人物情報 | |
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生誕 | (1897-02-18) 1897年2月18日 日本香川県仲多度郡 |
死没 | 1983年2月27日(1983-02-27)(86歳没) |
出身校 | 京都帝国大学 |
子供 | 金関恕(考古学者) |
学問 | |
研究分野 | 解剖学、自然人類学 |
研究機関 | 台北帝国大学・九州大学・鳥取大学・山口県立医科大学 |
学位 | 医学博士 |
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金関 丈夫(かなせき たけお、1897年2月18日 - 1983年2月27日)は、日本の解剖学者、人類学者。
1897年、香川県仲多度郡榎井村(現:琴平町)に生まれる。松江中学校、1919年7月第三高等学校卒業。1923年7月京都帝国大学医学部解剖学科を卒業、すぐに解剖学教室助手(足立文太郎教授)に就任[1]。1925年4月、同解剖学教室助教授。1930年9月に論文「琉球人の人類学的研究」を京都帝国大学に提出して医学博士号を取得した[2]。パリの人類学研究所に留学。
1934年、台北医学専門学校(1936年に台北医学専門学校は台北帝国大学医学部に改組)教授となる。終戦後も中華民国国立台湾大学教授として台湾に留まり、1949年8月に引き揚げるまで研究を続けていた。ちなみに、戦争中、金関丈夫の自宅は、米軍の空襲目標から外されていたと言われている。[要出典]
1950年3月、九州大学医学部教授となる。1960年に定年退官。1960年4月鳥取大学医学部解剖学教室教授、1962年4月山口県立医科大学(現:山口大学医学部)教授、1964年4月帝塚山大学教授に就任し1979年まで人類学調査を継続的に行っていた[3]。
括弧内は共著者名。