大関増次

大関 増次(おおぜき ますつぐ)は、戦国時代武将那須氏の家臣。下野国白旗城主。(現在の栃木県大田原市(旧黒羽町))

 
大関増次
時代戦国時代
生誕永正15年(1518年
死没天文11年12月20日1543年1月25日[1][2]
別名弥五郎[2][3]
戒名久遠院殿超山道宗大居士[3]
主君那須資房
氏族大関氏
父母父:大関宗増
兄弟養兄弟:高増大田原資清長男)
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大関氏武蔵七党丹党流とされ、那須七騎の一つ。永正15年(1518年)、大関宗増の子として誕生。

天文11年(1542年)、かつて父・宗増の讒言によって追放された大田原資清の復讐の的とされ、増次が少人数で鷹狩りに出た隙に、資清の奇襲を受け、石井沢で戦うが敗死した。享年25。

後継者を失った父・宗増は資清の子である高増を養子に迎えざるを得なくなった。

脚注

出典