姜徳相
姜 徳相(カン・ドクサン、강덕상、1932年2月15日 - 2021年6月12日)は、日本統治時代の朝鮮出身の歴史学者。専門は朝鮮近現代史、特に朝鮮独立運動。滋賀県立大学名誉教授[1]。国籍は韓国。
略歴
- 1932年2月 慶尚南道咸陽郡生まれ[2]
- 1934年12月 来日[2]
- 1950年3月 東京都立青山高等学校卒業[2]
- 1955年3月 早稲田大学第一文学部史学科卒業[2]
- 1960年3月 早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了[2]
- 1960年4月 明治大学大学院文学研究科史学専攻東洋史専修博士課程入学[2]
- 1963年 明治大学大学院文学研究科史学専攻東洋史専修博士課程単位取得満期退学、朝鮮史研究会幹事[2]
- 1968年4月 東京大学東洋文化研究所研究委嘱[2]
- 1973年4月 明治大学文学部兼任講師[2]
- 1977年4月 信州大学人文学部外国人講師[2]
- 1977年10月 東京大学東洋文化研究所講師[2]
- 1979年4月 学習院大学東洋文化研究所客員研究員[2]
- 1981年4月 法政大学大学院社会学科研究科兼任講師[2]
- 1984年4月 一橋大学社会学部講師[2]
- 1985年4月 横浜国立大学経済学部講師[2]
- 1986年4月 一橋大学大学院社会学研究科講師[2]
- 1987年4月 一橋大学経済学部講師[2]
- 1988年4月 一橋大学社会学部講師[2]
- 1989年4月 一橋大学社会学部教授[2]
- 1995年3月 定年退職[2]
- 1995年4月 滋賀県立大学人間文化学部教授[2]
- 2005年11月 在日韓人歴史資料館初代館長[3]
- 2021年6月12日午前9時30分頃、悪性リンパ腫により東京で死去。89歳没[4][1]。
主張
- 朝鮮史に対する尊敬の認識を持つために、日本人は第二次世界大戦で日本は米国に負けたのではなく、朝鮮の独立運動に負けたのだという認識を持つべきだと主張しており[5]「国はなくなっても〝朝鮮民族まだ死せず〟を全世界にアピールしたのが>、三・一運動だった。官憲に弾圧されても中国、ロシアに逃れ、反日統一戦線を形作った。日本が第2次大戦に負けたのは原爆もあるが、すでにアジアの民族解放運動との力比べでつまずいていた。」と述べている。
- 日韓併合は「独立運動を虐殺で押さえ込むなど、併合ではなく軍事的な占領だった」だと主張し[6]、日韓併合以降の朝鮮史を「1910年代は土地調査事業による土地よこせ、20年代は産米増殖計画による米よこせ、30年代は皇民化政策による人よこせ、40年代は徴用、徴兵による命よこせ、の4つに区分できる」としている[7]。
- 「明治時代はジェノサイドの歴史だった。」と主張し、司馬遼太郎の歴史観を『坂の下はどしゃぶりだった』と非難している[8]。
- 戦前の在日朝鮮人が急激に増加した理由については「農耕民族であった朝鮮民族は、土地政策により土地を奪われ、労働力を売って生活をする最底辺の労働者となり、海を渡って、農民からプロレタリアートへ転化させられた」と主張している[7]。
- 関東大震災における朝鮮人虐殺は「日本の民衆が流言飛語に乗せられて朝鮮人を虐殺したというのは誤りで、軍隊と警察が率先して朝鮮人虐殺を実行し、朝鮮人暴動のデマを流して民衆を興奮させ、虐殺を煽動した。」と主張し、「国家権力を主犯に民衆を従犯にした民族的大犯罪、大虐殺となったのである」と結論づけている[9]。
- 北朝鮮による日本人拉致問題については「『北』がミスを犯したことがきっかけになって、麻生、江藤、石原といった人たちに代表される様々な歴史的な妄言を繰り返す。これが10年前だったら麻生にしろ石原にしろ首が飛んでいただろう。」と憤慨している[10]。
著書
単著
- 『関東大震災』中公新書、1975年
- 『朝鮮独立運動の群像―啓蒙運動から三・一運動へ』青木書店、1984年
- 『朝鮮人学徒動員―もう一つのわだつみのこえ』岩波書店、1997年
- 『呂運亨評伝1 朝鮮三・一独立運動』新幹社、2002年
- 『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化叢書)青丘文化社、2003年
- 『呂運亨評伝2 上海臨時政府』新幹社、2005年
- 『時務の研究者 姜徳相 – 在日として日本の植民地史を考える』(姜徳相聞き書き刊行委員会編)三一書房、2021年
編著
- 『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年
- 『現代史資料25~30 朝鮮』1~6、みすず書房、1966~1976年
共著
訳著
- 林鍾国著『ソウル城下に漢江は流れる 朝鮮風俗史夜話』朴海錫, 姜徳相 訳 平凡社 1987年1月 ISBN 9784582474183