ジョー・バイデン Joe Biden | |
---|---|
![]() 2013年撮影 | |
生年月日 | (1942-11-20) 1942年11月20日(81歳) |
出生地 | ![]() ![]() |
出身校 | デラウェア大学 シラキューズ大学ロースクール |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | 民主党 |
称号 | 教養学士(デラウェア大学・1965年) 法務博士(シラキューズ大学法科大学院・1968年) 大統領自由勲章 |
配偶者 | ネイリア・バイデン(1972年死別) ジル・バイデン(1977年結婚) |
子女 | ボー・バイデン ハンター・バイデン ナオミ・バイデン アシュリー・バイデン |
サイン | ![]() |
在任期間 | 2021年1月20日(予定) - |
副大統領当選者 | カマラ・ハリス |
在任期間 | 2009年1月20日 - 2017年1月20日 |
大統領 | バラク・オバマ |
選挙区 | デラウェア州 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1973年1月3日 - 2009年1月15日 |
テンプレートを表示 |
ジョセフ・ロビネット・バイデン・ジュニア(Joseph Robinette Biden, Jr.、 発音/'dʒoʊsəf rɒbɪ'nɛt 'baɪdən/[ヘルプ/ファイル]、1942年11月20日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。民主党に所属し、1973年から2009年までデラウェア州選出の上院議員を務め、2009年1月20日から2017年1月20日までバラク・オバマ政権で第47代副大統領を務めた。2020年11月3日の大統領選挙に民主党の大統領候補として出馬し[1]、11月7日に主要メディアにより当選確実が報じられた[2]。11月23日に一般調達局(英語版)より政権移行手続き(英語版)が承認され、現在その手続きを進めている[3]。
一般には「ジョー・バイデン(Joe Biden)」と呼ばれる。「ジョー」とはジョセフの短縮形である。
1942年11月20日にバイデンはペンシルベニア州スクラントンとデラウェア州ニューキャッスル郡で育った。デラウェア大学で学んだ後、シラキューズ大学で法務博士号を取得[4]。1969年に弁護士となり、1970年にニューキャッスル郡議会議員に選出された。1972年にデラウェア州の上院議員に当選し、アメリカ史上6番目に若い上院議員となった。バイデンは長年上院外交委員会のメンバーであり、最終的には委員長を務めた。1991年の湾岸戦争には反対したが、東ヨーロッパへのNATOの拡大と1990年代のユーゴスラビア紛争への介入を支持した。2002年のイラク戦争承認決議を支持したが、2007年のアメリカ軍増派には反対した。また、1987年から1995年まで上院司法委員会の委員長を務め、麻薬政策・犯罪防止・市民の自由に関連する問題を扱っていた。バイデンは暴力犯罪取締法と女性に対する暴力法の成立に向けた取り組みを主導し、ロバート・ボークとクラレンス・トーマスの最高裁判所長官への指名を監督した。
バイデンはアメリカ合衆国上院に6回再選され、2008年アメリカ合衆国大統領選挙でバラク・オバマと並んで副大統領に当選した後に上院議員を辞任した時には、4番目に在職期間の長い上院議員の地位にあった[5]。オバマとバイデンは2012年アメリカ合衆国大統領選挙において再選された。副大統領としてバイデンは大不況に対抗するために2009年にインフラ支出を監督した。彼の議会の共和党との交渉は、オバマ政権が税制の行き詰まりを解決した2010年税制救済法、債務上限危機を解決した2011年予算管理法、差し迫った財政の崖に対処した2012年アメリカ納税者救済法などの法案を通過させるのを助けた。外交政策ではアメリカ合衆国及びロシア連邦との間で新START条約の成立に向けた取り組みを主導し、リビアへの軍事介入を支持し、2011年のアメリカ軍撤退を通じてイラクに対するアメリカの政策の策定を支援した。サンディフック小学校銃乱射事件の後、バイデンはアメリカにおける銃暴力の原因に対処するために設立された「銃暴力タスクフォース」を率いた[6]。
2015年10月、バイデンは2016年の選挙で大統領選挙に出馬しないことを発表した。2017年1月、オバマ大統領はバイデンに大統領自由勲章を授与した[7]。バイデンは2019年4月25日に2020年アメリカ合衆国大統領選挙への立候補を発表し、2020年6月には党の指名を確保するために必要な1991人の代議員数の閾(しきい)値を満たした。2020年8月11日にバイデンは2020年アメリカ合衆国大統領選挙の副大統領候補としてカマラ・ハリス上院議員を発表した[8]。
11月3日に大統領選挙が実施され、11月7日にABC、AP通信、CNN、FOXニュース、NBC、ニューヨーク・タイムズ、ロイターなどの主要メディアは現職のドナルド・トランプを破って勝利を確実にしたことを報じている[2]。11月23日に一般調達局(英語版)より政権移行手続き(英語版)が承認され、現在手続きを進めている[3]。
1942年11月20日にアメリカのペンシルベニア州スクラントンで、父のジョセフ・バイデン・シニアと母のキャスリーンの間に4人兄弟の長男として誕生した[9][10]。父親のジョセフ・バイデン・シニアは、20代の頃はヨット、狩猟、自動車などの趣味に熱中するなど、非常に裕福な生活を送っていた。しかし長男であるジョーが生まれた頃には、彼は数件の事業に失敗し、その為にジョーの母方の祖父母にあたるフィネガン夫妻と数年にわたって同居しなければならなくなるなど、バイデン一家は苦しい生活を送っていた[11]。
その後1950年代の経済低迷の中で、父のジョセフ・シニアも生計を立てていくだけの十分な仕事が得られなくなってしまったことから[12]、10歳の頃にデラウェア州クレイモントに引っ越し、その後さらに父親が勤めていた冷暖房用ボイラー清掃会社のあるデラウェア州ニューキャッスル郡のウィルミントンへ引っ越し[11]、以後高校卒業までこの地で過ごす。ウィルミントンは、後にバイデンが弁護士として初めて開業した地であり、現在に至るまで自宅を構えている地でもある。ちなみにこの前後、フルートを愛好していたことから、"fleet flutin joe"というあだ名が付いていたという。その後ジョセフ・シニアは中古車のセールスマンの職を得て、バイデン一家は中産階級家庭として安定した生活を送ることになる[11][12][13]。
バイデンはクレイモントにあるカトリック系の私立学校、アーキメア・アカデミーへ入学し、1961年の卒業までこの学校で過ごした。在学中はフットボールと野球に熱中し、特にフットボールにおいては、高校のフットボールチームに所属し、ハーフバック(ランニングバックの一種。)やワイドレシーバーのポジションで活躍、長年にわたって敗北続きだったチームを最終学年時にはシーズン無敗を達成するまでの強豪チームに成長させた一翼を担った[11][14]。また、政治活動についても、ウィルミントンの劇場で行われた人種差別に反対する座り込み活動に参加するなど、積極的に取り組んだ。学業に関しては平凡で目立たない生徒であったものの[10]、バイデンはリーダーシップを発揮する生徒であったという[15]。
1961年にアーキメア・アカデミーを卒業した後、ニューアークにあるデラウェア大学に進学し、歴史学と政治学を専攻した。当初はアーキメア・アカデミー時代と同様にフットボールに熱中、デラウェア大のチームであるデラウェア・ファイティンブルー・ヘンズに所属し、最初は新入生チームにおいてハーフバックとしてプレーしていた[14]。しかし大学3年の時に、デラウェア州外に住む恋人と過ごす時間を確保するために、大学代表チームでディフェンシブバックとしてプレーする計画を諦めざるを得なくなった[14][16]。このように、スポーツや友人・恋人との交際に熱中していた[11]ためか[要追加記述]、学業の成績はあまり優れず、専攻していた歴史学と政治学において学士号を取得し[10]、1965年に卒業したものの、688人中506番目というあまり良くない成績で卒業することになった。しかし友人たちは、むしろバイデンの詰め込み勉強の才能に驚かされたという[17]。
その後シラキューズ大学のロースクールに進学。在学中の1年目(1965年)に法律評論誌の記事(全15ページ)から5ページにわたって論文を盗用したことが1965年に発覚し、同校から盗用事件としてその科目「法律的手法(legal method)」の単位を取り消されたものの、退学処分には科されず、バイデンは翌年の1966年にその単位を取得した[18]。この事件についてバイデンは、「引用についての正確なルールを知らなかったことによる不注意で起こしてしまったものだ」として、悪意があったことを否定している。1968年に法務博士号を取得[19]、修了後の翌1969年にはデラウェア州弁護士会へ加入し[19]、ウィルミントンで弁護士として開業した。
ロースクール在学中の1966年に彼は最初の妻であるネイリア・ハンターと出会い、結婚する。ネイリアとの間には2男1女(ジョセフ3世(愛称:ボー)、ロバート、ナオミ)をもうけた。
ベトナム戦争の最中、バイデンは大学在学中の1963年からロースクール在学中の1968年までの間、少年時代の喘息の病歴を理由に5回の徴兵猶予を受けていた。このためベトナム戦争には従軍していなかった。
幼少期から吃音症に苦しみ、その克服に20代前半まで要した。鏡の前で詩の朗読を続けていた。また近親者がアルコール中毒で苦しんでいたことから禁酒家となった。
1969年の弁護士活動開始後間も無く、バイデンはニューキャッスル郡の郡議会議員に選ばれ、1970年から1972年まで同職を務めた。
その後1972年の上院議員選挙に民主党から出馬する。この時現職だった共和党のJ.カレブ・ボッグス議員は、著名な議員の1人であったが、ボッグス議員は政界引退を考えていた。しかしながら、共和党内でボッグスの後継をめぐって、デラウェア州選出の下院議員だったピエール・S・デュポン4世(のちデラウェア州知事)と、ウィルミントン市長であったハリー・G・ハスケル・ジュニアが対立し、共和党陣営内での分裂が生じた。この打開策として、リチャード・ニクソン大統領は、ボッグスにもう1期出馬するよう要請し、共和党が全面的に支援することを約束したため、ボッグスもこれを受諾した。しかしながら、最終的にはバイデンがボッグスを破って勝利を収めた。連邦上院議員では建国以来5番目の若さでの当選となった。
しかし上院議員に当選直後、1972年12月18日に妻のネイリアはクリスマスの買い物をするために、3人の子供たちを連れてデラウェア州ホケッシンに車で出かけていたのだが、ネイリアの運転するステーションワゴンが、交差点でトレーラーに追突され、ネイリアとまだ幼かったナオミが死亡、ボーとロバートは生き残ったものの、瀕死の重傷を負う。この事故に関しては、追突した側のトレーラーの運転手には過失がないことが解っている。
バイデンは、一度は息子たちの看病・世話を理由に議員職を辞退しようとしたが、当時民主党の上院院内総務であったマイケル・マンスフィールドから辞退を思い留まるよう説得を受け、議員に就任することを決意、1973年1月から他の議員と同様に通常どおり登院し、議員活動を開始した。この時バイデンは30歳で、30歳での上院議員はアメリカ史上5番目の若さだった。通常は議員になるとワシントンD.C.に居住する議員が多い中で、彼は息子たちの為に、毎日片道1時間半かけてウィルミントン郊外の自宅とワシントンD.C.を電車通勤した。
1974年にバイデンはタイム誌の「200 Faces for the Future」の1人に選ばれるなど、議会の内外で活躍の場を広げ、知名度を高めていった。また私生活においても、1977年に2人目の妻ジル・トレイシー・ジェイコブスと結婚し、1女(アシュリー)をもうけた。
以後バイデンは、順調に政治活動を展開していく。1978年の選挙では、ジェームズ・H・バクスター・ジュニアを破り再選を、1984年の選挙ではジョン・M・バリスを破り3選を果たすなど、ベテラン議員への仲間入りを果たしていく。その後も1987年には初めて常任委員会の委員長に就任(司法委員長、1995年まで務めた)をしたり、大統領候補に名乗りをあげるなど、精力的に活動を行っていく。しかし、この時は英労働党党首の演説内容を盗用した疑いが持ち上がり撤退に追い込まれた。また1987年9月には学生時代の論文盗用を公式に認め、シラキュース大学法科大学院に謝罪し、これも民主党の大統領候補指名・立候補を取りやめた理由とされる[20]。
しかし1988年2月に45歳の時、バイデンは首の痛みに悩まされた末にウォルター・リード陸軍病院(英語版)に入院し、手術を受けた。脳動脈瘤が破裂したのが原因であり、この時バイデンは一時危篤状態に陥るなど、生死の境をさまよった。さらに同年5月には2度目の脳動脈瘤の手術を受けるなど、バイデンはもはや議員活動の継続も危ぶまれた。しかしバイデンは懸命のリハビリを続け、入院からわずか7ヶ月で復帰した。
病気から復帰後、バイデンは再び上院議員として活躍、2008年時点では6回連続当選・在職36年目を誇る、押しも押されもせぬ上院民主党の重鎮となっている。ちなみに彼は、故郷デラウェア州の歴史上、最も長く在職した上院議員となっている。しかし、これほど多くの連続当選と長い在職期間を誇りながら、彼がデラウェア州の先任上院議員(アメリカでは Senior Senator と呼ばれている。各州2名の上院議員のうち、それまで連続して当選しており、より任期の長い議員が先任上院議員となる。)となったのは2000年のことであり、かなり遅いと言える。これは、バイデンの2年先輩にあたる共和党のウィリアム・ヴィクター・ロス・ジュニア上院議員(William Victor Roth Jr.)が、1971年の初登院以来、2000年の選挙で民主党のトーマス・リチャード・カーパー州知事(Thomas Richard Carper)に敗れて引退するまで、約30年にわたって議席を維持した為である。
2001年から外交委員会の委員長を務めた際には、2002年10月のイラクに対する武力行使容認決議案など、後にアメリカ外交を左右することになる重要な局面に立ち会った。その後、2002年の中間選挙で民主党が少数党に転落したため、新しい連邦議会が招集された2003年1月3日付で外交委員長職を離れ、今度は民主党の幹事として党運営・議会運営に携わった。また、2004年の大統領選挙への出馬にも意欲を見せたが、最終的に断念した。
その後、2006年11月の中間選挙で民主党が多数党に返り咲いてからは、2007年1月4日より2度目の外交委員長職を務めている。また同時に、司法委員会に連なる犯罪および麻薬に関する小委員会の委員長を務めている。特に外交委員会では、同委員会のリーダーとして、また外交通として、積極的な発言を行った。また、上院本会議においても、行き詰まりを見せていたイラク政策に関連して、2007年9月26日に共和党のサム・ブラウンバック上院議員と共に、法的拘束力のない「イラク分割決議」を75対23で成立させた。
2008年には自身2度目の大統領選挙となる2008年アメリカ合衆国大統領選挙に挑戦するが、バラク・オバマ候補とヒラリー・クリントン候補の2強が他を突き放す形勢となり、1月3日に撤退した。しかし8月23日に大統領候補の指名を確実にしたオバマから副大統領候補指名の意向が発表され、これを受諾してその後8月27日にコロラド州デンバーで開催された民主党全国大会で、オバマと共に民主党の正副大統領候補に正式指名された。
オバマの副大統領候補としてメディアから有力視されていたのは、オバマの最大の対抗馬であったヒラリー・クリントンであった。激しい予備選の過程でオバマとクリントンの支持者同士の感情が険悪化しており、党内融和のためにもオバマ-クリントンの「ドリームチケット」が期待されていた。そのためバイデンが選ばれた事に関しては少なからず驚きの声があった。この選択理由としては次のような点が評価されたためと言われている。
しかし、共和党のジョン・マケイン候補がサラ・ペイリンを副大統領候補に抜擢したことと比較され、地味な選択とみられた。また、バイデンは予備選でオバマ候補の経験不足を指摘していたため、指名受諾後にはその点を共和党側より批判された。
本選挙の選挙戦では、オバマが攻撃的な発言を抑制するかたわらバイデンはマケインへの激しい批判を展開した。ペイリンとの副大統領候補討論会後の世論調査では「討論はバイデンの勝利」と答えた者が多数を占めたものの、好感度の面ではペイリンに軍配を上げる者が多かった。
2008年11月4日(現地時間)に行われた大統領選挙の投開票において、民主党のバラク・オバマが第44代アメリカ合衆国大統領に当選したことに伴い、自身も第47代アメリカ合衆国副大統領に当選が確定した。
ちなみにバイデンは大統領選挙での敗北も想定した上で、大統領選挙と同日投票となった上院議員選挙にも出馬していた。この選挙では選挙区全体の65パーセントの票(25万7484票)を獲得し、対立候補であった共和党のクリスティン・オドネルに大差を付ける形で、自身7回目となる上院議員当選を果たした。その上で2009年1月3日に開会した第111期連邦議会では、1月15日まで上院議員職に留まり、同日辞職した。なお自身が務めていた上院外交委員長職については、新しい議会の招集を契機に1月3日付で辞職した。外交委員長としての最後の仕事となったのは、1月の第2週目に行ったイラク・アフガニスタン・パキスタンの3カ国歴訪・首脳会談であった。バイデンの議席は、長年にわたって彼のアドバイザーを務めていたテッド・カウフマンに、外交委員長のポストは2004年アメリカ合衆国大統領選挙において民主党の大統領候補だったジョン・フォーブズ・ケリー上院議員に引き継がれた。
2009年1月20日にバラク・オバマの第44代アメリカ合衆国大統領就任に伴い、自身も第47代アメリカ合衆国副大統領に正式に就任した。連邦議会議事堂(キャピトル・ヒル)で開催されたオバマの就任式には、セカンドレディとなった妻のジルと共に出席し、オバマに先立って、ジョン・ポール・スティーブンス連邦最高裁判所判事の立ち会いの下で就任宣誓を行った。最初のデラウェア州出身の副大統領[23]、また最初のローマ・カトリックの副大統領となった[24][25]。
また、自身のスタッフ選任も進め、首席補佐官には民主党のベテラン弁護士であるロン・クラインを、広報部長にはタイムのワシントンD.C.支局長であるジェイ・カーニーを任命した。
バイデンは、前任者であるディック・チェイニーが従来の副大統領とは異なり、政策決定や実務などジョージ・W・ブッシュ大統領の政権運営において、かなり深い部分まで関わっていたのに対して、「自らは(チェイニー前副大統領のように)大統領の政策決定などに深く関わることはしない」という旨を言及している。その一方で、「オバマ大統領が重大な決断を下す際には、その全てにおいてアドバイスや助言を行う」と述べた。
オバマ政権にメンバーによればバイデン副大統領の政権内での役割はあえて反対意見を述べることで、他の人に自分の立場を守らせようとすることにあったと証言する[26]。ホワイトハウス首席補佐官ジェイ・カーニー(英語版)はバイデンが集団思考に陥るのを防いだと評価している[26]。バイデンの広報部長も「バイデンはシチュエーションルームの悪訳を演じた」と表現している[26]。オバマ大統領も「ジョーの一番いいところは、みんなが集まった時、みんなに考えること、自分の立場を守ること、あらゆる角度から物事を見ることを強要することにある。それは私にとって非常に大事だ」と述べている[27]
2010年8月までにイラクにおけるアメリカ軍の役割を終わらせると宣言したオバマ大統領は、2008年6月にバイデンをイラクに関する責任者に任じ、以降バイデンは2カ月に一度はイラクを訪問するようになり[28]、イラク政府にアメリカ政府のメッセージを伝える政府要人になった[27]。2012年までバイデンは8回イラクを訪問したが、2011年にアメリカ軍がイラクから撤退するとバイデンのイラクへの関与も減った[29][30]。
2010年6月11日には2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会のイングランド対アメリカの試合を観戦し、その後エジプトやケニアも訪問した[31]。
2010年11月の中間選挙に民主党が敗北すると長い議会生活で共和党ともコネクションがあるバイデンの役割がより重要になった[32][33]。 新戦略兵器削減条約の上院通過を主導したのはバイデンだった[32][33]。12月にもブッシュ減税の延長を含む共和党との妥協案をまとめた[33][34]。
2011年のNATOのリビア軍事介入を支持した[35]。ロシアとより緊密な経済関係を持つことに賛成し、ロシアのWTO加盟を支持した[36]。いくつかの報告書によればバイデンは2011年5月2日に実行されたビン・ラディン殺害作戦に反対していたという[29][37]。
オバマ政権の支持率低下傾向から、2012年11月の大統領選挙では副大統領候補をバイデンではなくヒラリー・クリントンに置き換えるべきだという声も上がっていたが[38]、オバマは引き続きバイデンを副大統領候補にし再選された。
2012年12月のサンディフック小学校銃乱射事件を受けて設立した銃規制の強化を検討するための特別チームのトップになった[39]。
2014年にロシアがクリミア併合を強行するとオバマ政権はウクライナ政府を支持し、ウクライナ支援とロシア経済制裁を行った。バイデンも2015年12月にウクライナ議会でウクライナを支持する演説を行った[40]。バイデンは南米の指導者にも顔が利き、副大統領在職中に16回も訪問している[41]。
2016年8月にはセルビアへ訪問し、アレクサンダル・ヴチッチ大統領と会見し、コソボ戦争中の爆撃による民間犠牲者に哀悼の意を表した[42]。コソボではコソボの裁判官や検察官の育成に貢献した亡き息子ボー・バイデンの功績が称えられて、ボーの名に因む高速道路が作られ、父であるジョー・バイデンが式典に出席した[43][44][45]。
2016年アメリカ合衆国大統領選挙にはオバマは任期制限により出馬できないためにバイデンの出馬が取沙汰され、勝手連(Draft)のPACも結成された[46]。2015年9月11日の時点では出馬するか否かを決めていないと述べた[47]が、同年10月21日に不出馬を表明[48]。民主党予備選挙ではオバマ大統領ともども当初いずれの候補への支持も表明せず、ヒラリー・クリントンが指名を確実とした後の2016年6月9日に同候補への支持を表明した[49]。
2017年1月12日、副大統領としての功労を讃えられ、大統領自由勲章をオバマ大統領より受章した。受賞を事前に知らされていなかったバイデンは涙し、即興のスピーチを20分間行った[50][51]。
バイデンは上院の議長決裁をしなかった副大統領であり、その期間が最長の副大統領である[52]。
2017年6月に新たな政治行動委員会「アメリカの可能性」を設立し、2020年アメリカ合衆国大統領選挙への出馬検討を始めたとOnebox Newsが報じた。また、同政治行動委員会の責任者にはバラク・オバマ前大統領の2度の選挙キャンペーンに携わったグレック・シュルツが就任している[53]。
2018年12月、モンタナ大学で行われた講演会において今後6週間以内に2020年の大統領選への出馬の最終的な判断を行なうと明言[54]。そして、2019年4月25日、2020年の大統領選挙へ出馬することを、正式に公表した[55]。
2019年6月に行われた民主党候補者らによる討論会では、バイデンのパフォーマンスは酷評されたが、8月にCNNが民主党および民主党寄りの登録有権者に対して行った候補者に対する調査では、29パーセントの支持を集めて首位に立った[56]。しかし予備選挙・党員集会直前の2020年1月22日のCNNの世論調査では左派の候補バーニー・サンダースに支持率で抜かれた[57]。
2020年2月3日、民主党指名候補選びの初戦であるアイオワ州党員集会が開催。翌日の暫定結果の発表では、中道派のピート・ブティジェッジが首位となり、バイデンは4位に沈んだ[58][59]。続く2月11日のニューハンプシャー州の予備選挙もサンダースが首位となり、バイデンは5位だった[60]。3戦目の2月22日のネバダ州の党員集会もサンダースが勝利し、バイデンは2位ながら大差を付けられた[61]。勝利できなければ敗退濃厚とみられていた同月29日のサウスカロライナ州の予備選挙で4戦目にして初勝利を得た[62]。
スーパーチューズデーの直前の3月1日にブティジェッジ、翌2日にはエイミー・クロブシャーがそれぞれ予備選挙戦から撤退することを表明し、いずれもバイデン支持を表明した。これにより民主党中道派はバイデンのもと結束して左派サンダースと対決する構図となった[63][64]。そして3月3日に14州で行われた予備選挙・党員集会(スーパーチューズデー)において10州でサンダースに勝利、これにより獲得代議員数で首位に立つ候補となった[65]。スーパーチューズデーの勝利で支持率も上昇し、サンダースを抜いて再び支持率首位に立った[66]。3月4日にマイケル・ブルームバーグも撤退してバイデン支持を表明[67]。
3月10日にミシガン州など6州の予備選挙・党員集会があり、4州で勝利したことでさらに優勢となった[68]。3月17日のフロリダ州など3州の予備選挙でもバイデンが大勝、サンダースを更に引き離して指名獲得が濃厚となった。サンダースの岩盤層であったはずのリベラル層がサンダースから離れてバイデンに投票している傾向が確認できる[69]。
3月19日に撤退表明したトゥルシー・ギャバードもバイデン支持を表明[70]。最後まで残った対立候補のサンダースも4月8日に撤退を表明し[71]、4月13日にバイデン支持を表明した[72]。これによりバイデンが指名を確実にした。
5月25日にペンシルベニア州で黒人男性ジョージ・フロイドが白人警察官によって暴行死させられた事件をきっかけに始まった人種差別抗議運動のブラック・ライヴズ・マター(BLM)に連帯を表明。「暴動や略奪、放火は抗議ではない。違法行為だ」としてデモに乗じての暴力行為は支持しないことを明言しつつ、力による暴動制圧を唱えるトランプ政権の対応については「彼(トランプ)に暴力を止めることはできない。もう何年も(暴力を)あおってきたからだ」「トランプ氏はこの国に有害な存在だ」と述べ批判した[73][74]。
8月11日、黒人とインド系のハーフである非白人女性カマラ・ハリスを副大統領候補に選んだことを発表した[75]。BLM運動の高まりに配慮した人選と考えられている[76][77]。
8月18日に民主党全国大会で正式に党大統領候補に指名され、20日に指名受諾演説を行い「名誉ある米大統領候補指名を謹んで受諾する」「団結すれば我々は米国の暗黒の季節を克服できる。克服しよう」「米国が独裁者にすり寄る日々に終止符を打つ。私は、同盟国や友好国の側に立ち、敵対する者を明確にする大統領になる」と述べた[78]。
大統領選挙戦中、バイデンはトランプ政権の新型コロナウイルスの感染対策遅れについて「ドナルド・トランプが米国を守ることに失敗し、米国を恐怖に陥れているというのが事実だ」と批判し[73]、トランプ政権側の「コロナの最悪期はすぎた」という主張も否定した。そのためトランプ陣営が大規模集会を行い、参加者がほとんどマスクをしなかったのに対し、バイデン陣営は車を乗り入れるドライブイン形式で集会を行い、参加者にはマスク着用を要請するという対象的なコロナ対応が見られた[79]。
9月29日の最初の大統領選挙討論会ではトランプがたびたびバイデンの持ち時間の最中に割り込んだため、次回からは候補者の1人が発言する際に相手側のマイクを一定時間切る措置が取られることになった[80]。
10月22日にテネシー州ナッシュヴィルで開かれた二度目の大統領選挙討論会では前回と打って変わって不規則発言はなくなり、新型コロナウイルス対策や北朝鮮問題、人種差別や気候変動対策など、様々な政策課題についてお互いが主張を展開し、批判し合った[81]。人種差別問題ではトランプが「リンカーン元大統領を除けば私ほど黒人のために貢献した人物はいない」「私はこの部屋にいる人のなかで、最も非差別的な人間だ」と述べたのに対し、バイデンは「現代の歴史で最も人種差別主義者の大統領の一人がここにいる」と批判した[82]。
11月3日に大統領選挙本選が実施され、11月7日午前に主要メディアは、バイデンが接戦州のラストベルト三州(ペンシルベニア州、ミシガン州、ウィスコンシン州)で勝利するのが確実の情勢になり、獲得選挙人数が過半数に達して当選確実になったと報道した。これを受けてバイデンは同日夜に勝利宣言を行い「私は分断するのではなく団結させる大統領になると誓います。赤と青に分かれた州ではなく、団結した州(合衆国)を見る大統領に、国民全員の信頼を勝ち取るために全身全霊で努力する大統領に」と決意を述べた[83]。11月13日には全50州の勝者が判明し、バイデンはラストベルト三州のほか、共和党の地盤だったアリゾナ州とジョージア州でも勝利して306人の選挙人(トランプは232人)を獲得する見通しであると複数のメディアにより報じられた[84]。
現職大統領トランプは敗北を認めておらず、政権移行に協力しないよう各省庁に指示していたため、政権移行手続き(英語版)が滞っていたが、手続きの遅れは国家安全保障に悪影響を与えるとの懸念が与野党に広がったため、11月23日に一般調達局(英語版)が政権移行手続きを承認。バイデンは政権移行の準備のための政府資金の提供や機密情報アクセスなどを受けられるようになった[3]。
バイデンは前述のようにアイルランド系移民の子孫であり、バイデン家自体はロンドンデリーに起源を持つ家系である。前述のように4人兄弟の長男として生まれ、弟が2人と妹が1人がいる。また、最初の妻ネイリアとの間に2男1女、2番目の妻ジルとの間に1女をもうけている。彼の主な家族・祖先は以下の通り。
基本的な立場
民主党内では中道派に位置付けられ、上院議員時代は民主党所属者の51パーセントよりもリベラルな立場をとっていた。リベラル支持団体のAmericans for Democratic Action(アメリカンズ・フォー・デモクラシック・アクション)からは80パーセントのリベラルスコアを授与された一方、保守主義団体 American Conservative Union からは13パーセントの保守スコアを授与された。
自身が最も得意とする外交分野においては様々な発言や政策提言を行っている他、各国を訪問するなど行動派の一面も見せている。
彼は国際自由主義(リベラル・インターナショナリズム)の信奉者であり、彼の外交政策スタンスにも反映されている。上院においては、同じくリベラル・インターナショナリズムを掲げる共和党の重鎮であるリチャード・ルーガー・ジェシー・ヘルムズ両上院議員(ヘルムズは故人)と投票行動を共にすることが多く、その為彼の出身政党である民主党の方針に反することもしばしばあった。
大統領選挙当選後の2020年11月24日には「米国は戻ってきた」「力によってだけでなく、模範となり世界を主導する」「世界に背を向けるのではなく導く。敵対国に対抗し、同盟国を遠ざけない。われわれの価値観のために立ち上がる」と述べ、トランプの米国第一主義とは決別して国際社会の主導役に戻り、法の支配や民主主義、人権といった価値観外交を行い、同盟国を重視する方針を示した[102]。
バイデンを一躍有名にしたのは1979年に第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)をめぐる一連の活動である。SALT IIは1979年にオーストリアのウィーンにおいて、アメリカのジミー・カーター大統領とソ連のレオニード・ブレジネフ書記長の間で調印され、後は連邦議会の承認・批准を待つのみとなっていた。しかし原案では批准に必要な議員数の3分の2以上の賛成を得ることは厳しい情勢であり、上院執行部は対応に苦慮し、修正案を加えることで賛成を得られる見込みがたったものの、修正案追加には相手国であるソ連の承認が必要であった。そこで執行部は当時2期目の若手上院議員の1人であり、ちょうど所用でモスクワに向かうことになっていたバイデンに、当時のソ連のアンドレイ・グロムイコ外相と交渉し、修正案追加の承諾を得てくるという重大な任務を託したのである。この当時グロムイコはその強硬な交渉姿勢から「ミスター・ニエット」(“ニエット”はロシア語で“NO”を意味する)の異名を取るなど百戦錬磨の外交官として恐れられており、若手議員のバイデンにとってこの任務は大変な重責であった。しかし最終的に、彼は“ミスター・ニエット”のグロムイコに修正案追加を認めさせることに成功したのである。結局SALT IIは同年末から開始されたソ連のアフガニスタン侵攻が原因で連邦議会の批准拒否を受け、1985年に期限切れを迎えてしまったものの、アフガニスタン侵攻が無ければ、最大の難関であった上院外交委員会での承認は確実だった。言い換えればそれほどの“大金星”だったのである。この成功はその後交渉術などさまざまな分野の書籍[103]でも取り上げられている。
バイデンはバルカン半島で特にコソヴォにおける紛争問題にも積極的に取り組み、1990年代に同紛争が国際的な注目を集め、ビル・クリントン大統領の政策にも影響を与えるよう尽力したことで知られている。彼は紛争地域を繰り返し訪問する一方で、コソヴォ紛争当時のユーゴスラビア大統領であり、セルビア人勢力の代表でもあったスロボダン・ミロシェヴィッチと深夜に極秘会談を行い事態打開を図ろうとするなど、同紛争解決に向けて奔走した。
コソヴォ紛争におけるNATO軍の直接介入の決定には、過去のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争での経験が関わっている。コソヴォ紛争のおよそ5年前に発生したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなかにあった1993年頃、交渉による事態打開が難しい情勢になると、ムスリム人主導のボスニア・ヘルツェゴビナ政府への武器禁輸解除や戦争犯罪の調査、NATO軍による空爆の実施などを主とする積極的な介入を政府に訴えるようになる。この時の提言は、クリントン大統領が1999年のコソヴォ危機に際してに実行されたアライド・フォース作戦など、主にセルビア人勢力によるアルバニア系住民への組織的人権侵害に対する武力制裁・介入を容認する上で、重要なきっかけとなった。また、コソヴォ危機時には、セルビアに対するアメリカの直接攻撃を擁護する姿勢を表明し、これに賛同する共和党議員と協力して、セルビアに対して「必要なあらゆる武力」を行使する権限をクリントン大統領に与えるとする、「マケイン=バイデン・コソヴォ決議」を成立させた。バイデン自身は大統領選挙運動用に刊行された自伝の中において、この時の活動を「海外政策において最も誇りに思う実績」だと書いている。
バイデンとイラクとの関わりは、1991年に湾岸戦争における対イラク武力行使に反対したことが最初である。
2003年から始まったイラク戦争においては、ジョージ・W・ブッシュ政権が武力行使を表明した際には、これを容認する姿勢を示し、前述の「イラクに対する武力行使容認決議」にも賛成票を投じている。しかしながらブッシュ政権が目指したサッダーム・フセイン独裁体制の排除には反対を表明していた。また、ブッシュ政権の一国主義的な行動や、「自衛のための先制攻撃」を許容するブッシュ・ドクトリンについても批判している。このように、ブッシュ政権を批判しつつも、当初はイラク戦争開戦に肯定的だったバイデンだが、その後イラク国内の情勢が泥沼化の様相を呈してくると、一転して反対に転じ、2007年初めに政府が提案したイラクへのアメリカ軍増派法案についても反対した。
バイデンがイラク戦争とそれに伴う混乱・内戦を収拾する手段としてかねてより提唱しているのが、いわゆる「イラク3分割案」である。この案は、イラクをそれぞれシーア派・スンニ派・クルド人の区域に分割し、これら3つの区域から成る連邦国家にするという物である。この案を上記のアメリカ軍増派法案への対案として正式に提案した物が、前述の「イラク分割決議案」である。この決議の提案にあたっては、バイデンと同じイラク分割論者である共和党のサム・ブラウンバック上院議員も賛成を表明し、共同提案者として名を連ねた。なおこの決議案は2007年9月26日に上院において75対23の賛成多数で成立した。
オバマ政権誕生後、オバマ大統領から「ジョー、あなたがイラクをやるんだ(Joe, you do Iraq)」と言われて副大統領のバイデンがイラク問題を所管することになった[104]。バイデンはイラクはこの政権の大きな成果の一つになるかもしれないなと感じたという[105]
もともとバイデンは1970年代以降のアメリカの対中関与政策を支持してきた人物で、オバマ政権の副大統領だった頃には習近平と会談したこともあったが、近年は中国への態度を急速に硬化させている。バイデンに限らず、ここ数年の間、共和党・民主党の党派を超えてアメリカ政界全体に中国は米主導の世界秩序の脅威であるとの認識が広がっている。大統領選挙運動中バイデンが中国政府による香港の抗議運動の弾圧や、ウイグル族の強制収容などを批判して習近平を「悪党」と呼んだことはそれを象徴する[106]。
外交官ジェームズ・グリーンは「新政権は中国に甘いという批判から脇を守る必要がある」「2010年代半ばの米中関係への回帰は望めない」と分析する[106]。
大統領選挙当選後の演説の中でバイデンは「中国に対する最良の戦略は、すべての同盟国などと足並みをそろえることで、就任当初の数週間は、これが最優先事項になる」と述べており、中国に対しては日本を含む多国間の枠組みで対応するべきだという考えを示している[107]。トランプ政権が伝統的な同盟国である日本や韓国、欧州などを「安保のただ乗りをしている」「貿易で不正を働いている」と非難してきたのに対し、バイデンはこうしたことをせず同盟国との連携を深めることで中国に協調行動を取らせることを約束している[106]。またバイデンはオバマ政権時代から米国の軍事的優先事項を中東からアジアに移す推進役になってきたので、今後も中国の南シナ海侵出への牽制などインド太平洋地域重視戦略を維持するだろうとする分析がある[106]。
一方バイデンは大統領選挙戦中にはトランプ政権が関税の上げ下げによって中国に圧力をかけていることについて「懲罰的な手法はとらない」と発言して否定的な見解を示していた。しかし当選が確実になった後にはトランプ政権がこれまで発動してきた中国製品に最大25%の関税を上乗せする措置やアメリカ産農産物を大量購入させることを盛り込んだ貿易協定について「すぐに動かすつもりはない」と述べて当面維持する考えを示している。また「知的財産権の侵害や違法な産業補助金などを是正するための貿易政策を進める」と述べて中国に厳しく改革を求めていく姿勢も示した[107]。
バイデンは外交通としてのイメージが強いが、司法政策にも精通していることで知られている。特に上院司法委員会での活動は、1977年に初めて委員に就任してから現在に至るまで約30年にも及んでいる。その為同委員会での役職経験も豊富であり、前述のように、1987年から1995年までの8年間にわたって委員長を務めたほか、1981年から1987年と1995年から1997年の2度にわたって、委員会における少数党代表者(ranking minority member)を務めた。(「委員会における少数党代表者」は、各委員会における少数党出身委員の代表者であり、委員会においては副委員長と同格の扱いを受ける(実際に副委員長に就任している委員会もある)要職である。多くの委員会において、同職は委員長と共に、各委員会の下に連なる全ての小委員会のメンバーとなる。また、議会において与野党が逆転した際は、多くの場合、少数党代表者が次の委員長に就任する。)
また司法委員会に連なる5つの小委員会にも在籍しており、前述のように犯罪及び麻薬に関する小委員会では委員長を務めている。5つの小委員会は下記の通りである。
また上記の委員会活動と並行して、麻薬政策に関して連邦政府への監視・諮問を行う上院国際麻薬取締委員会(The United States Senate Caucus on International Narcotics Control)の議長を務める他、上院のNATOオブザーバーグループの共同議長も務めている。
バイデンは司法委員として様々な問題に取り組んでいるが、その中でも麻薬政策に熱心に取り組んでいる。また、麻薬政策のみならず、犯罪防止政策や人権政策などにも積極的に取り組んでいる。
上院司法委員会の重要な任務の1つに、アメリカ連邦最高裁判所判事の承認がある。司法委員会は上院本会議での投票に先立ち公聴会を開催し、大統領が指名した判事候補者に対して質疑応答・投票による審査を行うが、バイデンは委員長として、大きな議論を呼んだ2度の公聴会を主催している。
バイデンはこれまで数々の犯罪に関連する連邦法制定に関与してきている。1984年に民主党の議事進行係議員を務めていた際に携わった犯罪管理法(Comprehensive Crime Control Act)の制定では、いくつかの条項に対して修正を加えたが、その修正が同法の通過・成立に大きな影響を与えたとして、市民的自由至上主義者(シヴィル・リバタリアン)から高評価を受けた。
また1994年に携わった「暴力犯罪防止・法執行法」(Violent Crime Control and Law Enforcement Act (VCCLEA))においては、同法とそれに連なる法律の起草作業の先頭に立ち、成立に尽力した。この法律は一般に“バイデン犯罪法”として知られており、彼の最大の業績として広く認識されている。この法律によって定められた主な点は以下の通りである。
1990年代にビル・クリントン大統領の任期中には、ホワイトウォーター疑惑(クリントンがアーカンソー州知事時代、知人と共同経営していた不動産開発会社「ホワイトウォーター」に関連して、不正な土地取引や融資を行っていたのではないかという疑惑。)やモニカ・ルインスキーとの不倫疑惑、さらには当時大統領次席法律顧問を務めていたヴィンセント・フォスターが不可解な自殺を遂げるなど、同大統領に関する数々のスキャンダルが浮上し、ジョージ・H・W・ブッシュ政権で訴務長官を務めたケネス・スターが独立検察官に任命され、厳しい捜査・追及が行われた。バイデンは特にホワイトウォーター疑惑とルインスキー疑惑の2件に関するスターの捜査活動に批判的であり、クリントン大統領に対する弾劾法案にも反対票を投じた。
2016年にアメリカ合衆国副大統領としてウクライナを訪問した際に、同国の検事総長の罷免を要求したという疑いをかけられている。検事総長は、ジョー・バイデンの次男ハンター・バイデンが役員を務めていた同国ガス会社の捜査を統括する立場にあり、辞任後に捜査は打ち切られたため、この疑惑がかかっている[110]。ドナルド・トランプ大統領はこの疑惑を大統領選挙の直前に野党・民主党の有力大統領候補ジョー・バイデンを追い落とす材料にしようとした為か、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領にこの疑惑の天然ガス会社を捜査するようトランプ政権の外交チームで圧力をかけたり自ら直接電話交渉をしたりしていたが、逆に外交安全保障を私的な駆け引きのために悪用し、憲法違反、大統領宣誓違反によって国民を裏切ったとして米情報機関からは内部告発され、下院から「権力の乱用」などの罪で弾劾訴追されてしまうという展開となった[111]。
バイデンにはこれまでに女性に行った複数のセクシャルハラスメント疑惑がかけられてきた。
2019年3月に女性の民主党員で元ネヴァダ州議会議員のルーシー・フローレス(英語: Lucy Flores)は、2014年の選挙活動中にバイデンが背後から近づき、髪の香りをかいで、ゆっくりと後頭部にキスされたとし、「これほど露骨に不適切な真似を経験したことがない」と告発した[112][113]。
2019年3月、民主党内部の2人の女性から複数のセクハラ行為を受けたと告発された[114] 。4月3日、ツイッターに投稿した動画で自身のセクハラ問題について釈明した[115]。その後も告発者が続き、2019年4月5日現在、7名の女性が名乗り出ている[116]。オバマ政権時の副大統領時代から彼の過剰な女性(未成年者・児童を含む)への接触は一部メディア・インターネットで話題になっていた[117][118][119]。同年4月、ジム・ハインズ下院議員(民主党)の側近エイミー・ラッポスは、2009年にバイデンが台所でラッポスの顔を両手で包み、鼻をこすり合わせるなど不適切に触られたと告発した[120]。ラッポスは「不適切に触ったり、セクハラをしてレイプ文化を増長させるような男性は、権力の場にいてはいけない」「こうした振る舞いを『単なる好意』『おじいちゃんみたい』『フレンドリー』と言ってしまうこと自体、この問題を非常に軽視していることの表れで、問題の一部だ」と批判した[112]。
2020年3月26日にはバイデンが1993年に雇っていた当時20代の女性事務職員タラ・リード(Tara Reade)からセクハラ被害を告発された[121][122][123]。リードによると、バイデンが壁に押しつけたあとにキスをし、スカートの中に手を入れ性器に指を挿入し、「どこか別の場所へ行かないか」を囁いたという[124]。リードは、民主党は「すべての女性が安全に発言できる国を作りたいという立場を取っているが、私はその機会に恵まれなかった」とバイデン陣営を批判し、さらにバイデン氏支持者から証拠がないままロシアのスパイだと非難され、殺害予告を受け取ったり、SNSアカウントをハッキングされて、個人情報が抜かれたと述べた[124]。5月1日、バイデン陣営は疑惑を否定した[125][124][126]。
しかし、民主党が2018年にブレット・カバノー最高裁判所判事の過去の性的暴行疑惑を徹底的に追及したのに対し、バイデンのセクハラ疑惑は「問題ない」と片付けようとしているとして、左派勢力および保守勢力の双方から「二重基準」「偽善的な対応」と批判された[126]。また、バイデン自身はかつて他人の疑惑をめぐり「名乗り出た女性を信じるべきだ」と女性側の主張を聞き入れるよう批判したことがある[127]ほか、支持母体の民主党も大統領選挙の政敵であるトランプ大統領の性的暴行疑惑を盛んに非難してきた経緯[128]があり、苦しい弁明となった。
選挙年 | バイデン | 対立候補 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
当落 | 所属党 | 得票数 | 得票率 | 当落 | 氏名 | 所属党 | 得票数 | 得票率 | |
1970年[129] | ![]() | 民主党 | 10,573票 | 55% | ![]() | ローレンス・メズイック | 共和党 | 8,192票 | 43% |
選挙年 | バイデン | 対立候補 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
当落 | 所属党 | 得票数 | 得票率 | 当落 | 氏名 | 所属党 | 得票数 | 得票率 | |
1972年(英語版)[130] | ![]() | 民主党 | 116,006票 | 50% | ![]() | キャレブ・ボッグス(英語版) | 共和党 | 112,844票 | 49% |
1978年(英語版)[131] | ![]() | 民主党 | 93,930票 | 58% | ![]() | ジェームス・バクスター | 共和党 | 66,479票 | 41% |
1984年(英語版)[132] | ![]() | 民主党 | 147,831票 | 60% | ![]() | ジョン・バーリス | 共和党 | 98,101票 | 40% |
1990年(英語版)[133] | ![]() | 民主党 | 112,918票 | 63% | ![]() | ジェーン・ブレディ(英語版) | 共和党 | 64,554票 | 36% |
1996年(英語版)[134] | ![]() | 民主党 | 165,465票 | 60% | ![]() | レイ・クラットワージー | 共和党 | 105,088票 | 38% |
2002年(英語版)[135] | ![]() | 民主党 | 135,253票 | 58% | ![]() | レイ・クラットワージー | 共和党 | 94,793票 | 41% |
2008年(英語版)[136] | ![]() | 民主党 | 257,484票 | 65% | ![]() | クリスティーナ・オドンネル(英語版) | 共和党 | 140,584票 | 35% |
選挙年 | 自陣営 | 対立陣営 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
当落 | 大統領候補 (副大統領候補) | 所属党 | 得票数 | 得票率 | 選挙人 | 当落 | 大統領候補 (副大統領候補) | 所属党 | 得票数 | 得票率 | 選挙人 | |
2008年 | ![]() | バラク・オバマ (ジョー・バイデン) | 民主党 | 69,498,516票 | 53% | 365人 | ![]() | ジョン・マケイン (サラ・ペイリン) | 共和党 | 59,948,323票 | 46% | 173人 |
2012年 | ![]() | バラク・オバマ (ジョー・バイデン) | 民主党 | 65,915,795票 | 51% | 332人 | ![]() | ミット・ロムニー (ポール・ライアン) | 共和党 | 60,933,504票 | 47% | 206人 |
2020年1 | ![]() | ジョー・バイデン (カマラ・ハリス) | 民主党 | 81,283,670票 | 51% | 306人 | ![]() | ドナルド・トランプ (マイク・ペンス) | 共和党 | 74,222,393票 | 47% | 232人 |
公職 | ||
---|---|---|
先代 ディック・チェイニー | ![]() 第47代:2009年1月20日 - 2017年1月20日 | 次代 マイク・ペンス |
アメリカ合衆国上院 | ||
先代 キャレブ・ボッグス(英語版) | ![]() 1973年1月3日 - 2009年1月15日 同職:ウィリアム・ロス(英語版)、トム・カーパー(英語版) | 次代 テッド・カウフマン(英語版) |
先代 ストロム・サーモンド R-サウスカロライナ州 | 上院司法委員会(英語版)少数党筆頭委員(英語版) 1981年 – 1987年 | 次代 ストロム・サーモンド R-サウスカロライナ州 |
新設 | 上院国際麻薬取締委員会(英語版)少数党筆頭委員 1985年 – 1987年 | 次代 チャック・グラスリー R-アイオワ州 |
先代 ストロム・サーモンド R-サウスカロライナ州 | 上院司法委員会委員長 1987年 – 1995年 | 次代 オリン・ハッチ R-ユタ州 |
先代 チャック・グラスリー R-アイオワ州 | 上院国際麻薬取締委員会少数党筆頭委員 1987年 – 1995年 | 次代 チャック・グラスリー R-アイオワ州 |
先代 オリン・ハッチ R-ユタ州 | 上院司法委員会少数党筆頭委員 1995年 – 1997年 | 次代 パトリック・リーヒ R-バーモント州 |
先代 チャック・グラスリー R-アイオワ州 | 上院国際麻薬取締委員会少数党筆頭委員 1995年 – 2001年 | 次代 チャック・グラスリー R-アイオワ州 |
先代 クレイボーン・ペル D-ロードアイランド州 | 上院外交委員会少数党筆頭委員 1997年 - 2001年 | 次代 ジェシー・ヘルムズ R-ノースカロライナ州 |
先代 ジェシー・ヘルムズ R-ノースカロライナ州 | 上院外交委員会委員長 2001年 – 2003年 | 次代 リチャード・ルーガー(英語版) R-インディアナ州 |
先代 チャック・グラスリー R-アイオワ州 | 上院国際麻薬取締委員会委員長 2001年 – 2003年 | 次代 チャック・グラスリー R-アイオワ州 |
先代 ジェシー・ヘルムズ R-ノースカロライナ州 | 上院外交委員会少数党筆頭委員 2003年 – 2007年 | 次代 リチャード・ルーガー(英語版) R-インディアナ州 |
先代 チャック・グラスリー R-アイオワ州 | 上院国際麻薬取締委員会少数党筆頭委員 2003年 – 2007年 | 次代 ダイアン・ファインスタイン D-カリフォルニア州 |
先代 リチャード・ルーガー(英語版) R-インディアナ州 | 上院外交委員会委員長 2007年 – 2009年 | 次代 ジョン・ケリー D-マサチューセッツ州 |
先代 チャック・グラスリー R-アイオワ州 | 上院国際麻薬取締委員会委員長 2007年 – 2009年 | 次代 ダイアン・ファインスタイン D-カリフォルニア州 |
党職 | ||
先代 ジェームス・トゥーネル(英語版) | デラウェア州選出上院議員(第2部) 民主党候補 1972年, 1978年, 1984年, 1990年, 1996年, 2002年, 2008年 | 次代 クリス・クーンズ(英語版) |
先代 ジョン・エドワーズ | 民主党副大統領候補 2008年,2012年 | 次代 ティム・ケイン |
先代 ヒラリー・クリントン | 民主党大統領候補 2020年 | 次代 - |
名誉職 | ||
先代 ジョン・V・タニー(英語版) D-カルフォルニア州 | 最年少上院議員(英語版) 1973年 – 1979年 | 次代 ビル・ブラッドリー D-ニュージャージー州 |