三司侍中・仮節・領交州に任じられ、宜都公に封じられた。

西晋では車騎将軍羊祜荊州刺史の楊肇らを救援に派遣したが、呉の陸抗の采配により撃退される。同年12月(273年年始)[3]、陸抗の攻撃により西陵城は陥落し、歩闡らの一族は族誅となった。西晋に人質として残っていた歩璿がただ一人生き延び、祖先の祭祀を継いだ。

出典

脚注