山本寛斎

日本のファッションデザイナー、イベントプロデューサー (1944-2020)

山本 寛斎(やまもと かんさい、本名の読み:やまもと のぶよし、1944年2月8日[1] - 2020年7月21日[2])は、日本ファッションデザイナーイベントプロデューサー

山本 寛斎
やまもと かんさい
山本寛齋
本名山本 寛斎
(やまもと のぶよし)
誕生日 (1944-02-08) 1944年2月8日
出生地日本の旗 日本 神奈川県横浜市
死没年 (2020-07-21) 2020年7月21日(76歳没)
芸術分野ファッションデザイナー
イベントプロデューサー
受賞第21回装苑賞
ファッション・エディターズ・クラブ賞
第7回日本イベント大賞・審査員特別賞
第7回東京クリエイション大賞・国際賞
第21回民俗衣装文化功労者・国際文化大賞
2004年ベストジーニスト賞
ウェブサイトKANSAI YAMAMOTO,Inc.
www.kansaiyamamoto.jp
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寛斎スーパースタジオ会長。別名表記、やまもと寛斎神奈川県横浜市生まれ。岐阜市出身[3]

経歴

神奈川県横浜市生まれ。岐阜県立岐阜工業高等学校を経て、日本大学文理学部英文科中退。

1971年に日本人として初めて、ロンドンファッションショーを開催したことでも知られる[4]。このロンドンのショーがデビューとなり、1974年にパリコレクション、1979年にはニューヨークコレクションに参加[5]フランス・パリイタリア・ミラノ米国・ニューヨークスペイン・マドリードなど世界各地の主要都市に「ブティック寛斎」を出店しファッションデザイナーとしての地位を確立した。ほかにタレントや俳優としての活動や、観光立国懇談会(VISIT JAPAN)、2005年「日・EU市民交流年海外事業」など、日本政府諮問事業の委員[6]大阪芸術大学客員教授を務めた。

幼少期に両親が離婚、3人兄弟で父方に引き取られ高知県に移る。しかし父親の育児放棄により児童相談所に収容される。その後、父に引き取られ、父方の祖母がいた岐阜市に落ち着く。この間、高知や大阪などで10数回の転校を繰り返す。父が洋服縫製業を始め、寛斎も縫製の手伝いをするようになった。そのうちに中学の友人から制服の改造を頼まれ、中学生にしてミシンを踏むようになり[7]、のちにお針子を目指すようになった[4]。そのきっかけとなったのが、映画『太陽がいっぱい』のファッションセンスに惹かれたからであった[4]。また、応援団長となり、さまざまな応援の振り付けを考えるようになった[7]

高校へ通う折、建築科に通いたかったもののその学校にはなく、建築科と課程が同じだろうと思って土木建築科に通った[4]。実際に通ってみると、建築の基礎となる土木工事に関するものが中心とする課程で、かつ現場では賄いのおばさんしかいなかったので、挫折する経験をした[4]

ある時、電信棒に貼ってあった第2回日本アマチュアシャンソンコンクールのポスターを見て、これに応募[4]オクターブ違いの「愛の讃歌」で出場するも結果は鐘一つだった[4][注 1]。この時の優勝者が加藤登紀子で、のちに所属事務所との縁で彼女と一緒に仕事することになり、「あの時寛斎さんが受からなくてよかったね。だから今、私たちの舞台に来て、挨拶ができるようになりました。」と感謝されており、以後親しい友人となっている[4]

デヴィッド・ボウイのステージ衣装「TOKYO POP」(1973年)[8]

大学進学のため、上京。横浜で洋裁教室をしていた実母と再会し、ここで装苑賞の存在を知り応募に至る。その後コシノジュンコ、細野久などのデザイナーの下で働いた後、1971年に独立して、株式会社「やまもと寛斎」を設立した。同年、ロンドンで、日本人初となるコレクション 『Kansai in London』を実施した。1973年には、デビッド・ボウイのステージ衣装「TOKYO POP」も手がけ、1975年にはパリで既製服のコレクションを発表した。

また、山本は2010年に開業した日本の京成電鉄成田スカイアクセス新AE形の車輌デザインを担当したが、車体色の選定は候補の7色を直接車両に塗って行ったという[9]

2020年3月31日、2月に急性骨髄性白血病との診断を受け、入院し治療中であることを公表した[10]。同年7月21日、急性骨髄性白血病により死去した。76歳だった。娘・山本未來が「父、山本寛齋は去る7月21日、私を含め家族が看取る中、安らかに76歳にてこの世を旅立ちました」と報告した[2]。同年開催された「BUSTERCALL=ONE PIECE展」に出展された「『ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)』を手に入れたモンキー・D・ルフィが着ているであろう『海賊王』のコート」が生前最後のアート作品となった[11][12][13]

人物

異母弟は俳優の伊勢谷友介。32歳年下であり、娘で女優の山本未來よりも2歳年下である。

複雑な家庭環境であり、原因は父親にあった。自由奔放で女性関係にだらしなく、何度も育児放棄された。時にはまだ中学生の山本に店を任せたまま女性の元へ走った。山本は寂しく辛い思いを経験したため「父のような男にはならない。結婚したら妻と子供を命懸けで守る。」と決めていた。

娘の未来が誕生した際に、デザイナーとして挫折を経験し、貧しい生活の頃であったため、希望を託す意味で「未来」と名付けた。また、娘の未来を溺愛しており、結婚式では娘だけではなく、(娘婿であった)椎名桔平の衣装もデザインしており、かつ結婚式のプロデューサーを務めた。

歌舞く」をテーマにした独特な衣装を手掛けており、洋服ながら着物のような柄を取り入れたり、仏像から影響を受けた立体感のある服をデザインしている。習字のように描いたデザインも特徴の1つであり、世界各国での人気も高い。

一般向けには、一色だけで纏めたシンプルなデザインのカクテルドレスなども制作している。

家族

  • 娘(次女[14]) - 山本未來(女優)
  • 弟 - 山本斎彦(やまもと よしひこ、寛斎スーパースタジオ会長)

(他、実弟が1人)

主なデザイン作品

学校関連

現在未使用のものを含む。

その他

出演

パフォーミング・アート

山本寛斎は「KANSAI SUPER SHOW」という名称で、ファッション、音楽、舞台芸術を混合したパフォーミング・アートのイベントを開催している。

映画

  • 青の炎(2003年、東宝) - 曾根 隆司 役

テレビ

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著書

関連項目

脚注

注釈

出典

外部リンク