奥野誠亮

日本の内務官僚、政治家

奥野 誠亮(おくの せいすけ/せいりょう、1913年大正2年〉7月12日 - 2016年平成28年〉11月16日)は、日本内務官僚政治家。第16代国土庁長官、第39代法務大臣、第95代文部大臣。栄典は正三位勲一等奈良県御所市出身。

奥野 誠亮
おくの せいすけ
生年月日 (1913-07-12) 1913年7月12日
出生地日本の旗 日本奈良県御所市
没年月日 (2016-11-16) 2016年11月16日(103歳没)
死没地日本の旗 日本東京都渋谷区神宮前
出身校東京帝国大学法学部政治学科
前職内務省官僚
自治省官僚・事務次官
法務大臣
所属政党自由民主党
称号勲一等旭日大綬章
衆議院永年在職議員
法学士
子女長男・奥野信亮
次男・奥野正寛
親族父・奥野貞治(御所町長)

日本の旗 第16代 国土庁長官
内閣竹下内閣
在任期間1987年11月6日 - 1988年5月13日

日本の旗 第39代 法務大臣
内閣鈴木善幸内閣
在任期間1980年7月17日 - 1981年11月30日

日本の旗 第95代 文部大臣
内閣第2次田中角栄内閣
第2次田中角栄第1次改造内閣
在任期間1972年12月22日 - 1974年11月11日

選挙区奈良県全県区→)
奈良3区
当選回数13回
在任期間1963年11月22日 - 2003年10月10日
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経歴

奈良県南葛城郡御所町、現在の御所市出身。父は浪速製氷冷蔵社長、御所郵便局長、奈良県議会議員御所町長を務めた奥野貞治。

奈良県立畝傍中学校第一高等学校を経て、1938年昭和13年)3月、東京帝国大学法学部政治学科卒業[1]

内務官僚時代

同年4月、内務省入省[1]静岡県内務部配属[2][3]。その後、山梨県内務部人事課長[2]

第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)に鹿児島県警察部特高課長として新興俳句弾圧事件の一つであるきりしま事件を指揮する。

長崎への原爆投下がされた翌朝に内務省が各省庁の官房長を集めて会議を開いたが、当時、同省地方局戦時業務課の事務官をしており、ポツダム宣言に「戦争犯罪人は処罰する」(第10条)と書かれていたため、戦犯を出さないように公文書の焼却(=証拠隠滅)を提案した[4](日本が正式に降伏し、昭和天皇がこれを受けて「公有財産の毀棄を禁止する」詔書を出したのは9月2日)。

自治官僚時代

第二次世界大戦終戦後、内務省の廃止に伴い、内務省地方局を前身とする自治庁(後の自治省、現在の総務省)に移る。自治庁税務部長、自治庁税務局長、自治省財政局長を歴任し、柴田護と共に戦後の地方財政制度を作り上げた人物である。自治官僚時代には道州制を唱えて、県制と道州制のそれぞれの長所と短所を指摘した。衆議院議員に転進した後にも、県の合併に関する法案を出したが、廃案となった[注釈 1]

1963年(昭和38年)7月に自治事務次官に就任するが、池田勇人首相や、奥田良三奈良県知事らに口説かれ10月退官し衆議院議員総選挙に立候補[5]

政治家時代

1963年(昭和38年)11月、第30回衆議院議員総選挙奈良県全県区から自由民主党公認で立候補し、当選。以後、13回連続当選。政治姿勢は右派であり、憲法改正靖国神社参拝などを主張して来た。

従軍慰安婦問題に対しては「従軍慰安婦は商行為」と発言し、積極的に反対論を展開していた[6]

1972年(昭和47年)、第2次田中角栄内閣文部大臣として当選4回で初入閣。在任中は学校教育の水準の維持向上のための義務教育諸学校の教育職員の人材確保に関する特別措置法成立に尽力した。1980年(昭和55年)、鈴木善幸内閣法務大臣に就任。法務大臣時代にはロッキード事件裁判が進行中であり、これに関して「検察は人の道を外れたようなことをしてはならない」と述べたことが検察庁指揮権者の法務大臣として不適切な圧力ではないかとする批判を野党から受けた[7]1987年(昭和62年)竹下内閣では国土庁長官に任命され、土地対策にその手腕が期待されていたが、1988年(昭和63年)5月9日衆議院決算委員会で日中戦争について「あの当時日本に侵略の意図は無かった」と発言[注釈 2]して批判を浴び、5月13日に国土庁長官を辞任。国士タイプの官僚として、「国庁長官」などと揶揄された。

通算3度の入閣を経験している。その後も、裁判官弾劾裁判所長、衆議院倫理審査会会長、自民党憲法調査会最高顧問などを務めた。

1993年第40回衆議院議員総選挙後に自民党が結党以来初めて政権から下野することが確定すると、非自民・非共産連立参加諸党は従来の慣行を覆して比較第一党の自民党ではなく連立側から元日本社会党委員長の土井たか子衆議院議長に擁立することを決定。通常は全会一致となる特別国会冒頭の議長選挙において、自民党は抗議の意図から敗北を承知で奥野に投票している(連立不参加の日本共産党も自党の独自候補である山原健二郎に投票)。

2003年5月31日に麻生太郎が東大での講演会で「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と発言した[9]ことを批判した野中広務に対して、「朝鮮名のままだと商売がやりにくかった。そういう訴えが多かったので、創氏改名に踏み切った。私が内務官僚として判子をついた」と述べ、野中を黙らせた[10][11]

2003年(平成15年)10月、第43回衆議院議員総選挙には高齢のため立候補せず、長男の奥野信亮に地盤を譲る形で政界から引退した。

2013年7月12日に紀寿(100歳、数え歳では101歳の誕生日)を迎え、そのお祝いとして友人の綿貫民輔島村宜伸から東京スカイツリーの見学に招かれた[12]

2015年11月の日本記者クラブでの記者会見では、未だに憲法改正が実現していないことについて「いつまでたっても戦後は終わらない。そろそろ自前の憲法を作ろう」と表明[13]

ほか、みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会初代会長。平城遷都1300年記念事業協会特別顧問。奈良大学理事を務めた。

2016年11月16日、老衰のため、東京都渋谷区神宮前の自宅で死去[14][13]。103歳没。正三位に叙された[15]

人物

  • 反ジェンダーフリーで、選択的夫婦別姓制度にも反対した[16]
  • 長男の奥野信亮によれば、奥野は国際勝共連合の支援を受け、その見返りとして同団体の活動に協力したとされる[17]
  • 自治省財政局長時代、佐藤栄作に「(議員)バッジを付けてからものを言え」と言われた。同じ自治省出身の後藤田正晴は理論派の奥野に理屈で勝てなかったことによる発言であるとして「これは佐藤栄作さんの負けなんだな」と述べている[18]
  • 院内を移動中、杖を突きながら歩く鯨岡兵輔を追い抜く際、「年長者を挨拶無しに追い抜くとは何事か!」と怒鳴られた。しかし実際には、1915年9月15日生まれの鯨岡よりも、1913年7月12日生まれの奥野の方が年長者であった(衆議院議員当選は2人とも同じ1963年)。政界を引退した後にも、岩見隆夫と遭遇した際、エスカレーターに乗った岩見がふと階段のほうを見ると、奥野がスタスタと階段を下りていたという[19]
  • 自治大臣国家公安委員会委員長をしていた縁で「人権110番」主宰の千代丸健二と対談。「警察署長クラスに苦情・抗議を申し入れても埒が明かないときはどうすればいいのか」と問われた際に「オレのところに持って来い。国会で取り上げる」と答えた[20]

親族

選挙歴

当落選挙執行日年齢選挙区政党得票数得票率定数得票順位
/候補者数
政党内比例順位
/政党当選者数
第30回衆議院議員総選挙1963年11月21日50奈良県全県区自由民主党5万8017票14.70%52/10/
第31回衆議院議員総選挙1967年01月29日53奈良県全県区自由民主党6万175票14.71%53/9/
第32回衆議院議員総選挙1969年12月27日56奈良県全県区自由民主党7万7369票16.78%51/9/
第33回衆議院議員総選挙1972年12月10日59奈良県全県区自由民主党8万7754票16.99%52/8/
第34回衆議院議員総選挙1976年12月05日63奈良県全県区自由民主党10万550票17.89%51/7/
第35回衆議院議員総選挙1979年10月07日66奈良県全県区自由民主党11万5285票20.89%51/6/
第36回衆議院議員総選挙1980年06月22日66奈良県全県区自由民主党12万8654票21.88%51/6/
第37回衆議院議員総選挙1983年12月18日70奈良県全県区自由民主党8万5927票13.34%53/8/
第38回衆議院議員総選挙1986年07月06日72奈良県全県区自由民主党12万6605票19.19%51/7/
第39回衆議院議員総選挙1990年02月18日76奈良県全県区自由民主党11万245票14.60%53/10/
第40回衆議院議員総選挙1993年07月18日80奈良県全県区自由民主党11万3254票15.25%53/8/
第41回衆議院議員総選挙1996年10月20日83奈良3区自由民主党7万2682票42.14%11/4/
第42回衆議院議員総選挙2000年06月25日86奈良3区自由民主党6万8695票42.05%11/4/

著書

所属団体

脚注

注釈

出典

関連項目

外部リンク

公職
先代
倉石忠雄
法務大臣
第39代:1980年 - 1981年
次代
坂田道太
先代
稲葉修
文部大臣
第95代:1972年 - 1974年
次代
三原朝雄
先代
綿貫民輔
国土庁長官
第16代:1987年 - 1988年
次代
内海英男
名誉職
先代
原健三郎
最年長衆議院議員
2000年 - 2003年
次代
山中貞則