押切町駅

押切町駅(おしきりちょうえき)は、かつて愛知県名古屋市西区菊井町[2](現・押切一丁目8番)にあった、名古屋鉄道(名鉄)一宮線である。名古屋市内のターミナル駅の一つであったが、新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)の開業に伴い廃止された。

押切町駅
廃止直前の様子(1941年)
おしきりちょう
OSHIKIRICHŌ
柳橋 (2.2 km)
(0.6 km) 平野町
所在地愛知県名古屋市西区菊井町
北緯35度11分8.2秒 東経136度53分8.4秒 / 北緯35.185611度 東経136.885667度 / 35.185611; 136.885667 (押切町駅)
所属事業者名古屋鉄道
所属路線一宮線
キロ程0.0 km(押切町起点)
駅構造地上駅
ホーム3面6線
乗車人員
-統計年度-
11,900人/日(降車客含まず)
-1940年[1]-
開業年月日1901年(明治34年)2月19日
廃止年月日1941年(昭和16年)8月12日
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歴史

名古屋鉄道の前身となる名古屋電気鉄道は、もともと名古屋市内における路面電車(市内線、市電)を運営していた会社であったが、後にアメリカで流行していたインターアーバンを視察し、それを規範にして郡部線と呼ばれる郊外路線を建設することにした(後の名古屋本線津島線、一宮線、犬山線など)。この時、郡部線電車のターミナル駅として建設されたのがこの押切町駅であった。後に名古屋市西区総合庁舎が置かれた(現在は同区花の木に移転)場所で、市内線の北端に位置していた。

しかし、市街地へ行くには市内線へ乗り換える必要があって、不便でもあった。名古屋電気鉄道ではこれを解消しようと、インターアーバンの手法に倣って郡部線の電車を市内線に乗り入れさせるようにし、国鉄名古屋駅近くの柳橋交差点の辺りに柳橋駅を設け、ここを新たな発着駅にさせた。だが同駅は敷地が狭く、線路容量に余裕がなかったこともあって、一部の電車は押切町駅発着で残された。

その後、名古屋電気鉄道は市内線を名古屋市へ移管(名古屋市電となる)し、郡部線を新設会社の(旧)名古屋鉄道へ移管して解散した。しかしながら、市内線の市営化後も柳橋駅までの乗り入れは継続された。

また、(旧)名古屋鉄道が名岐鉄道になった後の1935年昭和10年)に名岐線(現在の名古屋本線枇杷島分岐点以北)が開業し、新製車のデボ800形(後のモ800形初代)を用いて特急・急行電車の運転が開始されたが、これは車体規格が大型であって市電に乗り入れるのに適さなかったことから、押切町駅始発となった。そのため、柳橋駅からは津島犬山方面の急行・普通電車で押切町駅まで来て、特急電車に数分で乗り継げるようなダイヤを組んでいた。

名岐線開業まもなく、名岐鉄道は愛知電気鉄道(愛電)と合併し、現在の名古屋鉄道が発足する。名鉄では、愛電が有していた神宮前駅をターミナルにして名古屋南東部へ向かう路線(名古屋本線神宮前以東・常滑線など)と、名岐鉄道が有していた路線の直通運転を目論むようになり、東海道本線に並行して枇杷島橋駅 - 新名古屋駅(後の名鉄名古屋駅) - 神宮前間に新線を敷設することにした。

その過程で、枇杷島橋駅 - 新名古屋駅間が1941年(昭和16年)に開業したため、押切町駅や柳橋駅、そして押切町駅 - 東枇杷島駅間にあった平野町駅廃止された。

年表

駅構造

島式ホーム3面6線と、広い構内を有していた。

配線図

押切町駅 構内配線略図
柳橋駅
菊井町方面(市電)

枇杷島橋方面
浄心前方面(市電)
凡例
出典:[4]


利用状況

『愛知県統計書』によると、年間乗降人員および荷物取扱量は以下の通りである。

年度乗車人員(人)降車人員(人)発送貨物到着貨物出典
小手荷物(貨物 ()小手荷物(斤)貨物 (噸)
1914年度436,600393,697191,30315,938??[5]
1915年度527,844527,572161,47519,293??[6]
1916年度571,268574,561188,50327,457??[7]
1917年度680,840671,954239,22833,979[8]
1918年度685,220757,770201,37944,134[9]
1919年度863,823856,560172,55547,556??[10]
1920年度920,125920,496149,24736,773?11,559[11]
1921年度498,444896,424105,70945,282?7,457[12]
1922年度1,311,0221,357,149107,83951,2279,459[13]
年度乗車人員(人)降車人員(人)発送貨物到着貨物出典
小手荷物(貨物 ()貨物 (噸)
1923年度1,365,0511,415,007104,22754,21312,140[14]
1924年度1,486,1861,581,534105,48756,0458,524[15]
1925年度1,486,6081,608,685111,40249,3028,908[16]
1926年度1,5,38,0271,607,636118,95253,1557,126[17]
1927年度1,621,6271,786,613142,62860,4739,282[18]
1928年度1,727,0431,881,077144,24166,2956,908[19]
1929年度1,809,0941,923,996147,71728,3668,085[20]
1930年度1,889,6741,970,377567,39022,0824,231[21]
年度乗車人員(人)降車人員(人)発送貨物到着貨物出典
小手荷物(貨物 ()貨物 (瓲)
1931年度1,766,3721,837,51068,80629,6457,230[22]
1932年度1,808,3901,840,24752,04825,3375,511[23]
1933年度1,763,9661,780,43752,04831,3409,566[24]
1934年度1,885,0921,929,837102,80421,6837,695[25]
1935年度2,136,3312,164,926?29,8827,238[26]
1936年度2,330,5772,132,458?33,3509,630[27]
1937年度2,780,5472,578,278?33,6339,391[28]
1938年度2,837,7702,592,144?31,605?[29]
1939年度3,658,3213,726,615?33,67010,623[30]
1940年度4,343,7473,973,890?29,32611,125[1]

隣の駅

名古屋鉄道
一宮線
柳橋駅 - 押切町駅 - 平野町駅

脚注