大神武俊

大神 武俊(おおがみ たけとし、1932年11月1日 - 2003年1月16日[1])は、福岡県福岡市出身[1]プロ野球選手投手、右投右打)・解説者、野球指導者。

大神 武俊
基本情報
国籍日本の旗 日本
出身地福岡県
生年月日 (1932-11-01) 1932年11月1日
没年月日 (2003-01-16) 2003年1月16日(70歳没)
身長
体重
173 cm
63 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1952年
初出場1952年
最終出場1956年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

来歴・人物

博多工業高から社会人野球東洋高圧大牟田を経て、1951年南海ホークスの2軍的なチームであった社会人野球の南海土建に入団。

1952年南海ホークスに昇格する。1年目の当初は、ぱっと見で身体が細くて、使い物になるか危ぶまれるような選手であったという[2]。しかし、キャンプで注目を集めると、シーズンでは8勝を挙げる。巨人との日本シリーズでは新人にもかかわらず、第1戦の先発に抜擢される(大神以後、日本シリーズ第1戦に先発登板した新人投手は、楽天則本昂大2013年に先発登板するまで61年間にわたって現れなかった[3]。)。試合では3回途中2失点で降板した(勝敗付かず)。

2年目の1953年には19勝8敗を記録し[4]、勝率.704で最高勝率のタイトルを獲得。防御率も2.23でリーグ5位に入った。この年の巨人との日本シリーズでも第一戦に先発し、6回途中まで1失点に抑える好投で、緒戦の勝利に貢献。さらに、1勝3敗で迎えた第5戦で先発して9安打5四球を与えるが要所を締めて完封勝利を飾っている。1954年も14勝7敗と好成績を挙げた。

1955年に肩を故障し3勝に留まると、1956年にはわずか1試合の登板に終わり、この年限りで現役引退。

その後は、KBC解説者1957年 - 1968年)を経て、福岡大学の監督(1969年 - 1974年, 1982年 - 1990年)を務めた。2003年1月16日胃癌で死去[1][5]。70歳没。

選手としての特徴

投球フォームはアンダースローの変形で、球速がある一方で、低めに決まるカーブシュートも効果的だった[2]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1952南海321831185----.615578137.0123948--5700061483.151.25
195343291640198----.7041068261.12167101--71092077652.231.21
19543427830147----.667734185.11391068--8672053472.271.12
195520600031----.75024054.16352311220030243.931.58
19561000000--------51.010000000000.001.00
通算:5年1308027814421----.6772625639.054231240121268402211842.591.22
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

記録

  • 1イニング与死球:4 (1953年8月11日、対近鉄パールス戦) ※当時のNPB記録

背番号

  • 28 (1952年 - 1956年)

関連情報

出演

KBCラジオ
KBCテレビ

脚注

参考文献

  • 鶴岡一人『鶴岡一人の栄光と血涙のプロ野球史』恒文社、1977年

関連項目

外部リンク