二川孝広

日本のサッカー選手

二川 孝広(ふたがわ たかひろ、1980年6月27日 - )は、大阪府高槻市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー。元日本代表

二川 孝広
名前
カタカナフタガワ タカヒロ
ラテン文字FUTAGAWA Takahiro
基本情報
国籍日本の旗 日本
生年月日 (1980-06-27) 1980年6月27日(44歳)
出身地大阪府高槻市
鹿児島県生まれ)
身長168cm
体重63kg
選手情報
ポジションMF (SH, OH)
利き足右足
ユース
ガンバ大阪ユース
クラブ1
クラブ出場(得点)
1999-2019ガンバ大阪 430 (47)
2016-2018東京ヴェルディ (loan) 22 (1)
2018栃木SC (loan) 7 (0)
2019-2022FCティアモ枚方 27 (5)
代表歴2
2006日本の旗 日本1 (0)
監督歴
2023年-FCティアモ枚方
1. 国内リーグ戦に限る。2022年11月20日現在。
2. 2006年10月4日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

来歴

小中学生時代は地元高槻市である高槻FCに所属した。小学時代は大阪でもベスト4が最高成績だったが、中学時代は3年時にクラブユース選手権関西大会でJリーグクラブの下部組織を抑え優勝し、自身もMVPを受賞した。

1996年ガンバ大阪ユースに入団。主にボランチで活躍。3年時はキャプテンとしてチームを牽引し、クラブユース選手権にて優勝、高円宮杯にて準優勝という成績を収めた。

1999年にトップチームに昇格。同期昇格の大黒将志とはユース時代からのコンビで、大黒が札幌にレンタル移籍した1年間を除いて、2005年まで同じチームでプレーしていた。 

昇格2年目の2000年頃から出場機会を増やし、2002年にG大阪の監督に就任した西野朗からも中盤の様々なポジションで起用され、繊細なボール感覚と抜群のパスセンスを発揮し、遠藤保仁らと共にG大阪の攻撃サッカーの中軸を担い[1]、2003年からは背番号を10番に変更。リーグ初制覇した2005年は、主に3-5-2の中盤の左アウトサイドとして出場していた。2006年以降は主に4-4-2の二列目の左MFとして出場している。

2006年8月アジアカップ予選の西アジア遠征で日本代表に初招集される。同年10月4日キリンチャレンジカップ2006・ガーナ戦で背番号10を着けてA代表初出場を果たした。2007年のリーグ戦は全試合に出場した。

2008年、Jリーグ選抜に選出され[2]、韓国・Kリーグ選抜とのオールスターゲームJOMO CUPに出場。AFCチャンピオンズリーグ2008では、グループリーグで3得点を決め、決勝第2戦のアデレード・ユナイテッド戦でも、ルーカスの2得点目をアシストし、クラブのアジア制覇に貢献。同年度の日刊スポーツ提供「黄金の脚賞」を受賞した[3]。同年12月に開催されたFIFAクラブワールドカップ2008では怪我をおして出場するが、初戦のアデレード戦で怪我していた部分を再び痛め、本人も楽しみにしていたヨーロッパ王者マンチェスター・ユナイテッドとの準決勝は欠場。3位決定戦のCFパチューカ戦では途中出場するも、試合終了間際にレッドカードを提示され退場処分を受けた。

2009年は前年に負った怪我により復帰が遅れるも復帰以降は好調を維持し、天皇杯決勝の名古屋戦では、試合を決定づける3得点目を決め、チームの天皇杯連覇に貢献した。2010年の前半戦は攻撃陣に負傷者が続出する中、活躍を見せたものの、夏に体調を崩してからは不調に陥り、後半戦はこの年台頭した宇佐美貴史の活躍もあり控えに回ることもあった[1]。それでも2011年には復活を遂げ、4年ぶりにリーグ戦30試合以上に出場した。2012年もシーズン通して安定した活躍を見せるもチームは初のJ2降格となった。

自身初のJ2でのプレーとなった2013年、多くの若手選手が台頭したが、シーズン通してレギュラーの座を譲らずG大阪のJ2優勝と1年でのJ1復帰に貢献した。

2014年は主にスーパーサブとして出場し、G大阪の昇格1年目での三冠達成に貢献した。2015年の出場はほとんどがカップ戦でリーグ戦は過去最小のわずか2試合の出場に留まった。しかしACLのグループリーグ最終節の城南FC戦、準々決勝2ndLegの全北現代戦、準決勝2ndLegの広州恒大戦と絶対に勝たなければならない勝負どころの一戦では先発出場するなど存在感を示した。特に広州恒大戦では不動のスタメンだったエース宇佐美貴史の代わりに先発出場を果たした。チームは敗れたものの、持ち前の決定的なパスを量産し、攻撃の起点となった。

2016年、ガンバ大阪U-23J3リーグ開幕戦にオーバーエイジ枠として出場し、同一チームでのJリーグ3カテゴリー出場となった。4月3日の第3節・カターレ富山戦ではJ3初ゴールも挙げた。しかし、トップチームでの前半戦の出場はACLの1試合のみで、J1リーグ戦では出場機会はおろかベンチ入りすら1試合もなかった。前半戦終了後、元G大阪監督の竹本一彦がGMを務める東京ヴェルディからオファーを受け、G大阪側からは慰留されたが、出場機会を求め17年過ごしたG大阪からの移籍を決断。6月28日、東京Vへの期限付き移籍が発表された[4]

2018年3月、栃木SCへ期限付き移籍[5]

2019年1月18日、FCティアモ枚方へ完全移籍[6]

2022年9月にサッカースクールを開設した[7]。同年11月16日、現役を引退すると発表した[8]

2022年11月20日、2023シーズンのFCティアモ枚方のトップチーム監督就任を発表[9]

人物

  • 無口で寡黙な性格で知られている[10]。インタビューも苦手で2009年にG大阪の公式応援番組『GAMBA TV〜青と黒〜』で、MCのたむらけんじと対談したが、たむらの質問に淡々と答えるトークがほとんどであった[11]。また、2009年の年内最終放送の特別企画では、「収録に出てきてくれた」という理由で『GAMBA TV』の2009年MVPを受賞した。
  • 好きなサッカー選手はという問いには「見てて面白いから」という理由で、元ブラジル代表ロナウジーニョを挙げている[12]
  • 2013年1月8日、一般女性と結婚したことを発表した[13]。2014年に第一子が誕生。
  • 2016年7月に経営者として箕面市に鍼灸院を開院[14]

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点出場得点出場得点 出場得点
日本リーグ戦 リーグ杯天皇杯期間通算
1999G大阪32J150202090
2000162102031261
20012624131334
200282827020372
2003102955020365
20043047030404
20052908020390
20063362051407
2007347113414911
20082914210343
20092142061295
20102732030323
20113252010355
20122930040333
2013J2364-20384
2014J11916021272
201520410061
201600--00
東京V32J2201-20221
201720-1030
201800--00
栃木5070-0070
2019枚方10関西1部63--63
202061-1071
2021JFL70--70
202281--81
通算日本J13944368743550556
日本J2655-50705
日本JFL151--151
日本関西1部124-10134
総通算4935368749661066

その他の公式戦

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 期間通算
出場得点 出場得点
日本リーグ戦期間通算
2016G大2310J3101101
通算日本J3101101
総通算101101
  • 2006年
  • 2007年
    • スーパーカップ 1試合1得点
  • 2010年
    • スーパーカップ 1試合0得点
国際大会個人成績 FIFA
年度クラブ背番号出場得点出場得点
AFCACLクラブW杯
2006G大阪1051-
200812320
200910-
201071-
201171-
201250-
201540-
201610-
通算AFC42620

その他の国際公式戦

公式戦
Jリーグ

タイトル

クラブ

ガンバ大阪ユース
ガンバ大阪

FCティアモ枚方

個人

  • Jリーグ優秀選手賞:3回(2004年、2006年、2007年)

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 1試合 0得点(2006年)


日本代表国際Aマッチ
出場得点
200610
通算10

出場

No.開催日開催都市スタジアム対戦国結果監督試合概要
1.2006年10月4日 日本, 横浜市日産スタジアム  ガーナ●0-1オシムキリンチャレンジカップ2006

指導歴

関連項目

脚注

外部リンク