木子七郎

建築家

木子 七郎[1](きご しちろう、1884年(明治17年)4月30日 - 1955年(昭和30年)8月24日)は、日本建築家

木子七郎
生誕1884年明治17年)4月30日
京都府
死没 (1955-08-24) 1955年8月24日(71歳没)
静岡県熱海市
国籍日本の旗 日本
出身校東京帝国大学工科大学建築科[1][2]
職業建築家
木子清敬
所属大林組→木子七郎建築事務所

経歴

旧木子七郎邸(大正年間竣工・大阪市中央区)

1884年明治17年)、宮内省内匠寮技師の木子清敬の四男として京都に生まれる。木子幸三郎の弟である[1]1896年(明治29年)、高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。1901年(明治34年)、高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。

第四高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築科に入る。1911年(明治44年)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業[1][2]大林組設計部技師として来阪。1913年大正2年)、大林組を退職し、木子七郎建築事務所を開設する。建築設計監督の業務を開始[1]。その後、日本赤十字社病院嘱託、日本赤十字社大阪支部病院嘱託、合資会社新田帯革製造所嘱託などを務める。

1921年(大正10年)、海外を視察(中国、インド、欧州、アメリカ)。1937年昭和12年)、フランスより、レジオンドヌール勲章を授与される。1955年(昭和30年)、逝去。

人物

大阪を拠点に公共建築などの設計を手がけた。とりわけ、妻・カツの父で、新田帯革製造所(現・ニッタ)創始者の新田長次郎関係の作品が多く、新田家の出身地である愛媛県にも作品を残している。

木子の設計による日本赤十字社大阪支部病院は、1934年(昭和9年)の病棟改築の後も第二期工事として本館の改築が予定されていた。ところが日中戦争の勃発により建設が中断。戦後の本館新築に際しては、存命だった木子から日本赤十字社に申し入れがあり、設計が依頼された。ところが欧米の病院へ視察に向かう10日前に熱海の自宅(当時)で吐血して倒れ、果たせなかった。木子のあと日本赤十字社の嘱託であった松井貴太郎が設計を行い、1959年(昭和34年)に完成した[3]

住所は大阪市東区十二軒町[1][2]

家族・親族

木子家
親戚

主な作品

*現況欄の✕は現存せず

建造物名所在地現況備考
/旧木子七郎邸1913年(大正2年)?27大阪市中央区
/新田長次郎琴乃浦別邸
(現・琴ノ浦温山荘)
1915年(大正4年)30和歌山県海南市重要文化財
/大阪国技館(初代)1919年(大正8年)27大阪市浪速区
/山陰合同銀行出雲支店1920年(大正9年)32島根県出雲市
/旧稲畑二郎邸1928年(昭和3年)28兵庫県神戸市東灘区
/旧久松伯爵本邸
(現・萬翠荘
1922年(大正11年)38愛媛県松山市重要文化財
/石崎汽船旧本社1925年(大正14年)38愛媛県松山市登録有形文化財
/旧山口萬吉邸1928年(昭和3年)13東京都千代田区共同設計:内藤多仲今井兼次
/旧新田利國邸
(現・松山大学温山記念会館)
1928年(昭和3年)28兵庫県西宮市登録有形文化財
/愛媛県庁本館1929年(昭和4年)38愛媛県松山市登録有形文化財
/鍵谷カナ頌功堂1929年(昭和4年)38愛媛県松山市登録有形文化財
/松江商工会議所1929年(昭和4年)32島根県松江市
/新田帯革製造所東京出張所1930年(昭和5年)13東京都中央区
後の新田ビル
/新潟県庁舎本館1932年(昭和7年)15新潟県新潟市
/日本赤十字社大阪支部病院1934年(昭和9年)27大阪市天王寺区
/関西日仏学館
(現・アンスティチュ・フランセ関西-京都)
1936年(昭和11年)26京都市左京区登録有形文化財原案:レイモン・メストラレ(フランス人)
設計監督:木子七郎
/一楽荘 洋館・二代目田村駒治郎[5]1939年(昭和14年)西宮市甲子園

脚注

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
  • 原田登編『帝国大学出身録』帝国大学出身録編輯所、1922年。
  • 校外調査会編『帝国大学出身名鑑』校外調査会、1932年。
  • 石田潤一郎著『関西の近代建築』。
  • 日本建築学会編『新版 日本近代建築総覧』。
  • 『建築と社会 第19輯第7号』日本建築協会、1936年(昭和11年)7月。
  • 『赤十字の旗なにわに百年』日本赤十字社大阪府支部、1989年 

外部サイト