本能寺の変 | |
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![]() 「本能寺焼討之図」(明治時代、楊斎延一画) | |
戦争:安土桃山時代 | |
年月日:天正10年6月2日(1582年6月21日) | |
場所:山城国京都の本能寺と二条御新造 | |
結果:明智軍の勝利 織田信長・信忠の父子は自害 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() [注釈 1] |
戦力 | |
本能寺:信長・御小姓衆(諸説あり:20-30[2]から150-160[3]) 二条御新造:信忠・母衣衆(諸説あり:数百、500-1,500[注釈 2][4][5]) | 1万3,000名[6] (2万[7]や3万[8]など異説もあり) |
損害 | |
本能寺:57名ほど[注釈 3] 二条御新造:63名[9]や430名[10]など諸説あり
| 不明 |
本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(ユリウス暦1582年6月21日)早朝、明智光秀(惟任光秀[注釈 4])が謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した事件である[12]。
信長は寝込みを襲われ、包囲されたことを悟ると、寺に火を放ち、自害して果てた[12]。信長の嫡男で織田家当主の信忠も襲われ、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦したが、やはり建物に火を放って自害した[13]。信長と信忠の死によって織田政権は瓦解するが、光秀もまた6月13日の山崎の戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れて命を落とした。事件は秀吉が台頭して豊臣政権を構築する契機となり、戦国乱世は終焉に向かった。
光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、多種多様な説がある(各説については変の要因を参照)
天正10年(1582年)3月11日に武田勝頼・信勝親子を天目山に追い詰めて自害[14][注釈 5]させた織田信長は、3月27日、2日に名城・高遠城を攻略した信忠に、褒美と共に「天下支配の権も譲ろう」[15][注釈 6]との言葉も贈って褒め称えた。信長は甲府より返礼に来た信忠を諏訪に残して軍勢を現地解散すると、僅かな供廻りだけをつれて甲斐から東海道に至る道を富士山麓を眺めながら悠々と帰国の途に就いた。
4月3日には新府城の焼け跡を見物。かつての敵、信玄の居館・躑躅ヶ崎館跡の上に建てられた仮御殿にしばらく滞在し、4月10日に甲府を出立した[16]。長年の宿敵を倒し、立派な後継者[注釈 7]の目途もついて、信長にとって大変満足な凱旋となった。
天下を展望すると、東北地方においては、伊達氏[注釈 8]・最上氏[20]・蘆名氏[21]といった主な大名が信長に恭順する姿勢を見せていた。関東では、後北条氏がすでに天正8年(1580年)には同盟の傘下に入っていて[注釈 9]、佐竹氏[24]とも以前より外交関係があったので、東国で表だって信長に逆らうのは北陸の上杉氏を残すのみとなった[情勢 1]。
北条氏政・氏直父子は共同で甲州へ出陣する約束をしていたが、戸倉城を攻略した後は何ら貢献できなかったので、3月21日に酒・白鳥徳利を、26日には諏訪に米俵千俵を献じ、4月2日には雉500羽、4日には馬13頭と鷹3羽と、短期間で立て続けに献上品を送って誼を厚くしようとした。しかし、この時の馬と鷹はどれも信長が気に入らずに返却されている[16]。他方で、信長は長年の同盟者である徳川家康には駿河一国を贈り、これ対する返礼で、家康は領国を通過する信長一行を万全の配慮で接待して、下士に至るまで手厚くもてなしたので、信長を大いに感心させた[25]。これら信長の同盟者はもはや次の標的とされるよりも、その威に服して従属するという姿勢を鮮明にしていた[26]。
西に目を転じると、中国地方では、毛利輝元を惣領とする毛利氏との争いが続き[情勢 2]、四国でも長宗我部元親が信長の指図を拒否したことから長宗我部氏と交戦状態に入った[27](詳細は後述)が、九州においては大友氏と信長は友好関係にあり、島津氏とも外交が持たれていて、前年6月には准三宮近衛前久[注釈 10]を仲介者として両氏を和睦させたことで、島津義久より貢物を受けている[28][注釈 11]。
信長は天正9年(1581年)8月13日、「信長自ら出陣し、東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし、日本全国残るところなく信長の支配下に置く決意である」[29]と、その意向を繰り返し表明していたが、上月城での攻防[30]の際は重臣が反対し、鳥取城攻めの際には出陣の機会がなかった。その間に伊賀平定を終えて(高野山を除く)京都を中心とした畿内全域を完全に掌握したことから、次こそ第3次信長包囲網[注釈 12]を打倒し、西国最大の大名である毛利氏を討つという意気込みを持っていた[情勢 2]。
他方で信長は、天正6年(1578年)4月9日に右大臣・右近衛大将の官位を辞して[31]以来、無官・散位のままであった。正親町天皇とは誠仁親王への譲位を巡って意見を異にし、天正9年3月に信長は譲位を条件として左大臣の受諾を一旦は了承したが、天皇が金神を理由に譲位を中止した[32]ことで、信長の任官の話もそのまま宙に浮いていたからである。そこで朝廷は、甲州征伐の戦勝を機に祝賀の勅使として勧修寺晴豊(誠仁親王の義兄)を下し、晴豊は信長が凱旋した2日後の天正10年4月23日に安土に到着した。『晴豊公記』によれば、4月25日に信長を太政大臣か関白か征夷大将軍かに推挙するという、いわゆる「三職推任」を打診し、5月4日には誠仁親王の親書を添えた2度目の勅使が訪問したと云う。2度の勅使に困惑した信長が、森成利(蘭丸)を晴豊のもとに遣わせて朝廷の意向を伺わせると、「信長を将軍に推任したいという勅使だ」[33]と晴豊は答えた。しかし信長は、6日、7日と勅使を饗応したが、この件について返答をしなかった[34]。そのうちに、5月17日に備中の羽柴秀吉より、毛利輝元が間もなく出陣する旨が知らされるとともに、信長への出馬要請が届いた。これを受けて、信長は出陣を決意し、三職推任の問題はうやむやのまま、本能寺で受難することになった。(続き)
これより前、土佐統一を目指していた長宗我部元親は、信長に砂糖などを献上[35]して所領を安堵された。信長は元親の嫡男弥三郎(信親)の烏帽子親になって信の字の偏諱を与えるなど[36]友誼を厚くし[注釈 13]、「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」[35]と書かれた朱印状を出していた。信長も当時は阿波・讃岐・河内に勢力を張る三好一党や伊予の河野氏と結ぶ毛利氏と対峙しており、敵の背後を脅かす目的で長宗我部氏の伸長を促したのである[37]。その際に取次役となったのが明智光秀であり、明智家重臣の斎藤利三の兄頼辰は、奉公衆石谷光政(空然)の婿養子で、光政のもう1人の娘が元親の正室(信親生母)であるという関係性[注釈 14]にあった。
ところが、その後三好勢は凋落し、信長の脅威ではなくなった。天正3年(1575年)、河内の高屋城で籠城していた三好康長(笑岩)は、投降するとすぐに松井友閑を介して名器「三日月」を献上して信長に大変喜ばれ、一転して家臣として厚遇されるようになる。同じころに土佐を統一した長宗我部氏は、天正8年6月には砂糖三千斤を献じるなど信長に誼を通じる意思を示していた[40]一方で、阿波・讃岐にまで大きく勢力を伸ばして、笑岩の子・康俊を降誘し、甥の十河存保を攻撃していて、信長の陪臣が攻められる状態ともなっていた。
笑岩は羽柴秀吉[注釈 15]に接近して、その姉の子三好信吉を養嗣子に貰い受けることで、織田家の重臣である羽柴氏と誼を結んで長宗我部氏に対抗した。笑岩の本領である阿波美馬・三好の2郡が長宗我部氏に奪われると、天正9年、信長に旧領回復を訴えて織田家の方針が撤回されるように働きかけた[41]。信長は三好勢と長宗我部氏の調停と称して、元親に阿波の占領地半分を返還するように通告したが、元親はこれを不服とした。
天正10年正月、信長は光秀を介して、長宗我部に土佐1国と南阿波2郡以外は返上せよという内容の新たな朱印状[41]を出して従うように命じ、斎藤利三も石谷空然を通して説得を試みていた[42]が、いずれも不調に終わる。この際、光秀は滅亡を避けるためにも信長の判断に従うようにと最後の説得を試みたが、元親の返答を待たずに、ついに信長は三男の神戸信孝を総大将とする四国征伐を命令し、本能寺の変の翌日に当たる6月3日、四国に渡ることになっていた[43]。信長の四国政策の変更は、取次役としての明智光秀の面目を潰した[36][注釈 16]。
早くも前年秋の段階で阿波・淡路での軍事活動を開始していた節のある笑岩は[44]、2月9日に信長より四国出陣を命じられ[45]、5月には織田勢の先鋒に任命されて勝瑞城に入った。三好勢が一宮城・夷山城を落すと、岩倉城に拠る康俊は再び寝返って織田側に呼応した[42]。変の直前、三好勢は阿波半国の奪還に成功した状態で、目前に迫った信孝の出陣を待っていた。元親は利三との5月21日付けの書状で、一宮城・夷山城・畑山城からの撤退を了承するも土佐国の入口にあたる海部城・大西城については確保したいという意向を示し[46]、阿波・讃岐から全面撤退せよと態度を硬化させた信長との間で瀬戸際外交が続けられていた[42]。
全国平定の戦略が各地で着実に実を結びつつあった[47]この時期に、織田家の重臣に率いられた軍団は西国・四国・北陸・関東に出払っており、畿内に残って遊撃軍のような役割を果たしていた明智光秀の立場は、特殊なものとなっていたと現代の史家は考えている。
近畿地方の一円に政治的・軍事的基盤を持っていた光秀は、近江・丹波・山城に直属の家臣を抱え、さらに与力大名(組下大名)として、丹後宮津城の長岡藤孝・忠興親子、大和郡山城の筒井順慶、摂津有岡城の池田恒興、茨木城の中川清秀、高槻城の高山右近を従えていた[48]。
高柳光寿は著書『明智光秀』の中で「光秀は師団長格になり、近畿軍の司令官、近畿の管領になったのである。近畿管領などという言葉はないが、上野厩橋へ入った滝川一益を関東管領というのを認めれば、この光秀を近畿管領といっても少しも差支えないであろう」[49]と述べて、初めてそれを「近畿管領」と表現した。桑田忠親も(同時期の光秀を)「近畿管領とも称すべき地位に就くことになった」[49]として同意している。津本陽は光秀の立場を「織田軍団の近畿軍管区司令官兼近衛師団長であり、CIA長官を兼務していた」[50]と書いている。光秀は、領国である北近江・丹波、さらには与力として丹後、若狭、大和、摂津衆を従えて出陣するだけでなく、甲州征伐では信長の身辺警護を行い、すでに京都奉行の地位からは離れていたとしても公家を介して依然として朝廷とも交流を持っており、(諜報機関を兼ねる)京都所司代の村井春長軒(貞勝)と共に都の行政に関わり[51]、二条御新造の建築でも奉行をするなど、多岐に渡る仕事をこなしていた。
天正9年の馬揃えで光秀が総括責任者を務めた[52]のはこうした職務から必然であり、(この時、羽柴秀吉は不在であったが)織田軍団の中で信長に次ぐ「ナンバーツーのポスト」に就いたという自負も目覚めていたと、野望説論者の永井路子は考えている[53]。しかも、特定の管轄を持たなかった重臣、滝川一益と丹羽長秀が、相次いで関東に派遣されたり、四国征伐の準備や家康の接待に忙殺されている状況においては、機動的に活動が可能だったのは「近畿管領」たる光秀ただ1人であった。後述するように動機については諸説あって判然とはしないが、僅かな供廻りで京に滞在する信長と信忠を襲う手段と機会が、光秀だけにあったのである。
本能寺の変が起こる直前までの織田家諸将および徳川家康の動向を以下にまとめる。[情勢 1][情勢 2]
大将(与力・一門衆) | 所在 | 配下の軍勢 | 状況 | 対立武将 | 対立勢力 | 直前の行動・できごと | |
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織田信長 | 山城国 | 20-30[2]から150-160[3] | 在京 | - | - | 5月29日、信長は中国出陣の準備をして待機するように命じ、小姓衆をつれて安土より上洛した[94]。その際、茶道具の名器38点[95]を携えており、6月1日、近衛前久を主賓として茶会を開いた[47]。京都滞在は5日間の計画で、先に淡路で信孝の閲兵に向かうと伝えられていた[96]。 | |
小姓衆(森成利・森長隆・森長氏等) | |||||||
織田信忠 | 山城国 | 数百 | 在京 | - | - | 5月14日、信忠は甲州征伐から安土に帰還[97]。21日に上洛して[98]妙覚寺に滞在。斎藤利治は病気で、信長・信忠に心配されて御供を外されていたが、後日、病気は治ったと加治田城を出発し[注釈 17]、兄(斎藤利堯)が留守居する岐阜城を通り過ぎてそのまま、変前日(6月1日)に京に入り、妙覚寺で信忠と合流した[100]。同日夜、信忠は村井貞勝をつれて本能寺を訪れ、父と酒を飲み交わした[47]。 | |
一門衆(津田長利・勝長)・奉行衆(村井貞勝・菅屋長頼)・母衣衆(福富秀勝・野々村正成・毛利良勝)・御供衆(猪子兵助・団忠正・斎藤利治)等 | |||||||
明智光秀 | 丹波国 山城国 | 13,000[6] | 出陣 | - | - | 天正9年の馬揃えでは総括責任者を務めた光秀であった[52]が、甲州征伐では信長の身辺警固を命じられたのみで、活躍の場はなく安土に帰還。その後、徳川家康の饗応役に任命されて準備をしたが、備中高松城包囲中の羽柴秀吉から急使があり、援軍に赴くように信長から急遽命じられて、饗応役も長秀と交代。光秀はすぐに軍勢の支度のために5月17日に坂本城に戻り、さらには26日には領地の丹波・亀山城に向かった。 | |
明智秀満・明智光忠・斎藤利三・溝尾茂朝・藤田行政・伊勢貞興・山崎長徳・並河易家 | |||||||
明智十五郎・阿閉貞征・妻木広忠・京極高次・山崎堅家 | 近江国 | 不明 | 在番 | - | - | 嫡男十五郎は坂本城に留守居。阿閉は山本山城、京極は上平寺城と、それぞれ居城にいた。(山城国の)山崎堅家は安土の館に詰めていた。 | |
筒井順慶 | 山城国 | - | 在京 | - | - | 筒井順慶は甲州征伐に明智配下として出征して大和郡山城に帰還[注釈 18]。直前は順慶本人は京に滞在していた[102]。 | |
長岡忠興(長岡藤孝[注釈 19])・池田恒興・高山右近・中川清秀・塩川長満 | 丹後国 摂津国 | 8,500以上[注釈 20] | 準備 | - | - | 長岡忠興・池田(元助・照政)・中川は、甲州征伐に明智配下として出征したが、5月17日、秀吉に援軍として向かう光秀の与力として、他2氏と共に先鋒を命じられたので、領国に戻って再び出陣準備をしていた[104]。 | |
羽柴秀吉 | 備中国 | 30,000[注釈 21] から 60,000[106] | 対陣 | 清水宗治・末近信賀・毛利輝元・吉川元春・小早川隆景 | 35,000以上[注釈 22] ~50,000[107] | 天正10年3月5日、秀吉は山陽道に出陣し、4月4日、宇喜多秀家の岡山城に入城。14日、秀吉は宇喜多勢と龍王山と八幡山に陣した。25日に冠山城を攻略して林重真が切腹。5月2日に乃美元信が開城して宮路山城を退去し、加茂城では生石治家が寝返ったが桂広繁が(宇喜多勢の)戸川秀安を撃退して本丸は守った。7日、秀吉は蛙ヶ鼻に陣を移し、足守川を堰き止めて高松城を水没させた[92]。15日、秀吉は信長に状況を知らせ、毛利勢の総大将・毛利輝元が間もなく出陣すると報告した。2日後、これを聞いた信長は、明智光秀らに出陣を命じた。小早川隆景が幸山城に入り、21日、毛利輝元・吉川元春も合流して総勢5万の援軍が到着した[107]。 | |
羽柴秀長・羽柴秀勝・杉原家次・蜂須賀正勝・堀尾吉晴・神子田正治・宇喜多忠家・黒田孝高・仙石秀久 | |||||||
宮部継潤・亀井茲矩 | 因幡国 | 不明 | 城番 | - | - | 宮部は鳥取城。亀井は鹿野城。 | |
神戸信孝・丹羽長秀[注釈 23] | 和泉国 摂津国 | 14,000[108] (三好勢6,000[109]) | 準備 | - | - | 5月11日、信孝は住吉ヘ出陣し、四国征伐の渡海準備を始めた[97]。予定では6月2日に淡路に渡海して(中国に向かう途中の)信長も4日に来るはずであった[96]。長秀は5月14日に家康・梅雪・信忠を番場で接待し、光秀が出た後は20日以降は4名[注釈 24]で家康一行を接待した。堀が羽柴の伝令として派遣され、菅屋が奉行の役目で離れ、長秀は信澄と共に引き続き饗応役となるように命じられ、先に大坂に向かった[97][注釈 23]。 | |
蜂屋頼隆・九鬼嘉隆・津田信澄 | |||||||
三好笑岩・十河存保・三好康俊 | 阿波国 | 戦闘 | 香宗我部親泰・長宗我部信親・比江山親興・江村親俊 | 3,000[111] | 先鋒・三好笑岩は5月に勝瑞城に入り、一宮城と夷山城を攻略し、康俊が岩倉城で織田側に寝返って呼応。阿波半国を奪還して神戸信孝の本隊の到着を待っていた。長宗我部氏は畑山城からは撤退したが、海部城・大西城では抵抗する構えであった[42][41]。 | ||
柴田勝家 | 越中国 能登国 | 48,000[112] (魚津城攻囲15,000[113]) | 戦闘 | 上杉景勝・中条景泰・上条政繁・吉江宗信(景資)・須賀盛能 | 3,000[114] または5,000[113] +城兵 | 河田長親は既に亡く[64]上条政繁が指揮する越中の上杉勢。3月11日、小島職鎮ら一揆勢が神保長住の富山城を落として長住を監禁したが[66]、織田勢が奪還。柴田・前田らは松倉城と魚津城を囲み、越境して勝山城も攻めた。上杉景勝は新発田重家の反乱[115]もあって対応に苦慮。5月16日、景勝は天神山城に後詰で入るが[67]、魚津城の戦いの最中に長景連が棚木城を奪った際にも、長連龍・前田利家による奪還(22日)[19]に為すすべなく、勝ち目のない上杉勢は6月を前にして撤退を検討していた。 | |
柴田勝豊・佐々成政・前田利家・佐久間盛政・徳山則秀・神保氏張・長連龍・椎名孫六入道[注釈 25] | |||||||
滝川一益 | 上野国 | 26,200[116] | 出陣 | - | - | 滝川一益は当初より後北条氏との取次役であったが、甲州征伐では信忠の補佐役も務めて、3月11日に天目山で武田勝頼父子を自害させて首を取るという大手柄を挙げた。3月23日、事実上の一番手柄として、上野国と信濃2郡、名馬を与えられて、関東八州の警固役に任命されて[117]、上野厩橋城に入城した。上州・信州・武州の諸将[注釈 26]を与力として従え、一益はこの軍勢を糾合して、三国峠を越えて越後に攻め入る予定であった。 | |
滝川益重・津田秀政・稲田九蔵・小幡信貞・真田昌幸・内藤昌月・由良国繁・安中久繁・成田氏長・木部貞朝・依田信蕃 | |||||||
河尻秀隆・森長可・毛利秀頼・稲葉貞通 | 甲斐国 信濃国 | 不明 | 鎮定 | 芋川正元[119]・一揆勢 | 不明 | 河尻は穴山領を除く甲斐国と諏訪郡を領して府中城に、森長可は北信濃4郡を領して海津城に、毛利秀頼は伊奈郡を領して飯田城に入った[113]。4月初旬、飯山城を一揆が攻撃して稲葉貞通を追った。長可が反撃して城を奪回し、一揆勢8千余を鎮圧した[120]。その際に女子供を含む数千人を成敗した。信濃は不穏な状況で、長可の越後攻めは遅延していた。 | |
木曾義昌・小笠原信嶺 | 信濃国 | 不明 | 安堵 | - | - | 木曾義昌は木曽谷の2郡の安堵、さらに安曇郡・筑摩郡を加増された[121]。小笠原信嶺も旧領安堵された。 | |
徳川家康・穴山信君 | 河内国 | 34 | 旅行 | - | - | 家康は一貫して低姿勢で、天正3年に叔父水野信元を、天正7年には嫡男信康を、内通の嫌疑で斬った。天正10年、甲州征伐の折にも信長の帰途を誠心誠意もてなし喜ばれる。駿河を与えられた返礼として家康は穴山梅雪と共に5月中旬に安土は訪れ、信長は光秀や長秀を付けて接待させた。その後、堺の見物を勧められて長谷川秀一が案内人として同伴した。 |
※主な出典は『信長公記』、『史料綜覧』、『史籍集覧』
天正10年(1582年)5月14日、織田信長は(『兼見卿記』によれば)安土城に下向した長岡藤孝に命じ、明智光秀を在荘として軍務を解くから翌日に安土を訪れる予定の徳川家康の饗応役を務めるようにと指示した[122]。そこで光秀は京・堺から珍物を沢山取り揃えて、15日より3日間、武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康や、金2,000枚を献じて所領安堵された穴山梅雪らの一行をもてなした。
ところが、17日、備中高松城攻囲中の羽柴秀吉から、毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の後詰が現れたので応援を要請するという旨の手紙が届いたため、信長は「今、安芸勢と間近く接したことは天が与えた好機である。自ら出陣して、中国の歴々を討ち果たし、九州まで一気に平定してしまおう」[104][注釈 27]と決心して、堀秀政を使者として備中に派遣し、光秀とその与力衆(長岡藤孝・池田恒興・高山右近・中川清秀・塩川長満)には援軍の先陣を務めるように命じた[104]。ただし『川角太閤記』では、単なる秀吉への援軍ではなく光秀の出陣の目的は毛利領国である伯耆・出雲に乱入して後方を撹乱することにあったとしている[124]。ともかく、光秀は急遽17日中に居城坂本城に戻り、出陣の準備を始めた。
19日、信長は摠見寺で幸若太夫に舞をまわせ、家康、近衛前久、梅雪、楠長譜、長雲、松井友閑に披露させた。信長は大変に上機嫌で、舞が早く終わったので翌日の出し物だった能を今日やるようにと丹波田楽の梅若太夫に命じたが、見る見るうちに機嫌が悪くなり、不出来で見苦しいといって梅若太夫を厳しく叱責した。その後、幸若太夫に舞を再びまわせ、ようやく信長は機嫌を直したと云う[104]。20日、家康の饗応役を新たに、丹羽長秀、堀秀政[注釈 28]、長谷川秀一、菅屋長頼の4名に命じた[110]。信長は家康に京・大坂・奈良・堺をゆるりと見物するように勧めたので、21日、家康と梅雪は京に出立し長谷川秀一が案内役として同行した。長秀と津田信澄は大坂に先に行って家康をもてなす準備をするよう命じられた[110]。[注釈 29]
同日、信長の嫡男信忠も上洛して、一門衆、母衣衆などを引き連れて妙覚寺に入った[128]。信忠がこの時期に上洛した理由はよくわかっていないが、家康が大坂・堺へ向かうのに同行するためとも、弟神戸信孝の四国征伐軍の陣中見舞いをする予定で信長と一緒に淡路に行くつもりだったとも言う。いずれにしても、信忠はこの日から変の日まで妙覚寺に長逗留した。
26日、坂本城を発した光秀は、別の居城である丹波亀山城に移った。27日、光秀は亀山の北に位置する愛宕山に登って愛宕権現に参拝し、その日は参籠(宿泊)した。(『信長公記』によると)光秀は思うところあってか太郎坊[注釈 30]の前で二度、三度とおみくじを引いたそうである[2]。28日(異説では24日[129])、光秀は威徳院西坊で連歌の会(愛宕百韻)を催し、28日中に亀山に帰城した[2]。(『川角太閤記』によると)山崎長門守と林亀之助が伝えたところによれば、光秀は翌29日に弓鉄砲の矢玉の入った長持などの百個の荷物を運ぶ輜重隊を西国へ先発させていたと云う[130]。
29日、信長は安土城を留守居衆と御番衆に託すと、「戦陣の用意をして待機、命令あり次第出陣せよ」[2]と命じて、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて上洛し、同日、京での定宿であった本能寺に入った[注釈 31]。信長の上洛の理由もよくわかっていないが、勧修寺晴豊の『日々記』や信孝朱印状によると、実現はしなかったものの6月4日に堺から淡路へ訪れる予定であったと云い[96]、このことから毛利攻めの中国出陣は早くとも5日以降であったと推測され[132]、安土より38点の名器[132]をわざわざ京に運ばせていたことから道具開きの茶会を開いて披露するのが直接的な目的だったと考えられる。博多の豪商島井宗室が所持する楢柴肩衝が目当てで、信長は何とかこれを譲らせようと思っていたとも言われる[132]が、別の説によればそれはついでで、作暦大権(尾張暦採用問題[注釈 32])など朝廷と交渉するための上洛だったとも云う[133]。
6月1日、信長は、近衛前久・信基父子、二条昭実、勧修寺晴豊、甘露寺経元などの公卿・僧侶ら40名を招き、本能寺で茶会を開いた。名物びらきの茶事が終わると酒宴となり、妙覚寺より信忠が来訪して信長・信忠親子は久しぶりに酒を飲み交わした[47]。深夜になって信忠が帰った後も、信長は寂光寺にて本因坊算砂と鹿塩利賢の囲碁の対局を見て、しばらく後に就寝した[134]。
本能寺は現在とは場所が異なり、東は西洞院大路、西は油小路通、南は四条坊門小路(現蛸薬師通)、北は六角通に囲まれた4町々(1町)の区画内にあって、東西約120メートル南北約120メートルという敷地に存在した。本能寺は天正8年(1580年)2月に本堂や周辺の改築が施された[135]。堀の幅が約2メートルから4メートルで深さが約1メートルの堀、0.8メートルの石垣とその上の土居が周囲にあって、防御面にも配慮された城塞のような城構えを持っていたことが、平成19年(2007年)の本能寺跡の発掘調査でも確認されている。当時、敷地の東には(後年は暗渠となる)西洞院川があり、西洞院大路の路地とは接せずに土居が川まで迫り出していて、西洞院川は堀川のような役割を果たしていたようである。調査では本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦、土器、護岸の石垣を施した堀の遺構などが見つかっている[136]。河内将芳は「信長が本能寺に、信忠が妙覚寺に、それぞれいることが判明しなければ、光秀は襲撃を決行しなかっただろう」という見解を述べている[137]が、同じ京都二条には明智屋敷もあり、動静は把握されていたと考えられる。
6月1日、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣した[94]。(『川角太閤記』によれば)「京の森成利(蘭丸)より飛脚があって、中国出陣の準備ができたか陣容や家中の馬などを信長様が検分したいとのお達しだ」と物頭たちに説明して、午後4時ごろ(申の刻)より準備ができ次第、逐次出発した。亀山の東の柴野[注釈 33]に到着して、斎藤利三に命じて1万3,000人を勢ぞろいさせたのは、午後6時ごろ(酉の刻)のことであった[130]。
光秀はそこから1町半ほど離れた場所で軍議を開くと、明智秀満(弥平次)に重臣達を集めるように指示した。明智滝朗の『光秀行状記』によると、この場所は篠村八幡宮であったという伝承があるそうである[138]。秀満、明智光忠(次右衛門)、利三、藤田行政(伝五)、溝尾茂朝[注釈 34]が集まったところで、ここで初めて謀反のことが告げられ[139]、光秀と重臣達は「信長を討果し天下の主となるべき調儀」[140]を練った。また(『当代記』によれば)この5名には起請文を書かせ、人質を取ったということである[3]。
亀山から西国への道は南の三草山を越えるのが当時は普通であったが、光秀は「老の山(老ノ坂)を上り、山崎を廻って摂津の地を進軍する」[138]と兵に告げて軍を東に向かわせた。駒を早めて老ノ坂峠を越えると、沓掛[注釈 35]で休息を許し、夜中に兵糧を使い、馬を休ませた。沓掛は京への道と西国への道の分岐点であった[141]が(『川角太閤記』によれば)信長に注進する者が現れて密事が漏れないように、光秀は家臣天野源右衛門(安田国継)を呼び出し、先行して疑わしい者は斬れと命じた[142]。夏で早朝から畑に瓜を作る農民がいたが、殺気立った武者が急ぎ来るのに驚いて逃げたので、天野はこれを追い回して20、30人斬り殺した[142]。なお、大軍であるため別隊が京へ続くもう一つの山道、唐櫃越から四条街道を用いたという「明智越え」の伝承もある[143]。
6月2日未明、桂川に到達すると、光秀は触をだして、馬の沓を切り捨てさせ、徒歩の足軽に新しく足半(あしなか)の草鞋に替えるように命じ、火縄を一尺五寸に切って火をつけ、五本ずつ火先を下にして掲げるように指示した[142][144]。これは戦闘準備を意味した。
明智軍に従軍していた本城惣右衛門による『本城惣右衛門覚書』には「(家康が上洛していたので)いゑやすさまとばかり存候」という記述があり、家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていたとされ、真の目的が知らされていなかったことを示している[注釈 36]。ルイス・フロイスの『日本史』にも「或者は是れ或は信長の内命によりて、其の親類たる三河の君主(家康)を掩殺する為めではないかと、疑惑した」[8][146]という記述があり、有無を言わせず、相手を知らせることなく兵を攻撃に向かわせたと書かれている。一方で『川角太閤記』では触で「今日よりして天下様に御成りなされ候」[142]と狙いが信長であることを婉曲的に告げたとし、兵は「出世は手柄次第」[147]と聞いて喜んだとしている。
なお、このときに光秀が「敵は本能寺にあり」と宣言したという話が有名であるが、これは江戸時代前期の元禄年間頃に成立した『明智軍記』にある「敵は四条本能寺・二条城にあり」や、寛永18年(1641年)に成立したとされる林羅山の『織田信長譜』で、大江山の出来事として「光秀曰敵在本能寺於是衆始知其有叛心(光秀曰く、敵は本能寺にあり。これを於いて衆はその叛心有るを知る)」[148]という記述を出典として変化した俗説である。江戸時代後期の文政10年(1827年)に頼山陽が様々な歴史書から引用して書き上げた『日本外史』では、桂川を渡る際に「吾敵在本能寺矣(我が敵は本能寺に在り)」と述べたという記述になった[149]。しかし同時代史料には光秀の言葉は一切残っていない。
桂川を越えた辺りで夜が明けた[94]。先鋒の斎藤利三は、市中に入ると、町々の境にあった木戸を押し開け、潜り戸を過ぎるまでは幟や旗指物を付けないこと、本能寺の森・さいかちの木・竹藪を目印にして諸隊諸組で思い思いに分進して、目的地に急ぐように下知した[142]。
6月2日曙(午前4時ごろ[147])、明智勢は本能寺を完全に包囲し終えた。寄手の人数に言及する史料は少ないが、『 祖父物語』ではこれを3,000余騎としている[150]。南門から突入した本城惣右衛門の回想によれば、寺内にはほとんど相手はおらず、門も開きっぱなしであったという[151]。
『信長公記』によれば、信長や小姓衆はこの喧噪は最初下々の者の喧嘩だと思っていたが、しばらくすると明智勢は鬨の声を上げて、御殿に鉄砲を撃ち込んできた。信長は「さては謀反だな、誰のしわざか[94](こは謀反か。如何なる者の企てぞ)[152]」と蘭丸に尋ねて物見に行かせたところ「明智の軍勢と見受けます[94](明智が者と見え申し候)[152]」と報告するので、信長は「やむをえぬ[94](是非に及ばず)[152]」と一言いったと云う。通説では、この言葉は、光秀の謀叛であると聞いた信長が、彼の性格や能力から脱出は不可能であろうと悟ったものと解釈されている[153]。また異説であるが、『三河物語』では信長が「城之介がべつしんか」と尋ねてまず息子である信忠(秋田城介)の謀叛(別心)を疑ったということになって、蘭丸によって「あけちがべつしんと見へ申」と訂正されたことになっている[154]。スペイン人貿易商アビラ・ヒロンが書いた『日本王国記』では、噂によると、信長は明智が包囲していることを知らされると、口に指をあてて、「余は余自ら死を招いたな」と言ったということである[155]。
明智勢が四方より攻め込んできたので、御堂に詰めていた御番衆も御殿の小姓衆と合流して一団となって応戦した[156]。矢代勝介(屋代勝助)[注釈 37]ら4名は厩から敵勢に斬り込んだが討死し、厩では中間衆など24人が討死した。御殿では台所口で高橋虎松が奮戦してしばらく敵を食い止めたが、結局、24人が尽く討死した。湯浅直宗と小倉松寿は町内の宿舎から本能寺に駆け込み、両名とも斬り込んで討死にした。
信長は初め弓を持って戦ったが、どの弓もしばらくすると弦が切れたので、次に槍を取って敵を突き伏せて戦うも(右の)肘に槍傷を受けて内に退いた[156]。信長はそれまで付き従っていた女房衆に「女はくるしからず、急罷出よ」[152]と逃げるよう指示した[注釈 38]。『当代記』によれば三度警告し、避難を促したと云う[3]。すでに御殿には火がかけられていて、近くまで火の手が及んでいたが、信長は殿中の奥深くに篭り、内側から納戸を締めて切腹した[156][注釈 39]。『信長公記』ではこの討ち入りが終わったのが午前8時(辰の刻)前とする[158]。(続き)
近年、光秀は本能寺の現場には行かず、襲撃は部下に実行させていたとする学説が出てきた。光秀本人が本能寺を襲ったと考えられてきたのは、光秀と交流があった公家の吉田兼見の日記に「惟任日向守(光秀のこと)、信長之屋敷本応寺へ取懸」と記されていたためとみられるが、うわさを書き残した可能性も指摘され[159]、果たして本能寺の変のときに光秀本人がどこにいたのかは、研究者の間でも議論されてきた。江戸時代前期の加賀藩の兵学者・関屋政春の著書『乙夜之書物(いつやのかきもの)』[注釈 40]には、光秀の重臣・斎藤利三の三男で本能寺の変当時16歳で自らも変に関わった斎藤利宗が、甥で加賀藩士の井上清左衛門に語った内容が収録されている[159]が、富山市郷土博物館主査学芸員の萩原大輔は同書を読解して、重臣の利三と秀満が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」と光秀は寺から約8km南の鳥羽に控えていたとし[159]、奥書(書き入れ)に政春が息子のために書き残したもので他人に見せることは厳禁と書かれていることなどから、萩原は信頼性が高い記述であると判断している[159]。本郷和人[注釈 41]は、光秀が本能寺に行かなかったことについて、「十分あり得ることではないか。光秀自身が最前線に赴く必要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」と話している[159]。
一方、本能寺南側から僅か1街(約254メートル)[146]離れた場所に南蛮寺(教会)があったので、イエズス会宣教師達がこれの一部始終を遠巻きに見ていた。彼らの証言を書き記したものが、天正11年の『イエズス会日本年報』にある。
この日、フランシスコ・カリオン司祭が早朝ミサの準備をしていると、キリシタン達が慌てて駆け込んできて、危ないから中止するように勧めた[160]。その後、銃声がして、火の手が上がった。また別の者が駆け込んで来て、これは喧嘩などではなく明智が信長に叛いて包囲したものだという報せが届いた。本能寺では謀叛を予期していなかったので、明智の兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入した。信長は起床して顔や手を清めていたところであったが、明智の兵は背後から弓矢を放って背中に命中させた。信長は矢を引き抜くと、薙刀という鎌のような武器[注釈 42]を振り回して腕に銃弾が当たるまで奮戦したが、奥の部屋に入り、戸を閉じた。或人は、日本の大名にならい割腹して死んだと云い、或人は、御殿に放火して生きながら焼死したと云う。だが火事が大きかったので、どのように死んだかはわかっていない。いずれにしろ「諸人がその声ではなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した」[146]としめている。[161][162]
戦後、明智勢は信長の遺体をしばらく探したが見つからなかった。光秀も不審に思って捕虜に色々と尋ねてみたが、結局、行方は分からずじまいだった[3]。(『祖父物語』によれば)光秀が信長は脱出したのではないかと不安になって焦燥しているところ、これを見かねた斎藤利三が(光秀を安心させるために)合掌して火の手の上がる建物奥に入っていくのを見ましたと言ったので、光秀はようやく重い腰を上げて二条御新造の攻撃に向かった[150]。
後世、光秀が信長と信忠の首を手に出来ずに生存説を否定できなかったために、本能寺の変以後、信長配下や同盟国の武将が明智光秀の天下取りの誘いに乗らなかったのであるという説がある[163]。後の中国大返しの際に羽柴秀吉は多くの武将に対して「上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候」[164][注釈 43]との虚報を伝え広めたが、数日間は近江近在でも信長生存の情報が錯綜し、光秀が山岡景隆のような小身の与力武将にすら協力を拒まれたところを見ると、それが明智勢に不利に働いたことは否めない。
日本の木造の大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中からは、当時の調査能力では特定の人物の遺骸は見つけられなかったであろうと、未発見の原因を説明する指摘もある[165]。『祖父物語』によれば、蘭丸は信長の遺骸の上に畳を5、6帖を覆いかぶせた[150]と云い、前述の宣教師の話のように遺体が灰燼に帰してしまうことはあり得ることである。
また異説として、信長が帰依していたとする阿弥陀寺(上立売通大宮)の縁起がある。変が起きた時、大事を聞きつけた玉誉清玉上人は僧20名と共に本能寺に駆けつけたが、門壁で戦闘中であって近寄ることができなかった。しかし、裏道堀溝に案内する者があり、裏に回って生垣を破って寺内に入ったが、寺院にはすでに火がかけられ、信長も切腹したと聞いて落胆する。ところが墓の後ろの藪で10名あまりの武士が葉を集めて火をつけていたのを見つけ、彼らに信長のことを尋ねると、遺言で遺骸を敵に奪われて首を敵方に渡すことがないようにと指示されたが、四方を敵に囲まれて遺骸を運び出せそうにもないので、火葬にして隠してその後切腹しようとしているところだと答えた。上人はこれを聞いて生前の恩顧に報いる幸運である、火葬は出家の役目であるから信長の遺骸を渡してくれれば火葬して遺骨を寺に持ち帰り懇ろに弔って法要も欠かさないと約束すると言うと、武士は感謝してこれで表に出て敵を防ぎ心静かに切腹できると立ち去った。上人らは遺骸を荼毘に付して信長の遺灰を法衣に詰め、本能寺の僧衆が立ち退くのを装って運び出し、阿弥陀寺に持ち帰り、塔頭の僧だけで葬儀をして墓を築いたと云う[166]。また二条御新造で亡くなった信忠についても、遺骨(と思しき骨)を上人が集めて信長の墓の傍に信忠の墓を作ったと云う。さら上人は光秀に掛け合って変で亡くなった全ての人々を阿弥陀寺に葬る許可を得たとしている。秀吉が天下人になった後、阿弥陀寺には法事領300石があてられたが、上人はこれを度々拒否したので、秀吉の逆鱗に触れ、大徳寺総見院を織田氏の宗廟としてしまったので、阿弥陀寺は廃れ無縁寺になったという。この縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため、享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので史料価値は高くはないという説もあるが、この縁で阿弥陀寺には「織田信長公本廟」が現存する。ただし阿弥陀寺と墓は天正15年に上京区鶴山町に移転している。
また別の異説として、作家安部龍太郎と歴史家山口稔によれば、西山本門寺(静岡県富士宮市)寺伝に本能寺の変の時に信長の供をしていた原宗安(志摩守)[注釈 44]が本因坊算砂の指示で信長の首を寺に運んで供養したという記載があるという[167]。
『崇福寺文書』によると、信長の側室の1人である小倉氏(お鍋の方)が、6月6日[注釈 45]、美濃の崇福寺に信長・信忠の霊牌(霊代を祭る木札)を持ち込んだ[168]とあり、同寺にも織田信長公父子廟があるが(前述の非公認を除けば)最初の墓であった。
北北東に1.2キロ離れた[169]場所にあった妙覚寺(旧地・上妙覚寺町)の信忠は、光秀謀反の報を受けて本能寺に救援に向かおうと出たが、村井貞勝(春長軒)ら父子3名が駆け付けて制止した。村井邸(三条京極・旧春長寺)は現在の本能寺門前にあったが、当時の本能寺は場所が異なるため、東に約1キロ離れた所にあった。前述のように本能寺は全周を水堀で囲まれて、特に西洞院川に遮られる東側からの接近は困難であり、四門を明智勢に囲まれた後では容易に入る事はできなかった。そこで彼らは二条通の方に向かって、妙覚寺に馳せ参じたのである。
(『信長公記』によれば)春長軒が「本能寺はもはや敗れ、御殿も焼け落ちました。敵は必ずこちらへも攻めてくるでしょう。二条の御新造は構えが堅固で、立て籠もるのによいでしょう[156](本能寺は早落去仕、御殿も焼落候、定而是へ取懸申すべく候間、二條新御所者、御構よく候、御楯籠然るべし[170])」と言うので、信忠はこれに従って隣の二条御新造(二条新御所[注釈 46])に移った。信忠は、二条御新造の主である東宮・誠仁親王と、若宮・和仁王(後の後陽成天皇)に、戦場となるからと言ってすぐに内裏へ脱出するように促した。春長軒が交渉して一時停戦し[171]、明智勢は輿を使うのを禁止したが、徒歩での脱出を許可した[172]。脱出したものの街頭で途方に暮れていた親王一家を心配し、町衆である連歌師里村紹巴が粗末な荷輿を持ってきて内裏へ運んだ[171]。阿茶局や二宮、御付きの公卿衆や女官衆もすべて脱出したのを見届けた上で、信忠は軍議を始めた。側近の中には「退去なさいませ」と脱出して安土へ向かうことを進言する者もあったが、信忠は「これほどの謀反だから、敵は万一にも我々を逃しはしまい。雑兵の手にかかって死ぬのは、後々までの不名誉、無念である。ここで腹を切ろう[173](か様之謀叛によものがし候はじ、雑兵之手にかゝり候ては、後難無念也。ここに而腹を切るべし[170])」と神妙に言った。(『当代記』によれば)信忠が毛利良勝、福富秀勝、菅屋長頼と議論している間に、明智勢は御新造の包囲も終えて、脱出は不可能となった[174]。
正午ごろ(午の刻[174])、明智勢1万が御新造に攻め寄せてきた[174]。信忠の手勢は500名余で、さらにこれに在京の信長の馬廻衆が馳せ参じて1,000から1,500名ほどになっていた[169][175]。信忠の手勢には、腕に覚えのある母衣衆が何名もおり、獅子奮迅の戦いを見せた。1時間以上戦い続け[注釈 47](『蓮成院記録』によると)信忠勢は門を開けて打って出て、三度まで寄手を撃退したほど奮戦した[171]。小澤六郎三郎は町屋に寄宿していたが、信長がすでに自害したと聞き、周囲が止めるのも聞かずに急いで信忠の御座所に駆けつけて、明智勢を装って包囲網を潜り抜けると、信忠に挨拶をしてから門の防戦に加わった[173]。梶原景久の子松千代は町屋で病で伏せていたが、急を聞きつけて家人の又右衛門と共に御新造に駆けつけた。信忠は感激して長刀を授け、両名とも奮戦して討死した[9]。明智勢は近衛前久邸の屋根に登って弓鉄砲で狙い打ったので、信忠側の死傷者が多くなり、戦う者が少なくなった。明智勢はついに屋内に突入して、建物に火を放った[173]。
信忠は、切腹するから縁の板を外して遺骸は床下に隠せと指示し、鎌田新介に介錯を命じた。一門衆や近習、郎党は尽く枕を並べて討死しており、死体が散乱する状況で、火がさらに迫ってきたので、信忠は自刃し、鎌田は是非もなく首を打ち落して、指示に従って遺体を隠した[173]。(『当代記』によれば)鎌田は自分は追腹をするべきだと思ったが、どうした事かついに切らずじまいだった[174][注釈 48]。(御新造が焼け落ちたことで)信忠の遺体も「無常の煙」となった[176][173]。
妙覚寺には、一門衆や赤母衣衆が多数滞在していた。彼らは信忠と共に二条御新造に移って上記のように奮戦したが、衆寡敵せず、斎藤利治(新五)を中心に福富秀勝・菅屋長頼・猪子兵助・団忠正らが[177]火を放ちよく防いでいる間[178]に信忠は自刃した。側近たちもそれぞれ討ち死を遂げた。『南北山城軍記』には「班久勇武記するに遑あらず且諸記に明らけし、終に忠志を全ふして天正十壬午六月二日未刻、京師二条城中において潔く討死して、君恩を泉下に報じ、武名を日域に輝かせり」とある。
家人も忠義を尽くした。安藤守就の家臣に松野平介と云うものがあり、安藤が追放された時に松野だけは信長によって召し抱えられたために大恩があったが、変の起こったときに遠方にいて妙顕寺に着いたときにはすべてが終わっていた。松野は斎藤利三の知り合いで明智家に出仕するように誘われたが、主人の危機に際して遅参した上に敵に降参するのは無念であると言って、信長の後を追って自害した。土方次郎兵衛というものも、同じく変に間に合わなかったことを無念に思って、追腹をして果てた[173]。
※1 本能寺では上記以外に、中間衆24名が死亡したという[185]。
※2 松野一忠と土方次郎兵衛は変後に追腹をした[186]。
※3 『信長公記』には見られないが、『祖父物語』にある。鷹匠頭と云う。
※4 岡部以言(又右衛門) [注釈 51]と岡部以俊にはこのとき本能寺で戦死したという説がある。
本能寺に滞在していた女性たちは、信長に「女どもは苦しからず。さあ」として脱出を促された[187]ほか、誠仁親王と側近の公家衆や女衆も織田・明智両勢の協議により脱出を許されており、寺には僧侶などもいたため、かなりの数の生存者がいた。多くの家臣が戦って討ち死した一方で、一部の家臣には逃げ出した者もいた。
信長の弟・織田長益(源五、後の有楽斎)は、妙覚寺に滞在していて、信忠に従って二条御新造に籠もったが、臣たちを欺いて脱出し、難を逃れたという[188]。『武家事紀』によると、長益も下人に薪を積ませて自決の準備をさせていたが、周囲に敵兵がいないのに気付いて、ここで死ぬのは犬死と思い脱出したと云う[189]。『当代記』には「織田源五被遁出ケリ、時人令悪」[190]とあり、長益の脱出を当時の人は悪しき行いであると批判したといい、『義残後覚』では、長益が信忠にとにかく早く自害するようにと勧めたとされており、200余の郎党の多くも討死したのに対して、当の長益は自害せずに逃げ出したことを「哀れ」とする。さらに京童が嘲笑って、「織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げるゝ源五 六月二日に大水出て 織田の源なる名を流す」と不名誉を皮肉った落首が流れたとしている[191][189]。長益は無事に安土城を経て岐阜へと逃れた。
また刈谷城主の水野忠重(宗兵衛)も、長益同様に信忠に従って妙覚寺から二条御新造に移ったが、難を逃れて、しばらく京都に潜伏位した後、脱出している[192]。『三河物語』によれば、長益だけでなく、山内康豊(一豊の弟)も狭間をくぐって脱出したと云う[154]。
前田玄以も、京都から脱出して岐阜に逃れ、遺命に従って(岐阜城にいた)信忠の子三法師を守って、さらに清須に退いた[193][194][195]。
また、信長に仕えていた弥助は信忠が宿泊していた妙覚寺で投降して捕虜となった。もともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷であるが、弥助は捕虜となった後も殺されずに生き延びた[196][注釈 52]。しかしその後の消息は不明である[198][注釈 53]。
古典史料・古典作品には下記の本能寺の変に関係したよく知られた逸話が登場する。これらは後節で述べる諸説の根拠とされるが、史料の大半が江戸時代以降に書かれているために、全てについて信憑性に問題があり、幾つかは完全な創作と判断されている。以下、内容と共に信憑性についても説明する。
『祖父物語(朝日物語)』『川角太閤記』に見られる逸話で、甲州征伐を終えた後に諏訪で「我らが苦労した甲斐があった」と祝賀を述べた光秀に対して、「おのれは何の功があったか」と信長が激怒し、光秀の頭を欄干に打ち付けて侮辱した。衆人の前で恥をかかされた光秀は血相を変えたと云う[199]。
『祖父物語』は伝聞形式の軍記物で、比較的古い寛永年間ごろに書かれた。いわゆる、巷説を集めたもので信憑性は玉石混淆であって、登場する逸話の信憑性の判断は難しい。『信長公記』には3月19日に諏訪法花寺を本陣としたという記録[91]があって符合する点もあり、後述のルイス・フロイスの書簡などにも信長が光秀を殴打したという話があるため、荒唐無稽の作り話と否定できない[202]が、元和年間(元和7年から9年ごろ[203])の『川角太閤記』の記述を『祖父物語』が加筆して膨らませたという説もあり[199]、内容には疑問が残る。いずれにしても二次、三次的な史料である。ただしこの逸話は、光秀が朝廷工作を行って正親町天皇から「東夷武田を討て」との武田討伐の大義名分となる勅命を拝領したという功績を、信長が価値のないものとして踏み躙ったわけであるから、怨恨説の根拠の1つとしてよく引用されてきた。
明智光秀が徳川家康の饗応役を命じられながらも、その手際の悪さから突然解任されたとする話が『川角太閤記』にある。織田信長は検分するために光秀邸を訪れたが、一歩門を入ると魚肉の腐った臭いが鼻を付いたので、怒ってそのまま台所に向かって行き、「この様子では家康の御馳走は務まるまい」と言って光秀を解任し、饗応役を堀秀政に替えた。赤恥をかいた光秀は腹立ちまぎれに肴や器を堀に投げ棄て、その悪臭が安土の町にふきちらされたと云う[204]。
家康卿は駿河國御拝領の為二御禮一、穴山殿を御同道被レ成、御上洛之由被二聞召付一、御宿には明智日向守所御宿に被二仰付一候處に、御馳走のあまりにや、肴など用意次第、御覧可レ被レ成ために、御見舞候處に、夏故用意のなまざかな、殊の外さかり申候故、門へ御入被成候とひとしく、風につれ悪き匂い吹来候。其香り御聞付被成、以之外御腹立にて、料理の間へ直に御成被レ成候。此様子にては、家康卿馳走は成間敷(なるまじく)と、御腹立被レ成候て、堀久太郎の所へ御宿被二仰付一候と、其時節の古き衆の口は右の通とうけ給候。
信長紀には大寶坊所、家康卿御宿に被二仰付一候と御座候。此宿の様子は、二通に御心得可レ被レ成候。日向守面目を失ひ候とて、木具さかなの臺、其外用意のとり肴以下無レ残ほりへ打こみ申候。其悪にほひ安土中へふきちらし申と相聞え申候事。 — 『川角太閤記』より一節[205]
『常山紀談』にも「東照宮御上京の時、光秀に馳走の事を命ぜらる。種々饗禮の設しけるに、信長鷹野の時立寄り見て、肉の臭しけるを、草鞋にて踏み散らされけり。光秀又新に用意しける處に、備中へ出陣せよと、下知せられしかば、光秀忍び兼ねて叛きしと云へり」[206]とある。
『川角太閤記』は太閤秀吉の伝記ではあるが、史料としても一定の価値があると見なされた時期があり、この話は江戸・明治時代には史実と捉えられていて、怨恨説の根拠の1つとされた。同記では光秀が決起の理由を、信長に大身に取り立ててもらった恩はあるが、3月3日の節句に大名高家の前で岐阜で恥をかかされ、諏訪で折檻され、饗応役を解任されて面目を失ったという3つの遺恨が我慢ならないので、(家臣賛同が得られなくても)本能寺に1人でも乱入して討入り、腹切る覚悟だと述べている[139]。これに対して、明智秀満が進み出て、もはや秘密に出来ず「一旦口にした以上、決行するしかない」[138]という趣旨の意見を表明し、続いて斎藤利三、溝尾勝兵衛が打ち明けられた信頼に感謝して「明日より上様と呼ばれるようになるでしょう」と賛同したという話となっているのである[139]。
しかし、上記の文章内でも言及されている『信長公記(信長紀)』には、そもそも家康の宿舎は光秀邸でも秀政邸でもなく大宝坊という別の屋敷で、光秀は饗応役を3日間務めたと違う話が書かれており、解任の話は見られない。これは『川角太閤記』における光秀が謀反をした理由の核心部分であり、こういった事実がないということになれば信憑性を失う。むしろ怨恨説を説明する逸話として後世創作され、付け足された物語ではないかと考えられ、小和田哲男は、解任された可能性がないわけではないとしつつも、光秀の不手際による解任ではなく最初から3日間の任務であり、ここから光秀が信長に恨みを抱くという必然性は見いだせないとする[207]。また江戸中期の元文年間に書かれた『常山紀談』に関しては、出典の異なる多数の逸話を雑然と(しかもやや改変して)一つにまとめて載せたという二次、三次史料であり、信憑性はそもそも期待できない。
『明智軍記』に、信長の出陣命令を受けて居城に戻る際に光秀のもとに上使として青山輿三が訪れ、「(まだ敵の所領である)出雲・石見の二カ国を与えるがその代わりに、丹波と近江の志賀郡を召上げる」と伝えたという話があり、それを聞いた光秀主従が怒り落胆して謀反を決断したと云う[208]。
…惟任日向守に、出雲石見を賜ふとの儀也。…(中略)…乍レ去丹波近江は召上らるゝ由を申捨て、帰りける。…(中略)…光秀併家子郎等共、闇夜に迷ふ心地しけり。其故は出雲、石見の敵國に相向ひ、軍ヲ取結ぶ中に旧領丹波、近江を召上られんに付ては、妻子眷属小時も身を置く可き所なし。…(中略)…口惜しき次第なり。…(中略)…佐久間右衛門尉、林佐渡守、荒木摂津守、其他の輩滅却せし如く、当家も亡ぼす可き御所存の程、鏡に掛て相見え候。…(中略)…謀反の儀、是非に思立せ給ふ可しと、臣下の面々、怒れる眼に涙を浮かべて申ければ、光秀終に是れに従ひ… — 『明智軍記』より一節[209]
この話は怨恨説の有力な根拠と江戸時代はされていたが、『明智軍記』は軍記物であってもともと信憑性が薄く、徳富蘇峰は「之は立派な小説である」[209]と断じ、小和田も「事実だったとは思えない」[208]と言っている。国替えについては史料的根拠も残っていない[注釈 54]。現代の歴史学者はたとえそれが事実であったと仮定しても、所領の宛行(あてがい)はよくあったことで、この場合は形式的にも栄転・加増であって、家を追われるような類のものではなく、恨みを抱くような主旨のものではなかったと考えている。小和田は山陰という場所が「近畿管領」からの左遷にあたると思った可能性があるのではないかと秀吉ライバル視説に通じると推測する[208]ものの、「理不尽な行為とうけとるのは間違っている」[208]とも指摘する。しかも転封先の出雲には出雲大社、石見には石見銀山があり銀山という経済基盤を手に入れる事ができるなら左遷ではなく栄転の可能性もあるとされる。
『信長公記』にも、亀山城出陣を前にして愛宕権現に参籠した光秀が翌日、威徳院西坊で連歌の会を催したとある。この連歌は「愛宕百韻」あるいは「明智光秀張行百韻」として有名である[211]が、光秀の発句「ときは今 天が下知る 五月哉」の意味は、通説では、「とき(時)」は源氏の流れをくむ土岐氏の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は「天(あめ)が下(した)治る(しる)」であり、すなわち「今こそ、土岐氏の人間である私が天下を治める時である」[211]という大望を示したものと解釈される。光秀の心情を吐露したものとして、野望説の根拠の1つとされる。『改正三河後風土記』では、光秀は連歌会の卒爾に本能寺の堀の深さを問うと云い、もう一泊した際に同宿した里村紹巴によれば、光秀は終夜熟睡せず嘆息ばかりしていて紹巴に訝しげられて佳句を案じていると答えたと云うが、これはすでに信長が本能寺に投宿するのを予想して謀反を思案していたのではないかとした[212]。
『常山紀談』にも「天正10年5月28日、光秀愛宕山の西坊にて百韻の連歌しける。ときは今あめが下しる五月かな 光秀。水上(みなかみ)まさる庭のなつ山 西坊。花おつる流れの末をせきとめて 紹巴。明智土岐姓なれば、時と土岐を読みを通わせてハ天下を取るの意を含めり」[214]とある。秀吉は光秀を討取った後、連歌を聞いて怒って、紹巴を呼んで問い詰めたが、紹巴は発句は「天が下なる」であり「天が下しる」は訂正されたものであると涙を流して詭弁を言ったので、秀吉は許したと云う[215]。
百韻は神前奉納されて写本記録も多く史料の信憑性も高いが、一方で連歌の解釈については異論が幾つかある。そもそもこれは連歌であり、上の句と下の句を別の人が詠み、さらに次の人と百句繋げていくというものであって、その一部に過ぎない句を取り出して解釈することに対する批判が早くからあった。桑田忠親は「とき=時=土岐」と解釈するのは「後世の何びとかのこじつけ」[216]で明智氏の本姓土岐であることが有名になったのはこのこじつけ発であるとした。明智憲三郎は句は「天が下なる」[注釈 55]の誤記であり、「今は五月雨が降りしきる五月である」[217]という捻りの無いそのままの意味であったと主張する。
他方で、津田勇は『歴史群像』誌上「愛宕百韻に隠された光秀の暗号―打倒信長の密勅はやはりあった」[218]で、連歌がの古典の一節を踏まえて詠まれたものであると指摘。発句と脇句は『延慶本平家物語』の一文を、次の紹巴は『源氏物語花散里』の一文を、その他にも『太平記』『増鏡』など多く読み込まれている作意は、朝敵や平氏を討ち源氏を台頭させるという寓意が込められているとし、(発句の通説解釈は間違いかもしれないが)百韻は連衆の一致した意見として織田信長を討つという趣旨で、通説の構図は間違っていないと主張する[216]。これらは全体としては朝廷守護説や源平交代説などに通じるものである。また立花京子は、「まつ山」ではなく「夏山」である場合であるが、脇句が細川幽斎が以前に詠んだ句との類似を指摘している。
『総見記』『絵本太閤記』『常山紀談』などに在る話。天正7年(1579年)6月、光秀は自身の母親を人質として出し、丹波八上城主波多野秀治・秀尚兄弟や従者11人を、本目の城(神尾山城か)での酒宴に誘って、彼らを伏兵で生け捕りにして安土に移送したが、秀治はこの時の戦傷がもとで死に、秀尚以下全員は信長の命令で磔にされた。激怒した八上城の家臣は光秀の母親を磔にして殺害したと云うもの。
光秀天正七年六月、修験者を遣して、丹波の波多野右衛門大夫秀治が許に、光秀が母を質に出し謀りければ、秀治其弟遠江守秀尚、共に本目の城に来りけるを、酒宴して饗し、兵を伏せ置きて、兄弟を始め従者十一人を生捕り、安土に遣しけり。秀治は伏兵と散々に戦ひし時、
傷を蒙り途中にて死す。信長秀尚以下を安土にて磔にされたり。丹波に残り居たる者ども、明智が母を磔にしたり。… — 『常山紀談』[219]
この話は怨恨説のうちでも、とりわけ有名であるが、『総見記』や『柏崎物語』は、光秀の「調略」による波多野兄弟の誘降に関する記録を恣意的に解釈したもので、事実とはほど遠く、創作であり、信じるに足りない[220]。
『信長公記』によると、長期の包囲により八上城内は飢餓状態に追い込まれ、草や木をも食用とし、最後には牛や馬を食べたが、ついに口にするものがなくなり、城外に出たところを包囲軍に切り捨てられたとされ、頃合を見計らって光秀は、調略をもって秀治を捕らえたとされる[221][220]。この場合の調略は、秀治の家臣を誘降し、彼らの手で城主の波多野兄弟を捕らえさせ、降伏させたという説があるから、人質交換の余地など、全く見当たらない。戦況からして、八上城の落城は確実であったわけであるから、光秀としても、あえて母親を人質とする必要に迫られることはなかったのである[220]。
文禄年間に書かれた[注釈 58]雑話集『義残後覚』[223]に、庚申待の際に小用で黙って退出しようとした光秀が、酔った信長から槍を首筋に突きつけられ「如何にきんか頭何とて立破るぞ」と凄まれる話がある。光秀は平謝りして許され、頭髪を乱して全身から冷や汗をかいた[224]。これを発展させた話が『常山紀談』にあり、「又信長ある時、酒宴して七盃入り盃をもて光秀に強ひらるゝ。光秀思ひも寄らずと辞し申せば、信長脇差を抽き、此白刃を呑むべきか、酒を飲むべきか、と怒られしかば酒飲みてけり」[219]と、これでは無理矢理飲まされた[201]ように加筆されている。似たような話が江戸後期の随筆『翁草』にも収録されているが、これらは共に信憑性は薄い。フロイスの『日本史』には信長自身が酒を飲まなかったとあり、信長が酒を嗜まなかったという話は同時代の医師ルイス・デ・アルメイダの書簡にも見られるので事実と考えられており[225]、信長が酔って絡むといった話はそもそもあり得ないことだった。
『川角太閤記』などのある話。斎藤利三はもともと稲葉一鉄の被官(家来)であったが、故あって離れ、光秀のもとに身を寄せて家臣として高禄で召し仕えられたので、一鉄が信長に訴え、信長は利三を一鉄のもとへ返すよう命じた。光秀はこれを拒否して「畢竟は君公の恩に奉ぜんが為」といったが[226]、信長は激怒して光秀の髷を掴んで引き摺りまわし、脇差に手までかけた。光秀は涙を流して憤怒に堪えたとする。
信長事の外、御立腹有て、予が下知にても、聞間敷とや、推参なりと被レ仰、髻を取て、二三間突走らかし給へば、其儘御次の間へ退出す。光秀が婿織田七兵衛尉信澄、御前に在りけるが、此有様を見て、驚き噪ぎ立つ。信長忿怒の余りに、御脇差を抜かんとし給へ共、早く北去り静まり給ふ。明智は御次の間にて、涙を流し、面目を失ひたりと云て、我屋へ帰りけり。是を見る人、光秀の風情、只事ならざると囁きけれ共、御取立の出頭人なれば、誰有て御耳に立る者無し。頓て御前も相済、折々の出仕なり。 — 『東照軍鑑』[226]
『常山紀談』では「其後稲葉伊予守家人を、明智多くの禄を与へ呼び出せしを、稲葉求むれ共戻さず。信長戻せと下知せられしをも肯はず。信長怒って明智が髪を捽み引き伏せて責めらるゝ。光秀國を賜り候へども、身の為に致すことなく、士を養ふを、第一とする由答へければ、信長怒りながらさて止みけり」[227]とある。その他、『明智軍記』『柏崎物語』などにも同種の話があり、怨恨説の根拠の1つとされる。
『信長公記』に、天正10年(1582年)4月3日、甲州征伐で武田氏が滅亡した後に恵林寺(甲州市塩山)に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠が、織田元秀・長谷川与次・関長安・赤座永兼に命じて寺を焼き討ちさせた。僧150人が殺され、住職快川紹喜は身じろぎもせずに焼け死んだ[228]。有名な「心頭滅却すれば火もまた涼し」は紹喜の辞世の句の下の句という。
以上が史実であったが、『絵本太閤記』等ではこれに加えて、光秀が強く反対し、制止しようとして信長の逆鱗に触れ、折檻してさらには手打ちにしようとしたと云う、これまで見てきたものと似たような展開とされている。しかし、そもそも焼討を命じたのは信忠であり、同日、信長は甲府にいた。他方で、快川紹喜は土岐氏の出身で、光秀も内心穏やかではなかったのではないかという説[229]もあり、(光秀が制止したという創作は除いて)諸説の補強説明に利用されることがある。
信長が寂光寺にて観戦した算砂と利玄の対局は三コウが現れ無勝負で終わったが、その直後に信長が討ち取られたことから、三コウは不吉の前兆とされるようになった[230]。この対局の棋譜は128手目まで残されているが、三コウが出現したところまでの手順は残っていない。128手目では白を持っていた算砂が勝勢であったとするのが長年の形勢判断であり、故に有利な算砂が三コウによる無勝負を受け入れる理由がないため、後世の創作であるとされてきた[230]。2022年になり、プロ棋士の桑本晋平が残された棋譜を精査した結果、白の勝勢が決してはおらず、黒と白が最善を尽くした上でなお三コウへと至る手順が存在しうることを発表した[230]。
本能寺の変は当時最大の権力者であった信長が死亡し、時代の大きな転換点となった事件であり、小和田哲男は戦国時代における最後の下剋上と評している[231]。信長を討った光秀がその動機を明らかにした史料はなく、また光秀の重臣も短期間でほとんど討たれてしまったため、その動機が明らかにされることはなかった[232]。更に光秀が送った手紙等も後難を恐れてほとんど隠蔽されてしまったため、本能寺の変の動機を示す資料は極めて限定されている。小和田は「日本史の謎」と表現している[233]。「永遠のミステリー」といった表現が行われることもある[234]。
明治以降、本能寺の変というテーマは何度も研究家に取り上げられ、通史の中で触れられてきた。東京帝国大学教官の田中義成、渡辺世祐、花見朔巳、牧野信之助などのほか、近世日本国民史の著者である徳富蘇峰も持論を述べている[235]。しかし、織豊期・日本中世史の研究者が謀反の動機を究明する動きは一貫して低調であった[236]。呉座勇一によれば、現在の日本史学会においては光秀が謀反を起こした理由は重要な研究テーマと見られておらず[237]、日本中世史を専門とする大学教授が本能寺の変を主題とした単著は極めて少ない[238]。呉座は該当する単著は藤田達生の『謎とき本能寺の変』[239]ぐらいであろうとしているが、この本も信長権力の評価に重点が置かれている[240]。本能寺の変の歴史的意義としては信長が死んだことと秀吉が台頭したことであり、光秀の動機が何であれ、黒幕がいたとしても後世の歴史に何の影響も与えておらず、日本中世史学会において光秀の動機や黒幕を探る議論は「キワモノ」であると見なされている[238]。在野史家の桐野作人はそのような学会での評価を踏まえた上で、本能寺の変の真相を究明することで織田権力内部における固有の矛盾の有り様や織田権力末期の実態を解明できるかもしれないとしている[236]。
しかし、史料が存在しないということは、裏返すと個人の推理や憶測といった想像を働かせる余地が大きいということであり、中世史研究家ではない「素人」でも参入しやすい[241]。このため、在野の研究家のみならず、専門の中世史研究家ではない小説家・作家といった多くの人々が自説を展開してきた[241]。呉座はこれほど多くの説が乱立している日本史上の陰謀は他にないと評している[241]。
なぜ光秀は信長を討ったのか。「これが定説だ」とか「通説になっている」というものは現在のところ存在しない[242][注釈 59]。変の要因については、江戸時代から明治・大正を経て昭和40年代ごろまでの「主流中の主流」[234]の考えは、野望説と怨恨説であった。「光秀にも天下を取りたいという野望があった」[242]とする野望説は、謀反や反逆というものは下克上の戦国時代には当たり前の行為[242]であったとするこのころの認識から容易く受け入れられ、古典史料に記述がある信長が光秀に加えた度重なる理不尽な行為こそが原因[243]であったとする怨恨説と共に、史学会でも長らく揺らぐことはなかった。これは講談・軍記物など俗書が広く流布されていたことに加えて、前節著名な逸話で述べたように、二次、三次的な古典史料に対して考証的検証が不十分だったことに起因する。2説以外には、頼山陽が主張した自衛のために謀反を起こしたとする説[244]など、受動的な動機を主張するものの総称である不安説(焦慮説/窮鼠説)もあったが、怨恨が恐怖に復讐が自衛に置き換わっただけで論拠に本質的な違いはなかった。
戦後には実証史学に基づく研究が進んだが、この分野で先鞭をつけた高柳光寿は野望説論者で、昭和33年(1958年)に著書『明智光秀』を発表してそれまで比較的有力視されてきた怨恨説の根拠を一つひとつ否定した[242]。怨恨説論者である桑田忠親がこれに反論して、両氏は比較的良質な一次史料の考証に基づいた議論を戦わせたが、桑田は昭和48年(1973年)に同名の著書『明智光秀』を発表して、単純な怨恨説(私憤説)ではなく武道の面目を立てるために主君信長を謀殺したという論理で説を展開した[242]ので、それが近年には義憤説、多種多様な名分存在説に発展している。信長非道阻止説の小和田哲男もこの系譜に入る。また野望説は、変後の光秀の行動・計画の支離滅裂さが批判されたことから、天下を取りたいという動機を同じにしながらも事前の計画なく信長が無防備に本能寺にいることを見て発作的に変を起こしたという突発説(偶発説)という亜種に発展した[242]。しかし考証的見地からの研究で判明したことは、結局、どの説にも十分な根拠がないということであり、それがどの説も未だに定説に至らない理由となっている。
野望説も怨恨説も不安説等も光秀が自らの意思で決起したことを前提とする光秀単独犯説(光秀主犯説)であったが、これとは全く異なる主張も現れた。作家八切止夫は、昭和42年(1967年)に著書『信長殺し、光秀ではない』を発表して主犯別在説(いわゆる、陰謀論の一種)の口火を切った。八切は「濃姫が斎藤利三と共謀して本能寺に兵を向けさせた。その際、四国侵攻準備中の織田軍をマカオ侵略と誤認した宣教師が、爆薬を投げ込んで信長を殺害したもの」[234]で「光秀自身はまったく関与していない」と書き、光秀無罪という奇想天外な主張をしたので、歴史家には無視されたものの、史料の取捨選択と独自解釈について一石を投じるものとなった[234]。
また、昭和43年(1968年)に岩沢愿彦が「本能寺の変拾遺 ―『日々記』所収天正十年夏記について」[245]という論文を発表して勧修寺晴豊の『日々記』を活字で復刻した[246]ことをきっかけにして公家衆の日記の研究が進み、平成3年(1991年)に立花京子は『晴豊公記』の新解釈に基づく論文「信長への三職推任について」[247]を、平成4年(1992年)には今谷明が著書『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』を発表して注目を集めた[248]。平成ごろになって史学会では朝廷黒幕説(朝廷関与説)が脚光を浴びて、有力な説の1つのように見なされるようになった[31]。従来より黒幕説は登場人物を自由に動かして“物語”を書きやすいことから作家に好まれたものであり、数えきれないほどの人物が黒幕として取り上げられていた[249]が、そういった創作分野に史学が混ざったことで一層触発されて、現在も主犯存在説と黒幕存在説(共謀説)の2系統[注釈 60]、そして複合説と呼ばれる複数の説を混ぜたものが増え続けている。平成21年(2009年)に明智憲三郎が発表した著書『本能寺の変 427年目の真実』[注釈 61]は共謀説に分類される。
こうして光秀単独犯説が定番だったものが、光秀を背後で操る黒幕がいたとか、陰謀があったとか、共謀者がいたとかいう雑説が増えていくと、黒幕説(謀略説)には何の史料的根拠もなく空中楼閣に過ぎないという当然の反論や批判が登場した。平成18年(2006年)に鈴木眞哉と藤本正行は共著『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』で黒幕など最初からいないとして、黒幕説には以下の共通する5つの問題があると指摘した[250]。
藤本は平成22年(2010年)に発表した著書『本能寺の変―信長の油断・光秀の殺意』でも朝廷黒幕説を含めた各種の黒幕説を批判している[251]。
また平成26年(2014年)の石谷(いしがい)家文書の公表によって、近年は四国征伐回避説(四国説)も着目されているが、この説の取り扱いについては後述する。
本能寺の変の謎については結局は肝心の動機がわからず定説が存在しないため、さまざまな諸説・空説が登場し、歴史家・作家だけでなく歴史愛好家も自らの主張を展開して、百家争鳴という現状であるが、平成6年(1994年)に歴史アナリスト後藤敦が別冊歴史読本(『完全検証信長襲殺 : 天正十年の一番長い日』)誌上で、これらの諸説を整理して大きく3つに分けてさらに50に細分化して分類した。下表はそれに別資料の8つ、その他を加えて59にまとめたものである。これらには一部が重複するあるいは複合する内容や同じことを別の表現で言っているものがある[252]ために、それぞれが全く異なる説であるというわけではない。表の中身には研究と創作とが混ざっており、中には何ら史料的裏付けがなく、全くの憶測で説が提唱されている場合もあり[252]、すべて同等に扱うのは適切ではない[252]が、全体像を明らかにするために一覧として示した[注釈 62]。
光 秀 単 独 犯 説 ・ 光 秀 主 犯 説 | I. 積極的謀反説 | II. 消極的謀反説 | ||
---|---|---|---|---|
III. 名分存在説(義憤説) | IV. 複合説 | |||
主 犯 存 在 説 ・ 黒 幕 存 在 説 | V. 主犯存在説(主犯別在説) | VI. 従犯存在説 | ||
VII. 黒幕存在説(黒幕説) | VIII. 黒幕複数説(共謀説) | |||
そ の 他 | IX. 関連説 | |
---|---|---|
|
※ 無罪説という分類もあるが、分類の都合上除き、本文中に記した。
明智光秀が自らの意思で決起して本能寺の変を起したという説の総称。単独犯行説や光秀主犯説、光秀単独謀反説など幾つか同義の言い方がある。
光秀が自らの意思で能動的に決起したという説の総称。
…人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度明智を足蹴にしたということである。だがそれは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事であったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智は何らかの根拠を作ろうと欲したかもしれぬし、あるいは〔おそらくこの方がより確実だと思われるが〕、その過度の利欲と野心が募りに募り、ついにはそれが天下の主になることを彼に望ませるまでになったのかも知れない。… — 『完訳フロイス日本史』より一節[259]
謀反は光秀の本意ではなく、何らかの理由があって止むを得ずに決起したという説の総称。
光秀が謀反を起こした理由を、野望や怨恨、恐怖といった感情面に求めるのではなく、信長を討つにはそれだけの大義名分があったとする説の総称[265]。光秀が自ら決起したことを前提にして私的制裁(狭義の私憤説)を否定し、時には個人的な野心すらも否定する。大義名分が何であったか、大義(もしくは正義)の内容によって諸説が派生した。史料的論拠が不十分でも大義という論理に基づいた行動は説得力があるように見えるので歴史学者が好んで用いて、近年多くの説が発表されている。義憤説、理想相違説など様々な呼び方がある。
幾つかの説を組み合わせて、内容を取捨選択、補完して説を形成しているものの総称。説として史料的に論証されたものは存在しない。そもそも根拠が示されていないものも多く、論証することは余り考慮されていない。幾つかの状況証拠の点と線を結び付けて説を構成するのに便利なために作家・歴史愛好家が良く用いる。
主犯存在説(主犯別在説)は、実行者や主犯となるべき人物が光秀以外の他の別人であるという説の総称。無罪説とも言う。
従犯存在説は、光秀を主犯にあるいは主犯を特定せずに、謀反を幇助した従犯の存在に着目して、本能寺の変の全像の一部を解説しようという説の総称。黒幕説を補完するだけのものもあるが、必ずしも黒幕説や陰謀論に与するものだけではなく、変の要因の背景に着目するものも含まれる。
信長を討ったのは光秀自身の意思ではなく、何らかの黒幕の存在を想定してその者の意向が背景にあったとする説の総称。黒幕を複数と想定するものは黒幕複数説に分類され、黒幕説、共謀説と云う。複合説も参照。
信長の朝廷政策については、従来より研究者の間で見解が分かれており、結論はでていない。本能寺の変と朝廷との関係についていろいろと憶測する説があるが、この結論がでないことには、前提が成り立つのかどうかすらはっきりしないということを意味する。
近年になって唱えられている新たな説。信長の死に光秀は全く関与しておらず、全く別の人物が信長を討ったとするもの。この説の流れを詳しく説明すると、まず、本能寺の変の真の実行犯は織田信忠であるとされている。
理由としては以下のような点が挙げられる。
・三河物語にて信長が「城之助(信忠)がべつしんか」と真っ先に信忠の関与を疑っており、己の息子を危険視していた点。
・甲州征伐の際に武田勝頼を裏切った小山田信茂を穴山梅雪らと共に信長は優遇しようとしていたが、信忠が信長の意に反して信茂を処刑していた点。(一方の信長も後に信忠の反対を押し切って恵林寺の焼き討ちを指示しており、甲州征伐以降に親子関係に溝が見られた)
・信忠は甲州征伐後にかつて婚約関係にあった松姫を改めて自らの正室として迎え入れようとしていた(実際に信忠は最後まで正室を置かなかった)が信長は反対しており、当時、北条家を頼って八王子に逃れていた彼女を誅殺しようとしていた。その矢先に本能寺の変が起こった点。
・安土城にいた信長の側室とその子供達が危害を加えられる事もなく、蒲生賢秀の手引きで賢秀の居城である日野城へ脱出に成功しており、その日野城も秀吉の長浜城や長秀の佐和山城と異なり、攻撃を受けていない点。(もしも、光秀の謀反ならば敵討ち防止の観点から信長の妻子を生かしておく理由が見当たらない。仮に信長亡き後の織田家に傀儡の当主を擁立する目的があったにしても、娘婿の津田信澄という信長の息子達よりも遥かに都合の良い人物もいたはずである)
その後、信長を討った信忠は配下の諸将達に協力を求めたが、畿内にいた光秀はこれを拒否して「主君、信長の仇討ち」と称して二条御所にいた信忠を討ち取った。しかし、信忠に合力すべく、引き返してきた秀吉らに破れて死に追い込まれたというものである。
また、この説が真実の場合、
・親殺しの信忠に忠誠を誓い、信忠を討ち取った忠臣である光秀を死に追いやった点。
・その後の清洲会議にて秀吉はその信忠の子である織田秀信を後継者に擁立した点。
など、秀吉側にとって都合が悪い部分が多い事から先述の怨恨説などは、明智光秀を謀反人に仕立てあげるために捏造されたものとも読み取れる。
天正3年9月に北ノ庄を拝領して以来、北陸は柴田勝家が管轄していた。謙信亡き後に御館の乱が起きた時、信長はその間隙を突いて越中に狙いを定める。天正6年4月7日、追放されていた(信長の義兄にあたる)神保氏張に黄金百枚を与えて帰還させると、飛騨の姉小路頼綱にこれを支援させた[54]。飛騨路より神保長住を先鋒とする織田勢が攻め寄せると、上杉家重臣河田長親と椎名道之は津毛城に拠って防戦したが、9月24日にさらに援軍として斎藤利治が出陣したと聞き、退却。放棄された津毛城に長住が入った[55]。10月4日、利治は月岡野の戦いで上杉勢に大勝[56]し、織田勢は翌年までに富山城を陥れて、越中の西半分を平定した。一方、越後では天正7年(1579年)3月24日に景虎が自害して乱は終息するものの、上杉景勝は残党狩りと越後平定に忙しくて反撃する余力がなかった。加賀国は孤立状態になり、天正8年閏3月9日、越前より再び侵攻した勝家は一向一揆の徹底した鎮圧に着手した[57]。同時に越中森山(守山)より長連龍が能登に侵攻し、閏3月30日、温井景隆・三宅長盛兄弟を飯山で撃破した[58]。末森城・土肥親真は降伏し、温井・三宅兄弟は信長に陳謝して能登半国を差し出すことで許された[59]。5月ごろまでに能登・加賀の大半は平定され、佐久間盛政が調略にて加賀尾上城を落して[60]、11月17日には一向一揆の首謀者が梟首[61]に処された。信長は能登の国政を前田利家に委ねると決めて取りあえず飯山城に入れ、富木城に福富秀勝が、七尾城に菅屋長頼が城代として派遣された[62]。
ところが北陸三国が平定されたのも束の間、天正9年2月から3月にかけて、馬揃えのために、勝家・勝豊・不破光治・金森長近・原政茂・利家などの越前衆、佐々成政・長住などの越中衆の諸将が上洛して手薄になると、その隙に上杉景勝の増援を得た河田長親が越中で反撃に出た。上杉勢は松倉城より出撃して、3月9日に小出城を包囲し、扇動された一向一揆の残党が白山麓から加賀に攻め込み、別宮城・府峠城を攻め落としたのである。しかし尾上城主として留め置かれていた盛政が即座に反撃して府峠城を奪還し、安土に急報する。この間、越前衆は2月27日に馬揃えに参加し、越中衆は3月6日に遅れて上洛した。15日に安土で信長に拝謁した北陸衆一同は帰国反撃を命じられて昼夜を徹して移動。24日、成政・長住が小出城の救援に来ると聞いて長親は包囲を解いて撤退し、成政は守山城に入った。信長はその迅速な成功を喜び、成政を越中の守護に任じると言った[63]。5月、織田勢に包囲されていた松倉城で長親が死去した[64]。6月27日、七尾城で遊佐続光ら3名がかつて叛逆したかどで切腹を命じられ、これを聞いた温井・三宅兄弟は次は我が身と恐れて出奔した。7月6日、越中木舟城主石黒成綱主従が上杉への裏切りを疑われて近江に誘い出され、丹羽長秀が誅殺した[65]。能登では主城以外の城砦が破却され、利家は七尾城に移った。
天正10年3月、武田勝利の誤報を信じた一揆が越中に起こり、小島職鎮と一揆勢が富山城を落として長住を監禁した[66]事件を機に、勝家ら北国諸将に出陣の号令が出された。成政と盛政は先陣争いをして不仲であったが、勝家は両名を先陣に指名した。魚津城の戦いの包囲中、5月16日、景勝は天神山城に後詰で入リ[67]、下知を受けた長景連が海路から能登に侵入して棚木城を奪った。5月21日、利家は長連龍と共にこれを攻略し、景連の首を勝家の陣中に届けた[68]。信長も利家の勝利を喜び、海津城の森長可が信州より春日山城を襲い、上野厩橋城の滝川一益も、三国峠を越えて越後に乱入するので、天神山城から撤退するであろう景勝を追撃するように勝家に準備を指示していた[69]が、変があって実現しなかった。天正5年10月23日、播磨に出陣して以来[70]、中国は概ね羽柴秀吉が管轄した。中国役当初の毛利氏は12ヶ国にまたがる大勢力で、流浪の将軍足利義昭を擁し、石山本願寺三度目の挙兵とも組んで信長包囲網を形成していたので、中国経略は信長の前に立ち塞がる最大の未完事業となっていたが、この時点では謙信が存命で勝頼とも事を構えていたために自ら出向くことはなかなか難しく[71]、「手の者」[72]として最も信頼できる秀吉が起用された。秀吉自身にとっても、少し前に勝家と仲違いをして北陸から無許可で引き揚げたことで信長の勘気を蒙ったので[73]、この機会に忠勤に励んで信長の知遇に報いて見せる必要があった。
播磨で前年に御着城主小寺政職が黒田孝高(小寺孝隆)の策に従って信長に帰順したことが、織田勢力を引き入れる端緒となったが、秀吉は出陣すると赤松三十六家衆に人質を出させ、但馬に侵攻して11月中旬に岩洲城、竹田城を攻略して秀長を入れた[70][74]。秀吉は次に11月27日、赤松政範の籠る播磨上月城を包囲し、竹中重治と孝高には福原城を攻撃させた。救援に来た宇喜多直家は遠巻きにするのみで、12月1日に福原城が落城し、3日に上月城も落ちた。秀吉は、政範の首を差し出して助命を嘆願する城兵を許さずに尽く切伏せ、上月城には尼子勝久・山中幸盛の主従を入れた[75]。10日、信長は播磨・但馬平定を喜び、恩賞として秀吉に乙御前釜を与えた[76]。
ところが、天正6年2月23日、7千の兵を率いて加古川城に入った秀吉との軍議の席で気分を害した別所賀相が、甥長治を説得して反旗を翻し三木城に籠城すると、志方城の櫛橋治家、神吉城の神吉長則、高砂城の梶原景行、野口城の長井四郎左衛門、淡河城の淡河定範、端谷城の衣笠範景と次々と呼応。秀吉は重棟に説得させたが長治は拒絶したので攻撃して4月3日に野口城を落すが、直家の要請で攻め寄せた毛利勢が上月城を包囲した[77]という報せで引き返す。秀吉は荒木村重と共に2万を率いて高倉山に陣取ったが、小早川隆景2万、吉川元春1万5千、宇喜多忠家1万4千からなる敵はさらに多勢であった。増援を求められた信長は自ら出陣すると言い出したが重臣が反対。結局、4月29日に滝川・明智・丹羽が、5月1日に信忠(総大将)・信雄(信意)・信孝・信包・長岡藤孝・佐久間信盛が出陣した[30][78]。戦線が膠着すると、6月16日、秀吉は京に戻って信長の下知を受け、上月城救援を断念して三木城攻囲に専念する。21日、高倉山から陣払いすると、7月3日、勝久は諦めて切腹し、上月城は落城した。6月27日より信忠は神吉城を攻めていて、三木城の兵糧道を断とうとした。7月16日に神吉城の天守閣は炎上。信盛の誘いで城将が投降し、志方城も明け渡された[79]。三木城は補給困難となり、毛利勢も撤兵して「三木の干殺し」が始まるが、10月に村重が謀反を起こし、政職も呼応して離反したために一時中断を余儀なくされる[80]。
天正7年2月、この機に別所勢は平井山の攻囲軍に逆襲を試みたが撃退され、治定が討死した[81]。村重は抗戦1年余の9月2日に有岡城を脱出して大物城に逃亡し、4日には宇喜多直家が秀吉の降誘に応じた。この調略は信長に無断であって激怒されたが、10日、毛利勢が海路から来て御着城・曾禰城・端谷城の城兵と共同し三木城へ兵糧を運ぼうとして平田村で谷衛好の砦を襲い、急を駆けつけた秀吉が大村で迎撃して大勝したので、その際に許されて信長より感状を受けた[82]。天正8年1月17日、三木城はついに屈服し、城兵を助けるという条件で別所一族は尽く自害した[83]。4月、英賀城を落して播磨をついに再平定し、秀吉は姫路城の改修普請を始めた。また再び秀長の軍を増強して有子山城の山名祐豊を降して但馬を平定した[84]。対して吉川元春・元長の軍勢が伯耆に侵攻して羽衣石城の南条元続と岩倉城の小鴨元清を攻撃したので、6月6日、秀吉は因幡・伯耆に向かい、まず鹿野城を落して補給路を確保し、その際に鳥取城の山名豊国の娘を捕えたので、9月、豊国を単身投降させたが、家臣中村春続・森下道誉は徹底抗戦を主張[85]。
天正9年2月、鳥取城は吉川経家を大将として招き入れると籠城を始めた[85]。秀吉は事前に若狭商人を使って因幡の米を買占めて、6月25日に出陣すると城の全周に柵と堡塁を築いて、雁尾城・丸山城と通じる糧道を遮断した[86]。兵糧を運び込むことに度々失敗した毛利勢は雁尾・丸山城から撤退。飢餓状態の鳥取城は10月まで「鳥取の渇殺し」に堪えたが、ついに経家・道誉・奈佐日本介の3将の首を差し出して降伏することになり、24日、切腹して翌日投降した[87]。秀吉はさらに杉原家次をして吉岡城・大崎城を降伏させ、因幡を平定した[88]。元春は再び南条・小鴨兄弟の両城を攻撃して馬之山に陣をしいた。28日、秀吉もすぐに出陣したが、馬之山の守りが固いと見て、7日間対陣して戦わずに姫路に帰還[89]。11月8日に秀吉は池田元助と淡路に侵攻して岩屋城の安宅清康を下して平定。清康が追放された後は、元助を同城に入れた[90]。
天正10年3月5日、秀吉は山陽道に出陣。17日に跡取りの羽柴秀勝が備前の児島で初陣を飾った[91]。4月4日、宇喜多秀家の岡山城に入城。対する小早川隆景は備中の高松城、宮路山城、冠山城、加茂城、日幡城、松島城、庭瀬城の7城の城主を三原城に集めて警戒を命じていたが、14日、秀吉は宇喜多勢と龍王山と八幡山に陣して、高松城の包囲を準備し、他方で支城の攻略を目指した。25日に冠山城が陥落して林重真が切腹。5月2日に乃美元信が開城して宮路山城を退去し、加茂城では生石治家が寝返ったが桂広繁が戸川秀安の強襲を撃退して辛うじて本丸を守った。7日、秀吉は蛙ヶ鼻に陣を移し、足守川を堰き止めて高松城を水没させた[92]。15日、秀吉は信長に状況を知らせ、毛利勢の総大将が間もなく出陣すると報告した。2日後、これを聞いた信長は、明智光秀らに出陣を命じた。21日、輝元・元春・隆景の総勢3万の援軍が到着したが、毛利勢は秀吉の堅陣を崩すことは難しいと判断し、さらに信長出陣の噂を聞いて、講和交渉のために逆に守将清水宗治を説得していたところに、変が起こった[93]。東経135度45分14秒 / 北緯35.00583度 東経135.75389度 / 35.00583; 135.75389
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