斎藤 敦夫 | |
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誕生 | (1940-06-20) 1940年6月20日(84歳)![]() |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 立教大学法学部卒 |
活動期間 | 1970年 - |
ジャンル | 児童文学 |
主な受賞歴 | 日本児童文学者協会新人賞 野間児童文芸賞 |
デビュー作 | 『グリックの冒険』 |
親族 | 田村文吉(祖父) |
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斎藤 惇夫(さいとう あつお、1940年6月20日 - )は、日本の児童文学作家、編集者。新潟県出身。
1940年に新潟県新潟市に生まれる[1]。小学校から高校卒業までを長岡市で過ごす[2]。新潟県立長岡高等学校を卒業後、立教大学法学部法学科に進学。60年安保闘争に参加[3]。同大卒業後、大手電機メーカーに勤務した[1]。
その後、福音館書店編集部に勤務。長年にわたり児童書籍の編集に携わる[2]。同社編集担当取締役となった[1]。
1970年の処女作『グリックの冒険』で、翌年に日本児童文学者協会新人賞を受賞する[4]。
1972年の『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』で、国際児童年特別アンデルセン賞優良作品に選出される[2]。
1983年には、『ガンバとカワウソの冒険』で野間児童文芸賞を受賞した[5]。
『冒険者たち』はロングセラーとなり、「ガンバの冒険」の題で連続アニメ化された[6]。
また、劇団四季により『冒険者たち ガンバとその仲間』というタイトルで1976年より繰り返し上演されている[7]。
これらの作品の続編の執筆を望む読者の声は多いが、本人はもともとこれらの作品を三部作として位置づけていたため、続編を執筆することは考えていない。作家としては寡作である。2010年、23年ぶりの創作『哲夫の春休み』を上梓した。
母方の祖父は政治家・田村文吉であることを日本共産党さいたま市浦和区後援会の機関紙のインタビューで言った[8]。
処女作となった『グリックの冒険』を書くきっかけは、斉藤の家で育てていたシマリスにまつわるエピソードからと同作のあとがきで自身述べている[9]。また、斉藤本人の幼い頃の実体験も、この作品の執筆に生かされている[9]。
『グリックの冒険』の反響は大きく、読者から次作の催促があったが、その多くがガンバとその仲間のストーリーを望むものであったという[10]。しかし、斉藤はガンバを主人公にして物語を描くことを考えてはいなかった[10]。この頃、斉藤は福音館書店で童話の編集に携わっていた。ある日仕事で八丈島へ行くことになった[10]。八丈島で野生のイタチを目撃し、太陽の光を浴びて白く見えたイタチに心を奪われ、『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』の着想に至り、作品を書き上げた[10]。
斉藤はカワウソを好きな動物に挙げているが、『ガンバとカワウソの冒険』執筆前には、当時ニホンカワウソが絶滅の危機に瀕しているのを知らなかったという[11]。ガンバの冒険シリーズの挿絵を担当していた薮内正幸と、絶滅の危機にある動物について語り合った際に、斉藤はニホンカワウソの置かれている状況を知り得た[11]。ニホンカワウソに興味をもった斉藤は、高知県を訪れ取材を重ねるなどし、『ガンバとカワウソの冒険』を完成させた[11]。
『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』と『ガンバとカワウソの冒険』の執筆については、薮内正幸との話が少なからず執筆のきっかけになったようである[10][11]。
旧版のある作品は、新版のみ記載[注 1]。
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