後藤 彦三郎(ごとう ひこさぶろう、前名・寛一郎[1][2][3]、1883年(明治16年)1月1日[4] - 1938年(昭和13年)6月9日[4])は、日本の実業家。族籍は鳥取県平民[5][6]。
島根県人・後藤彦三郎の長男[1][6][7]。1898年、家督を相続し、後に前名寛一郎を改め襲名する[1]。1906年、専修大学経済科を卒業[1][2][7]。鉱業を営む[8]。日東格魯謨鉱業常務取締役、同社専務取締役[1]、同社社長などをつとめる[3]。
1933年7月に国幣中社美保神社新営費金1千円を寄附したため1934年3月5日に褒状が下賜される[9]。
米子飛行場建設の頃、多額の資金を提供する[4]。1938年、自治制発布五十周年記念式が挙行される時、市会の決議により、波文黒手付果実盛一個並彰功録自治史各一部を贈呈され、その功労を表彰される[4]。
『西伯之資力 大正11年10月調』によると、地価金額は「1419円43銭」、所得税は「118円30銭」である[10]。鳥取県在籍で[1]、住所は鳥取県米子市灘町一丁目[1][3][4]。