伊藤󠄁 博󠄁邦󠄂 | |
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生年月日 | 1870年3月3日 (明治3年2月2日) |
没年月日 | (1931-06-09) 1931年6月9日(61歳没) |
出身校 | 学習院高等科卒業 (現・学習院大学) |
前職 | 式部官 |
所属政党 | 火曜会 |
称号 | 従二位 勲一等旭日大綬章 公爵 |
子女 | 長男・伊藤博精 |
親族 | 叔父・井上馨(大蔵大臣) 養父・伊藤博文(内閣総理大臣) 兄・井上勝之助(貴族院議員) |
選挙区 | 公爵議員 |
在任期間 | 1909年11月30日 - 1931年6月9日 |
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伊藤 博邦(いとう ひろくに、旧字体:伊藤󠄁 博󠄁邦󠄂、1870年3月3日〈明治3年2月2日[1]〉 - 1931年〈昭和6年〉6月9日[1])は、日本の宮内官僚、政治家、華族。貴族院公爵議員。位階・勲等・爵位は従二位勲一等公爵。
長州藩士・井上光遠(五郎三郎、井上馨の兄)の四男として生まれ、3歳から伊藤博文の家で育ち、8歳で伊藤の養嫡子となる[1][2][3]。兄に井上馨の養嫡子となった井上勝之助[4]。明治40年(1907年)に勇吉から博邦に改名[3]。養父の死去に伴い明治42年(1909年)11月30日、公爵を襲爵し[1][5]貴族院公爵議員に就任[6][7]。火曜会に所属して死去するまで在任した[6]。
学習院を卒業後ドイツ帝国に留学[2]。帰国して明治24年(1891年)、式部官に就任[2][6]。以後、式部次長、式部長官、大喪使事務官、大礼使参与官などを務めた[6]。その他、日本銀行監事、生活改善同盟会会長、日独文化協会会長、楠公会会長、厳島保勝会総裁、麻布区教育会会長などを務めた[2]。
公職 | ||
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先代 井上勝之助 | 式部長官 1926年 - 1929年 | 次代 林権助 |
先代 渋谷在明 | 主馬頭 1921年 - 1926年 | 次代 西園寺八郎 |
先代 戸田氏共 | 式部次長 1914年 - 1921年 式部次官 1908年 - 1914年 式部次長 1905年 - 1908年 | 次代 西園寺八郎 |
先代 斎藤桃太郎 有栖川宮別当心得 | 有栖川宮附別当 1908年 有栖川宮別当 1902年 - 1908年 別当心得 1902年 | 次代 平山成信 |
日本の爵位 | ||
先代 伊藤博文 | 公爵 伊藤(博文)家第2代 1909年 - 1931年 | 次代 伊藤博精 |