はし けんこう 橋 健行 | |
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生誕 | 橋 健行 1884年2月6日 ![]() |
死没 | (1936-04-18) 1936年4月18日(52歳没)![]() |
死因 | 肺炎(化膿性肺炎) |
墓地 | 石川県金沢市・野田山墓地 |
国籍 | ![]() |
出身校 | 東京帝国大学医科 |
職業 | 精神科医、医学博士 |
親 | 橋健三(父)、こう(母) |
親戚 | 瀬川朝治(祖父)、ソト(祖母) 橋健堂(祖父) 雪子(妹)、正男、健雄、行蔵(弟) 倭文重、重子(妹) 平岡公威(甥)、美津子(姪)、千之(甥) |
補足 | |
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橋 健行(はし けんこう、1884年〈明治17年〉2月6日 - 1936年〈昭和11年〉4月18日)は日本の精神科医。医学博士。正五位。作家・三島由紀夫の伯父で、橋倭文重の兄[1][2][3][4][5]。
1884年(明治17年)2月6日、石川県金沢区(現・金沢市)で、父・橋健三(漢学者)と母・こう(漢学者・橋健堂の三女)の間の長男として誕生[1][2][3]。その後、生母・こうの死亡により、1890年(明治23年)から、健三の後妻・トミ(こうの妹で橋健堂の五女)に育てられる[2][3]。やがて、妹や弟たち(雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子)が生まれる[2][3][4]。
1901年(明治34年)、開成中学校を卒業[2][3]。同級生には斎藤茂吉がいた[2][3]。同年、第一高等学校に進学。1904年(明治37年)、第一高等学校を卒業後、東京帝国大学医科に進んで精神医学を専攻する[3]。健行は一高、帝大と常に首席だったという[6][2][3]。
1908年(明治41年)に帝大医科を卒業した後、東大精神科付属病院の東京府巣鴨病院(のちの松沢病院)の院長・呉秀三のもとで精神病学を学んだ[2][3]。当時の副院長は三宅紘一助教授で、医長は健行と黒沢良臣講師だった[7][3]。呉が院長を退任した1925年(大正14年)6月、健行は同病院の講師から副院長に就任した[7][3][注釈 1]。
1926年(大正15年)、学位を授与され医学博士となり、1927年(昭和2年)に千葉医科大学(現・千葉大学医学部)助教授に就任した[8][3]。その後1931年(昭和6年)7月から1933年(昭和8年)9月まで、文部省在外研究員として留学し、欧米の学識者を歴訪した[3]。帰国後の1933年(昭和8年)11月、千葉医科大学助教授から教授に就任し、1935年(昭和10年)3月から付属医院長を兼任した[8][3]。
しかし、健行は川釣りで風邪をひきながら勤務で無理をした結果、肺炎をこじらせ、 1936年(昭和11年)4月18日、「ルンゲンガングレン」(肺化膿症のことと思われる[9])で急逝(享年52)[10][2][3]。健行の遺骨は、故郷・石川県の野田山山頂の墓に納められた。友人の斎藤茂吉は健行の死を悼み、健行への挽歌を詠んだ[11][2]。
弔橋健行君 うつせみの わが身も老いてまぼろしに 立ちくる君と手携はらむ—斎藤茂吉「暁紅」収録[11]
健行の死から約5年後の1941年(昭和16年)5月、健行の父・橋健三(81歳)が斎藤茂吉の家を訪ね、亡き息子の墓碑銘の撰文と揮毫を茂吉に依頼した[12][13]。墓碑銘には、以下のような二首が記されている[14][15]。
橋健行君墓碑
亡き友の 墓碑銘かくと 夜ふけて あぶら汗いづ わが額より
手ふるひつつ 書きをはりたる 墓碑銘を われ一人のみ 見るは悲しも—斎藤茂吉「霜」収録[14]
健行の墓は、環状線の建設により2006年(平成18年)に、野田山山頂の「平成墓地乙」に移転した[16][3]。そこには曽祖父・橋一巴、父・橋健三の墓も並んで建立されている[16][3]。健行の墓には、「正五位橋健行墓 正五位醫學博士橋健行君」と記されている[16][3]。
立志とは何ぞ、是即吾人の行はんと欲する所の志、念々常に止まらざるを云ふ。而して其の志を遂げんと欲せば、百折不撓の気象なかるべからず。古語に曰く、志あるものは事遂に成ると又曰く志立つるは学の常なりと、吾人は以て是を無双の格言となすべし。—四級二 橋健行「立志」(『校友会雑誌』10号 1887年(明治30年)7月に掲載)
いつしか犬吠岬の懸崖の下に至る仰ぎ見れば数十名の生徒等は既に中間にありて、互に先登を制せんとするは、恰も廿七八年の役に我軍か玄武門を進撃したらんが如し、かくて頂上に達すれば、殿隊の一団漸く崖下に群りて岩壁に蟻附せるさまは、昔楠木正成が拠りけん赤坂城当時の様も追想せられて面白し、㧕々犬吠岬は鹿島灘の南端にありて海中には無数の岩礁兀立し、舟行最も危険なれば此処に、燈台を設けたるなり、東辺を望めば水天髣髴漢として際涯なり、巨浪の岩石を打つものは砕けて玉となり、散して雪となりて、四辺恰白絹を晒すが如し—四級二 橋健行「銚子紀行」(『校友会雑誌』12号 1887年(明治30年)12月に掲載)
貴兄も男子の一度決心せられし所に候へば今更彼此申すも反りて兄が前途にも関係を及ぼす事に御座候故不肖は敢へて此の事に就きてはもはや一言をも述べずひたすら兄が奮励刻苦あらせられん事を希期致し候—三級三組 橋健行「転校したる友人に与ふる文」(『校友会雑誌』17号 1899年(明治32年)7月に掲載)
汝が肩には国家あり、汝が頭脳には必世界なかるべからず、且繽粉錯雑せむとする汝が思想はこれをして劃一たらしめざるべからず健々霊妙なる汝が手腕はこれをして発揮せしめざるべらざるなり、盖国家なければ独立を失ひ、世界なければ固陋に流る—二級一組 橋健行「少年は再来せず」(『校友会雑誌』20号 1900年(明治33年)3月に掲載)
一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく流水の暢々たるが如く、珠玉の転々たるがごとく、高尚なる思、優美なる想を、後に残して止まらざるもの、これを文士の筆となす。—五年生 橋健行「筆」(『校友会雑誌』22号 1900年(明治33年)12月に掲載)
小説が終ってから知ったことだが、母から聞くと、三島家と斎藤家とはかすかな因縁があるというのである。つまり、小説中の聖子がはじめ婚約関係にあった男性というのが、三島さんのお母さまの兄上にあたる方だったという。 — 北杜夫「表面的な思い出など――三島由紀夫」(『人間とマンボウ』)[21]
往来 | 船次郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋一巴 | つね | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
健堂 | ふさ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
こう | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋健行 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
瀬川健三 | 雪子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋正男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トミ | 橋健雄 | 平岡公威(三島由紀夫) | 紀子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
より | 橋行蔵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ひな | 倭文重 | 杉山瑤子 | 平岡威一郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
美津子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平岡梓 | 平岡千之 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千葉大学医学部創立85周年記念会 編『千葉大学医学部八十五年史』1964年9月。NCID BN02339389。
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