仁和地震

平安時代前期に起きた大地震

仁和地震(にんなじしん)は、平安時代前期に起きた大地震南海トラフ沿いの巨大地震と推定されている[2]

仁和地震
本震
発生日仁和3年7月30日
ユリウス暦887年8月22日
グレゴリオ暦887年8月26日
震央北緯33度00分 東経135度00分 / 北緯33.0度 東経135.0度 / 33.0; 135.0 東経135度00分 / 北緯33.0度 東経135.0度 / 33.0; 135.0信頼度(D)[1][注 1]
規模   M8〜8.5[1]
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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地震の記録

仁和3年7月30日刻(ユリウス暦887年8月22日16時ごろ、グレゴリオ暦887年8月26日)、五畿七道諸国にわたる大地震が発生した。

本地震の信頼度の高い根本史料[3]とされる『日本三代実録』には、京都において諸司の舎屋や民家の多くが潰れ死者も出し、五畿七道諸国が同日大きく揺れ官舎が倒壊、津波による多数の溺死者を出したとする記録がある。余震は8月末ごろまで記録されている[4][5]

特に摂津において津波の被害が甚大であったとされ、京都では長い地震動があったなど近畿地方の震害が著しい。はるか後世に編纂された史料であるが、淡路島洲本藩士が編纂した郷土史である『味地草』には仁和三年七月の地震により海に突出していた砂嘴が津波で失われたことが記される[6]。一方で、土佐における津波や大地の沈降・隆起など記録が確認されておらず、高知県には白鳳地震についての口碑に残る言い伝えはいくつか存在するが、仁和地震によるものが確認されていない[7][8]

  • 『日本三代実録』巻第五十、7月30日の地震の記録。亥時(22時頃)余震が3回あった。

卅日辛丑、申時、地大震動、経歴数剋震猶不止、天皇出仁寿殿、御紫宸殿南庭、命大蔵省、立七丈幄二、為御在所、諸司倉屋及東西京廬舎、往往顛覆、圧殺者衆、或有失神頓死者、亥時又震三度、五畿内七道諸国、同日大震、官舎多損、海潮漲陸、溺死者不可勝計、其中摂津国尤甚、夜中東西有声、如雷者二、

沿岸部だけでなく離れた内陸でも被害が発生したとされている。八ヶ岳の山麓が崩壊し、千曲川を堰き止めて形成された堰止め湖(河道閉塞)が、303日後の仁和4年5月8日(888年6月20日[J]、6月24日[G])に決壊し発生した土石流が原因と考えられる洪水[9][10][11]。大月川に出来た河道閉塞の湛水量は5.8億m3と推定されている[11]。これは日本最大規模の天然ダムとされる。なお八ヶ岳山麓の崩壊については、糸魚川-静岡構造線断層帯の南部が連動して発生した地震の影響を受けた可能性も指摘されている。

『扶桑略記』

仁和三年七月卅日辛丑

信乃国大山頽崩、巨河溢流、六郡城廬払地漂流、牛馬男女流死成丘、

『類聚三代格』巻十七

去年七月卅日、坤徳失静、地震成災、八月廿日亦有大風洪水之沴、前後遭重害者卅有余国、或海水泛溢、人民帰魚亀之国、或邑野陥没、廨宇変蛟龍之家、呼嗟猪沢之功未成、象耕之期奄至、顧念辺氓、誠軫中懐、朕忝以薄徳丕承洪基、内纏陟岵之慟、多惕臨谷之危、重今月八日信濃国山頽河溢、唐突六郡、城廬払地而流漂、戸口随波而没溺、百姓何辜、頻罹惟禍、徒発疚首之歎、宜降援手之恩、故分遣使者、就存慰撫、宜詳加実覈施優恤、其被災尤甚者、勿輸今年租調、所在開倉賑■、給其生業、若有屍骸未歛者、官為埋葬、播此洪沢之美、協朕納隍之心、主者施行、/仁和四年五月廿八日

また臼杵郡東海村(現・延岡市)にあった護国寺である慈通寺(現・円通山千光寺)が流失したという記録[12]や、同村の川島熊野大権現が倒壊した記録[13]から、日向においても津波や震害があったとされる。

地震像

このような「五畿七道大地震」は南海道沖を震源とする巨大地震と推定される[14]

今村明恒(1947)は、『扶桑略記』の山が崩れ川が溢れた記録から同日に「信濃北部地震」が発生したものと考えた[15]。しかし河内晋平(1982)は『類聚三代格』には仁和4年5月8日に山崩れと川が溢れた記録があり、『扶桑略記』にはこの日付が記されていないことを指摘して「信濃北部地震」は存在しなかったとした[16]

津波があることは外帯における地震を示唆するものであるが土佐における記録が確認されておらず、中央構造線沿いの地震であるとする説もある[17]

河角廣(1951)は規模MK = 7.5 を与えているが根拠は示しておらず[18]マグニチュードM = 8.6に換算されている。また、M 8 - 8.5[19]、あるいはその中間値を四捨五入したM 8.3[5]などと推定されているが断片的な記録しか有しない歴史地震であるため数値は不確定である。また記録が乏しいため、マグニチュードや震央の根拠とされる推定震度も、京都が震度V、不確実な(誤記・後述)安房でe(地震)とされているだけである[20][21]

余震活動の記録

『日本三代実録』には仁和地震から約1ヶ月後の8月26日に巻第五十が終結するまでの間、地震の記録が多く現れる。具体的な震源は不明だが、余震活動が活発であったことを窺わせる(同日に光孝天皇崩御したため[3]。本来は同日以後を記した『日本三代実録』に続く新しい正史が編纂される筈であったが完成しなかった(新国史))。その後も『日本紀略』には、仁和3年を中心に余震と見られる地震の記録が多く見られる。また仁和地震直前にも京都における地震の記録がある[22]

  • 仁和3年5月29日(887年6月24日[Jユリウス暦]、6月28日[Gグレゴリオ暦]) - 地震
  • 7月2日(7月25日[J]、7月29日[G]) - 夜地震
  • 7月6日(7月29日[J]、8月2日[G]) - 是夜 地震
  • 7月30日(8月22日[J]、8月26日[G]) - 仁和地震
  • 8月1日(8月23日[J]、8月27日[G]) - 昼夜地震二度
  • 8月2日(8月24日[J]、8月28日[G]) - 昼地震三度
  • 8月4日(8月26日[J]、8月30日[G]) - 地震五度
  • 8月5日(8月27日[J]、8月31日[G]) - 昼地震五度 夜大震 京師人民 出自廬舎 居于衢路
  • 8月6日(8月28日[J]、9月1日[G]) - 停釈奠之礼 去月卅日 木工寮将領秦千本 検校修造職院 驚恐地震 失神而死 供祭所司触此穢也
  • 8月7日(8月29日[J]、9月2日[G]) - 未時(14時頃)地震
  • 8月9日(8月31日[J]、9月4日[G]) - 地震
  • 8月13日(9月4日[J]、9月8日[G]) - 地震
  • 8月14日(9月5日[J]、9月9日[G]) - 子時(0時頃)地震
  • 8月16日(9月7日[J]、9月11日[G]) - 寅時(4時頃)地震
  • 8月22日(9月13日[J]、9月17日[G]) - 是夜 子時(24時頃)地震
  • 8月23日(9月14日[J]、9月18日[G]) - 未時(14時頃)地震
  • 8月24日(9月15日[J]、9月19日[G]) - 丑時(2時頃)地震 寅時(4時頃)又震

発掘調査

近畿地方の地震動や津波は南海道沖の地震の特徴であるが、対応する東海道沖の地震と思われる記録は『扶桑略記』の安房においてこの日地震があった(仁和三年丁未七月三十日安房國地震)とするもののみであった[23]。ただし、本来『扶桑略記』にそのような記述は無く、『大日本地震史料 増訂』の誤記であるとされる[24]

一方で愛知県稲沢市の地蔵越遺跡から平安時代前期の層から噴砂の痕跡が確認され、東海道沖の地震の震源域で地震があったことを示唆している[25]。さらに東海地震震源域である静岡市の上土遺跡でも地震の痕跡が発見されている[26][24]

静岡県富士市浮島ヶ原低地において760年-1020年の間の層に水位上昇の痕跡が認められ、この間の断層活動が仁和地震に相当する可能性も考えられている[27]

また『類聚三代格』の記録から、地震被害や風水害を受けた国が30余に上ると読み取れ、京都における数尅(約2時間)以上と見られる長い地震動は広大な震源域と長い震源時間をもつ多重地震でかつ、その後の活発な余震活動を窺わせ、宝永地震などの記録に類似する。『扶桑略記』には同日に北八ヶ岳と推定される岩雪崩の発生が記され、『日本紀略』の記録にある翌年の千曲川の堰止湖による洪水を誘発したと推定され、また大坂の大津波から、震源域は宝永地震のように広域に亘った巨大地震である可能性は高いとされる[28][29]。また、愛知県知多半島で発見された礫岩層の堆積物はM 9クラスの超巨大地震が発生した可能性を示唆するが年代が特定されていない[30]

しかし、静岡県磐田市の太田川沿いの元島遺跡から発見された津波堆積物は、684年の白鳳地震に相当する7世紀後半のものが大規模であるのに対し、仁和地震に相当する9世紀後半のものは規模が小さく[31]、南海トラフ全域にわたる3連動地震の可能性は低いともされる[32]。また、仁和地震に相当する津波堆積物は南海道側では確認されていない[33]

684年の白鳳地震から203年の間隔があるが、この間の734年の畿内七道諸国の地震もこれに類する地震に位置付ける文献もある[14][7]が、この地震では津波に関する記録が確認されておらず、内陸地震と考えるのが妥当とされる。また『日本紀略』に記された「震死」の記事から延暦13年(794年)に南海トラフ沿いの地震が起ったという説が提唱されたが[34]、「震死」の第一義は「雷に打たれて死ぬ」ことであり、地震の可能性は低いとされる[35]

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 今村明恒『鯰のざれごと』三省堂、1941年。 
  • 間城龍男『宝永大地震 -土佐最大の被害地震-』あさひ謄写堂、1995年1月。 
  • 寒川旭『揺れる大地―日本列島の地震史』同朋舎出版、1997年1月。ISBN 978-4-8104-2363-1 
  • 寒川旭『地震の日本史 -大地は何を語るのか-』中公新書、2007年11月。ISBN 978-4-12-101922-6 
  • 沢村武雄『日本の地震と津波 -南海道を中心に-』高知新聞社、1967年。 
  • 都司嘉宣『歴史地震の話 -語り継がれた南海地震』高知新聞社、2012年6月。ISBN 978-4-87503-437-7 
  • 宇佐美龍夫『わが国の歴史地震の震度分布・等震度線図』日本電気協会、1994年。 
  • 国立天文台『理科年表 平成30年』 第91冊、丸善〈理科年表〉、2017-11-30(2018年版)。ISBN 978-4-621-30217-0 
  • 震災予防調査会 編『大日本地震史料』 上、丸善、1904年。  国立国会図書館サーチ
  • 武者金吉 編『大日本地震史料 増訂 第一巻 自懿徳天皇御宇至元祿七年』文部省震災予防評議会、1941年。  pp.103-104 国立国会図書館サーチ
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 第一巻 自允恭天皇五年至文禄四年』日本電気協会、1983年。  pp.28-29
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 補遺』日本電気協会、1989年。  pp.10-11
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 続補遺』日本電気協会、1994年。  p.3
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺二』東京大学地震研究所、2002年3月。  p.2
  • 宇佐美龍夫『最新版 日本被害地震総覧』東京大学出版会、2003年。 
  • 石橋克彦『南海トラフ巨大地震 -歴史・科学・社会-』岩波書店、2014年3月。ISBN 978-4-00-028531-5