太陽と鉄 | |
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訳題 | Sun and Steel |
作者 | 三島由紀夫 |
国 | ![]() |
言語 | 日本語 |
ジャンル | 自伝、随筆、評論 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
初出情報 | |
初出 | 「太陽と鉄」-『批評』1965年11月号-1968年6月号(全10回) 「F104」(のち「太陽と鉄 エピロオグ―F104」)-『文藝』1968年2月号 「イカロス」-1967年3月14日執筆 |
刊本情報 | |
刊行 | 『太陽と鉄』 |
出版元 | 講談社 |
出版年月日 | 1968年10月20日 |
装幀 | 横山明 |
総ページ数 | 150 |
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『太陽と鉄』(たいようとてつ)は、三島由紀夫の自伝的随筆・評論。三島自身は、「告白と批評との中間形態」としている。主に自らの肉体と精神、生と死、文と武を主題に書かれたもので、三島の文学、思想、その死(三島事件)を論じるにあたり重要な作品である[1]。刊行に際しては、終章として自衛隊の戦闘機「F104機」に搭乗し、成層圏を超音速飛行した経験の随筆と長詩を付加している。〈太陽〉との2度の出会い(昭和20年の夏の敗戦と昭和27年の海外旅行体験)を通じて「思考」が語られ、〈鉄〉はボディビルの鉄塊の重量(肉体をあるべきであつた姿に押し戻す働き)」として「筋肉」との関連で語られている。
1965年(昭和40年)、同人季刊雑誌『批評』11月号から1968年(昭和43年)6月号まで10回連載された[1][注釈 1]。その後、1968年(昭和43年)、文芸雑誌『文藝』2月号に掲載された随筆「F104」(のち「太陽と鉄 エピロオグ―F104」)と、1967年(昭和42年)3月14日に即興で執筆していた長詩「イカロス」を終章として加え、1968年(昭和43年)10月に講談社より単行本刊行された[3][4]。
翻訳版はジョン・ベスター訳(英題:Sun and Steel)をはじめ、イタリア(伊題:Sole e acciaio)、フランス(仏題:Le soleil et l’ acier)、ポルトガル(葡題:Sol e aço)、中国(中題:太陽與鐵/太阳与铁)などで行われている[5]。
三島由紀夫は『太陽と鉄』を、「甚だ長い時間をかけて書き、自分の文学と行動、精神と肉体の関係について、能ふかぎり公平で客観的な立場から分析したもの」だとし[6]、「この〈公平〉といふこと、肉体と精神の双方に対して〈公平〉であるといふ態度ほど、日本知識人にとつて難解な態度はないらしく、このエッセイに深甚な関心を示されたのは、虫明氏や秋山駿氏や少数の人だけであつた」と残念がりながら、以下のように語っている[6]。
実際、肉体と精神双方に対して公平であることが、無私に通ずるかどうかは疑はしい。無私は多くは自虐の仮面によつて受け入れられやすいものだからである。「太陽と鉄」は、私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのやうなものであり、二元論的思考の発生の生理学的必然性の物語でもあるが、日本の風土のなかでは、「一如」はあつても二元論はない。それは又、西欧的な意味の「劇」を成立たせる基盤がないことでもある。私が二元論者であること、文学と行動とどちらをも等分に重視すること、私が劇作家であること、私の小説は劇的構造に偏しすぎること、私の政治的思考が極端な対立状況に傾きがちなこと、……全く、「物が二つになるが悪しきなり」といふ精神風土で、この態度は一体何たることであらうか。私の「絶対矛盾的自己同一」[注釈 2]はそもそもどこに存在するのか。 — 三島由紀夫「序文」(『三島由紀夫文学論集』)[6]
また自著『作家論』の「あとがき」では、その書と共に『太陽と鉄』を、「私の数少ない批評の仕事の二本の柱を成すものと考へられてよい」と述べている[7]。
意識は一見受身のやうに思はれ、行動する肉体こそ「果敢」の本質のやうに見えるのだが、肉体的勇気のドラマに於ては、この役割は実は逆になる。肉体は自己防衛の機能へひたすら退行し、明晰な意識のみが、肉体を飛び翔たせる自己放棄の決断を司る。その意識の明晰さの極限が、自己放棄のもつとも強い動因をなすのである。苦痛を引受けるのは、つねに肉体的勇気の役割であり、いはば肉体的勇気とは、死を理解して味ははうとする嗜欲の源であり、それこそ死への認識能力の第一条件なのであつた。書斎の哲学者が、いかに死を思ひめぐらしても、死の認識能力の前提をなす肉体的勇気と縁がなければ、ついにその本質の片鱗をもつかむことがないだらう。 — 三島由紀夫「太陽と鉄」
「文」の原理とは、死は抑圧されつつ私かに動力として利用され、力はひたすら虚妄の構築に捧げられ、生はつねに保留され、ストックされ、死と適度にまぜ合はされ、防腐剤を施され、不気味な永生を保つ芸術作品の制作に費やされることであつた。むしろかう言つたらよからう。「武」とは花と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ、と。そして不朽の花とはすなはち造花である。かくて「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求、およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであつた。(中略)「文武両道」はその絶対的な形態をとることはきはめて稀であり、よし実現されても、一瞬にして終るやうな理念なのである。 — 三島由紀夫「太陽と鉄」
私が幸福と呼ぶところのものは、もしかしたら、人が危機と呼ぶところのものと同じ地点にあるのかもしれない。言葉を介さずに私が融合し、そのことによつて私が幸福を感じる世界とは、とりもなほさず、悲劇的世界であつたからである。(中略)そこでだけ私がのびやかに呼吸をすることのできる世界、完全に日常性を欠き、完全に未来を欠いた世界、それこそあの戦争がをはつた時以来、たえず私が灼きつくやうな焦燥を以て追ひ求めてゐたものであつたが、言葉は決して私にこれを与へなかつたのみか、むしろそこから遠ざかるやうに遠ざかるやうにと私を鞭打つた。なぜなら、どんな破滅的な言語表現も、芸術家の「日々の仕事[要曖昧さ回避](ターゲヴェルク)」に属してゐたからである。 — 三島由紀夫「太陽と鉄」
地球は死に包まれてゐる。空気のない上空には、はるか地上に、物理的条件に縛められて歩き回る人間を眺め下ろしながら、他ならぬその物理的条件によつてここまでは気楽に昇れず、したがつて物理的に人を死なすこときはめて稀な、純潔な死がひしめいてゐる。人が素面で宇宙に接すればそれは死だ。宇宙に接してなほ生きるためには、仮面をかぶらねばならない。酸素マスクといふあの仮面を。精神や知性がすでに通ひ馴れてゐるあの息苦しい高空へ、肉体を率いて行けば、そこで会ふのは死かもしれない。精神や知性だけが昇つて行つても、死ははつきりした顔をあらはさない。そこで精神はいつも満ち足りぬ思ひで、しぶしぶと、地上の肉体の棲家へ舞ひ戻つて来る。彼だけが昇つて行つたのでは、つひに統一原理は顔をあらはさない。 — 三島由紀夫「エピロオグ――F104」
されば そもそも私は地に属するのか? さうでなければ何故地は かくも急速に私の下降を促し 思考も感情もその暇を与へられず 何故かくもあの柔らかなものうい地は 鉄板の一打で私に応へたのか? 私の柔らかさを思ひ知らせるためにのみ 柔らかな大地は鉄と化したのか? 堕落は飛翔よりもはるかに自然で あの不可解な情熱よりもはるかに自然だと 自然が私に思ひ知らせるために?
空の青は一つの仮想であり すべてははじめから翼の蝋の つかのまの灼熱の陶酔のために 私の属する地が仕組み かつは天がひそかにその企図を助け 私に懲罰を下したのか? 私が私といふものを信ぜず あるひは私が私といふものを信じすぎ 自分が何に属するかを性急に知りたがり あるひはすべてを知つたと傲り 未知へ あるひは既知へ いづれも一点の青い表象へ 私が飛び翔たうとした罪の懲罰に? — 三島由紀夫「イカロス」
同時代評の反応としては、好意的に読み取るものと、否定的なものが混ざっている。虫明亜呂無は、三島の克己と忍辱の美学を高く評価し[8]、秋山駿も、「そこにある言葉、あるいは精神が、他から何も借りないで、実に純粋にそれ自身の働きによって一つの空間を作っている」とし[9]、ニーチェ風の「病者の光学」を看取して好意的に評している[10]。その一方、森川達也は、肉体や存在の追及というテーマを描こうとした三島の意図は評価しながらも、そこに新しい発見が見出せないと評している[11]。石川淳は、観念的な論理への危惧を呈して、『太陽と鉄』を「本朝ますらおの道の記」と述べている[12]。
磯田光一は『太陽と鉄』に、芸術の本質と限界を悟った芸術家の宿命を看取し、「天皇への愛慕を叙情的に語れば、それが滑稽に見えるであろうこと」を自覚していた三島が文学で、戦時の「原体験を造形することだけ」では救われない地点にあり、『太陽と鉄』が「創作への懐疑」に彩られていることを鑑みて[13]、「滑稽に堕することなく、しかも自己救済を達成するにはどうしたらよいか。それは“喜劇”ならぬ“悲劇”にふさわしいだけの肉体をもち、同時に「天皇」を無限遠のかなたに究極目的として設定することである」とし、以下のように考察している[13]。
『太陽と鉄』は三島の思想や文学を語る上で、いくつもの重要な論点が含まれ、その内容には、三島の現実の死に関わるものがあるため、数多くの論究や分析がなされているが、三島の強い個性が表明されている作品ゆえに、その評価も好悪が分かれており、三島文学のバイブルとして熱烈な支持がある一方で、直に向き合わない言及も見られる[1][14]。ドナルド・キーンなどは、『太陽と鉄』を解らないとし、「全体としては、なんともいえない不愉快な作品なんです」と述べている[15]。
上野昻志は、『太陽と鉄』には「三島自身のことばと肉体についての思考が明確なかたちで対象化していて、あますところがない」とし、「読者に沈黙を強いるところがある」と述べている[16]。比較的近年のものとしては、小杉英了が、肉体改造によって生命力を意識的に捉えた三島の軌跡を論究し[17]、養老孟司は、言葉と身体が乖離しているために、逆に身体が追求される社会状況を、三島は先取りしていたと考察している[18]。なお、英訳の出版が三島の自決直後であったために、海外でもかなりの反響を呼んだ[14]。
田坂昂は、『仮面の告白』を「肉体の喪失篇」とするならば、『太陽と鉄』は「肉体の形成篇」であり、「両者はジャンルを異にしながらも、あたかも陰画と陽画のように、二十年の歳月をへだてて多くの点で照応している」とし[19]、前者では〈集団の悲劇〉から、〈拒まれた者〉〈見る者〉であった三島が、後者では、「向う岸の〈与る者〉の側」に移行して、〈拒まれた者〉の孤独の目に映っていた〈至純の青空〉が、〈集団的視覚〉に映る〈初秋の絶対の青空〉になっていると考察しながら、「集団的陶酔」は、ニーチェのいう〈ディオニュソス的陶酔〉〈個体の破壊とその根源的存在との合一〉と等質のものだとし、以下のように論考している[19]。
肉体を得た三島氏は、「現代文化の荒廃と衰弱のさなかにあって」(ニーチェ)、いまこそニーチェとともに、こんな叫びをあげたいとは思わないであろうか。すなわち「生(レーベン)と苦(ライト)と快(ルスト)のこの過剰のただなかに、悲劇の女神は崇高な恍惚にひたりながら坐っている。彼女は、はるかな哀愁の歌に耳をかたむける――歌は存在の母たちのことを語っている。その名は妄想(ヴァーン)・意志(ヴィレ)・悲嘆(ヴェー)というのだ。――おお、友らよ、私とともにディオニュソス的生命を、そして悲劇の再生を信じたまえ!……今はただ、敢然として悲劇的人間となれ!」(『悲劇の誕生』)。悲劇への道――それが三島氏にとって何であるかをわれわれはすでに知っている。 — 田坂昂「『太陽と鉄』―〈悲劇的なもの〉への憧れから〈悲劇〉への参加へ―」[19]
佐伯彰一は『太陽と鉄』を、三島が『私の遍歴時代』の中で述べていた〈現在の、瞬時の、刻々の死の観念〉[20] を中核とする三島の「メタフィシックスの首尾一貫した展開であり、見事な詩的結晶」だと評している[21]。そしてそういった「超越的な飛翔の一つの詩的頂点」の謳い上げともいうべきものが、「エピロオグ」のF104搭乗体験の描写だとし、三島が「ほとんど一切を自意識しながら、壮絶な自死を敢行したと、呟かざるを得ない」としながら、「三島流ミスチシズムの精髄――少なくともその基本構造」は、『太陽と鉄』のうちに、「冷たいパトス」をもって、縦横に説き明かされ定着している」と佐伯は解説している[21]。
西部邁は、「(保守派が)胸元にぶらさげる正義と名誉、そして人知れずその背中に負う虚無と自由」というテーマに「身を焦がした」のが三島だとし、様々な三島論に見られる、ホモセクシャル、マゾヒズム、ナルシシズム、タナトス、仮面だの素面だと、こねくり回した「過度に文学的な」論に疑問を呈し、〈無意識といふものは、絶対におれにはないのだ〉と安部公房に向って堂々と「意識の自己制御」を示していた三島にとっては[22]、それら過度に文学的な「凡百の動機論はせいぜいのところその脇腹をかする程度の話」だとして[23]、三島の政治的な側面を全く無視して「三島の晩年を文学的な視角からだけみるのは納得がいかない」としながら『太陽と鉄』を論じて、同意する部分と不同意の部分を分析して、以下のように語っている[23]。
保守は彼の矯激を嫌う、しかしその情念と決断の烈しさは買う。保守は彼の不明晰を批判する、しかしその修辞法が思想表現に不可欠であることは認める。保守は彼の単純な二分法の論理に与しない、しかし言葉が結局は二分法の秩序に従うことは承認する。保守は彼の日常性からの逃走に反撥する、しかし精神が非日常性のなかで孤立したり狂乱したりするのには寛大である。保守は彼と同じく伝統を保守する、しかし保守の思う伝統は、それが平衡の智慧であるために、彼のような平板さや硬直を免れている。保守は彼のように死神と交際するのを好まない、しかし死がひたひたとわれわれを追っていることには敏感である。保守は彼の自己信仰とそれに由来する自己放棄の途はとらない、しかし、自己懐疑と自己把持に品位をもたせるためにも、自己を信じ自己を捨ててかからなければならないことはわかっている。 — 西部邁「明晰さの欠如」[23]
中野新治は、終章に付された長詩『イカロス』を、「三島の本質を解明に表現したものとして注目に価する」とし、その詩の形式や疑問符の数などの細かい点にまで「シンメトリカルへの希求」「形式美」が見られることを指摘しながら、それを、「人間の世界のありのまま=混沌・無秩序への否定と嫌悪から成立するもの」と考察し、〈詩とは、陸に住んで空を飛びたかっている海の動物の記録である〉と言ったカール・サンドバーグや、『よだかの星』で「この世からの離脱・天上での永生を願った」宮沢賢治、『水中花』を吟じ、天を仰いでいた伊東静雄と、三島は「同じ資質を持つ者」だと考察している[24]。
そして中野は、野口武彦が三島を「形而上的種族」と呼び、「その未生以前である時期に何ものかを見て網膜を強く灼かれた記憶を心の中に蔵していて、爾後、それと同程度に強烈な体験を求めて、或る形而上的彷徨に出発するという宿命を負う」性質を持つ種族と捉えて、三島に「アンジェリスム」(ロマン主義的人間の魂の輪郭)を看取していること[25] に同意し[24]、『イカロス』の後半で、〈彼方〉(太陽)への憧れの〈昇天の欲望〉が〈地〉が仕組んだ〈懲罰〉とされ「鉄板と化した大地でしたたかに打ちすえられる」という宿命の結末に、「三島の〈形而上的彷徨〉がこの上なく真摯なものであったこと」が明らかだとし[24]、三島が「楯の会」を設立して自死に至ったことと、宮沢賢治が〈怒りの苦さまた青さ/四月の気層のひかりの底を/唾し はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ〉(『春と修羅』)と吟じ、自己を「天上から追放された〈修羅〉」と位置づけ、その行き場のない「青い怒り」を治めるかのように、「羅須地人協会」を設立し早世したことに「同質」を看取し、以下のように論考している[24]。
地にあるものを無化する「絶えざる青の注視」は、天から与えられたものなのであり、その自死は強いられた「形而上的彷徨」に終止符を打つものであったと言う他はない。(中略)疑問符の多様は、彼が自己追求によって切り開いた〈書く世界〉の困難を示している。三島にとっては、自己を信じないことが、自己を信じる唯一の根拠であった。自己が属する世界はどこにもないと知ることが、自己が属する世界を指し示していた。それこそが「青い表象」の世界、〈書く世界〉であった。それは足場のない所に建造物を組み立てることにたとえられるだろう。あるいはまた、その反自然性と意識の過剰による言葉の扼殺の世界と見なせるかもしれない。 — 中野新治「文学を否定する文学者―三島由紀夫小論―」[24]
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