伴須賀雄

平安時代初期から前期にかけての貴族

伴 須賀雄(とも の すがお)は、平安時代初期から前期にかけての貴族左近衛少将大伴和武多麻呂[1]または右兵衛督伴勝雄[2]の子。官位従四位上因幡権守

 
伴須賀雄
時代平安時代初期 - 前期
生誕不明
死没不明
官位従四位上因幡権守
主君仁明天皇文徳天皇清和天皇陽成天皇
氏族大伴氏
父母父:大伴和武多麻呂または伴勝雄
兄弟須賀雄源能有
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経歴

承和年間に備後権掾を務める。この間の承和5年(838年遣唐使に別請益生(特別研究員)として随行し長安へ入京[3]、翌年無事帰国している(この時の位階正六位上)。嘉祥3年(850年文徳天皇の即位後に従五位下叙爵し、文徳朝では土佐権守紀伊介縫殿頭を歴任する。

清和朝に入り、貞観2年(859年)従五位上に昇叙され、引き続き縫殿頭を務める一方、但馬介/守も兼任した。陽成朝では、主殿頭因幡権介を務める傍ら、元慶元年(877年従四位下、元慶6年(882年)従四位上に至っている。

人物

囲碁の名人で、遣唐使から帰国直後の承和6年(839年)10月に共に当時囲碁の名人とされていた伴雄堅魚と共に仁明天皇に召されて囲碁の天覧対局を行った。この際、須賀雄が2子格上であったが、5局指して1勝4敗だったという[4]

官歴

六国史』による。

脚注

参考文献