安部和春

日本のプロ野球選手 (1940 - 2023)

安部 和春(あべ かずはる、1940年4月7日 - 2023年3月25日[1])は、大分県速見郡山香町(現:杵築市[2]出身のプロ野球選手投手)。

安部 和春
基本情報
国籍日本の旗 日本
出身地大分県速見郡山香町(現:杵築市
生年月日 (1940-04-07) 1940年4月7日
没年月日 (2023-03-25) 2023年3月25日(82歳没)
身長
体重
181 cm
76 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1959年
初出場1962年
最終出場1969年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物

杵築高校ではオーバースローで速球とドロップを武器にしていた。在学中の1959年西鉄ライオンズの入団テストに合格し入団。博多高校に転校し、日曜日のみ二軍の練習に参加[2]。その後、1962年に一軍初登板を記録するも右手を故障。この故障をきっかけに「アベボール」と呼ばれる微妙に変化する変化球を開発した[2]1963年は中継ぎを中心に10勝。1964年は先発・中継ぎ双方をこなし、初めて規定投球回(9位、防御率2.75)に達する。同年は11勝と2年連続で二桁勝利を挙げた。特に1963年はリーグ優勝に大きく貢献し[2]、同年の巨人との日本シリーズでは4試合に登板。10月26日の第1戦(平和台)では1回に負傷降板の田中勉を急遽リリーフするが、王貞治に本塁打を浴び敗戦投手となる。しかし同31日の第4戦(後楽園)では4回から田中を好リリーフ、自身の日本シリーズ初勝利を記録。1965年は再び中継ぎ中心の登板に戻り、同年オフに本間勝とのトレードで阪神タイガースに移籍。移籍後も中継ぎを中心に登板し投手陣を支えた。1969年は1試合の登板に終わり、同年オフに現役を引退した。

引退後は博多区上川端町で、スナック「ドンレオあべ」のマスターを務めた[3]

2023年3月25日、肺塞栓症のため死去。82歳没[1]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1962西鉄9311111----.5009425.0192201411772.520.84
1963533000101----.909564144.0101114337643030281.751.00
19644919531115----.688728177.015295629550063542.751.18
196540500046----.40037890.092112101272041363.601.26
1966阪神29811055----.50033778.17623505221036303.461.42
196724200035----.37518243.14151610250020153.141.32
196820300023----.40017643.04031001230015142.931.16
19691000000----.00041.010000000000.001.00
通算:8年225437523626----.5812463601.252243183624220712121842.751.17

背番号

  • 14(1960年 - 1969年)

脚注

関連項目

外部リンク