奥平昌暢

奥平 昌暢(おくだいら まさのぶ)は、豊前国中津藩6代藩主。中津藩奥平家10代。

 
奥平昌暢
奥平昌暢像(自性寺蔵)
時代江戸時代後期
生誕文化6年1月25日1809年3月10日
死没天保3年11月30日1832年12月21日
改名恒丸・九八郎(幼名)、昌暢
戒名探源院殿心厳道轍大居士
墓所東京都品川区南品川東海寺清光院
官位従四位下美作守大膳大夫
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
豊前中津藩
氏族奥平氏
父母奥平昌高、歌子
兄弟軽姫、富之進、昌暢、得之助、圭太郎、
昌猷加藤泰理室、永井尚典室、
生駒親愛、鉄姫、成瀬正住室、
稲葉幾通室、池田慶政、金之助、
生駒親道島津忠寛室、青木一咸
牧野忠直、フチ、隼之丞、菅沼新八郎室、銈姫、内藤頼愛室、操姫、鍼姫
徳川斉敦娘国子、照寿院
昌服、儀姫ら
昌猷
テンプレートを表示

生涯

文化6年(1809年)1月25日、第5代藩主・奥平昌高の次男として江戸で生まれる。長兄が早世していたため、生まれてすぐに世子となった。文政5年(1822年)12月16日に従四位下・美作守に叙位・任官する。文政8年(1825年)5月6日、父の隠居により家督を継ぎ、大膳大夫に遷任した。

藩政は隠居した父と協力して行い、新田開発や藩法改正などの改革を積極的に行うなどしたが、父に先立って天保3年(1832年)11月30日に江戸で死去した。享年24。

子の昌服は3歳の幼少だったため、弟の昌猷が跡を継いだ。

系譜