楽陵郡

楽陵郡(樂陵郡、らくりょう-ぐん)は、中国にかつて存在した後漢末から初にかけて、現在の山東省楽陵市一帯に設置された。

概要

220年建安25年)、後漢により平原郡が分割されて楽陵郡が立てられた。楽陵郡は冀州に属し、郡治は厭次県に置かれた。

243年正始4年)、三国により曹茂が楽陵王に封じられると、楽陵郡は楽陵国と改められた[1]

のとき、楽陵国は厭次・陽信湿沃新楽楽陵の5県を管轄した[2]

517年北魏熙平2年)、楽陵郡は冀州から滄州に転属した。北魏の楽陵郡は楽陵・陽信・厭次・湿沃の4県を管轄した[3]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、楽陵郡は廃止されて、滄州に編入された[4]

僑置楽陵郡

南北朝時代南朝宋のとき、楽陵郡の本土が北魏の統治下にあったため、僑郡の楽陵郡が置かれた。これは現在の山東省浜州市一帯に相当する。宋の楽陵郡は青州に属し、楽陵・陽信・新楽・厭次・湿沃の5県を管轄した[5]皇興年間に北魏の慕容白曜がこの地を奪った。北魏の青州楽陵郡は陽信・楽陵・厭次・新楽・湿沃の5県を管轄した[3]

脚注