下山事件 | |
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搬出される下山の遺体 | |
場所 | 日本 東京都足立区西綾瀬 常磐線北千住駅 - 綾瀬駅間 |
日付 | 1949年(昭和24年)7月6日 午前0時30分過ぎ (JST(UTC+8)[注釈 1]) |
概要 | 同年7月5日、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪。翌日未明に轢死体で発見された。 |
攻撃手段 | 不明 |
攻撃側人数 | 不明 |
武器 | 不明 |
死亡者 | 下山定則 |
犯人 | 不明 |
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下山事件(しもやまじけん)は、日本が連合国軍の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪、翌7月6日未明に轢死体で発見された事件。
事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、捜査に当たった警視庁内部でも捜査一課は自殺、捜査二課は他殺で見解が対立し、それぞれ独自に捜査が行われたが、公式の捜査結果を発表することなく捜査本部は解散となり、捜査は打ち切られた。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる。
1964年7月6日に殺人事件としての公訴時効が成立し、未解決事件となった。
1949年(昭和24年)6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山は、7月5日朝8時20分(当時の日本には夏時間が導入されていたため、現在の7時20分に相当する。以降の時刻も同様)に出勤のため、大田区上池台の自宅を公用車のビュイックで出発した[1]。出勤途中、下山は運転手の大西に日本橋の三越に行くよう指示した[1]。三越に到着したものの開店前だったため、一旦国鉄本社のある東京駅前に行って千代田銀行(現:三菱UFJ銀行)に立ち寄るなどした後で再度三越に戻った。そして9時37分頃、公用車から降りた下山は「5分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げて三越に入り、そのまま消息を絶った[1]。
普段、下山は9時前には国鉄本社に出勤し、毎朝玄関で秘書の出迎えを受けていた。失踪当日、本社は国鉄の人員整理を巡って緊張した状況にあり、9時から重要な局長会議が予定されていた。姿を見せない下山の自宅より「普段通り公用車で出た」との回答を得た本社の通報を受け、警察は失踪事件として捜査を開始した。
翌7月6日0時30分過ぎ、足立区綾瀬の常磐線北千住駅 - 綾瀬駅間、東武伊勢崎線との立体交差部ガード下付近で下山の轢死体が発見された。
失踪後、下山らしき人物はまず三越店内の複数の場所および地下入口付近、地下の喫茶店で目撃され、次に営団地下鉄(現在の東京メトロ)銀座線の浅草行きの電車内で、下山に足を踏まれたという乗客に目撃された。三越店内では、「3 - 4人の男に取り囲まれて歩いて行った」との目撃証言もある。
11時13分頃に地下鉄を利用して三越を訪れた主婦の小川貞子は、三越の地下入口で3人の男と立ち話をしている下山を目撃している。3人のうちの1人は「身長150cmほどの小男、色の浅黒い逆三角形の顔で金縁眼鏡をかけていた」と証言している。
13時40分過ぎ、遺体発見地点に近い東武伊勢崎線五反野駅で下車した下山らしき人物は改札係に「この辺に旅館はありますか」と尋ねている。その後、14時から17時過ぎまで駅員に教えられた同駅に程近い末広旅館に滞在し、18時頃から21時近くまでの間、五反野駅から南の遺体発見地点に至る東武伊勢崎線沿線で、服装背格好が下山によく似た人物の目撃証言が多数得られた。警視庁捜査一課は末広旅館での目撃証言により、ストレス等による発作的自殺説に傾いていった。しかし、五反野駅周辺から末広旅館にかけて目撃された人物について、旅館滞在中から旅館を出てトンネルと土手で目撃された18時40分までは眼鏡をかけていたが、夕方にかけての3人の目撃証言ではネクタイと眼鏡を外しており、遠視及び乱視を患う下山にしては不自然であることが指摘された。また、下山は色白で八の字眉であるのに対し、目撃された人物は日焼けして色が浅黒く脂ぎっており、頬骨が出ていて眉がつり上がっていたとの証言や、旅館滞在中にたばこを1本も吸っていないのも、喫煙者の下山にしてはおかしいとの指摘がある[2]。また、下山は東武鉄道の優待乗車証を所持していたが、五反野駅の改札では駅員に切符を渡しているなど疑問点が多数指摘され、五反野周辺で目撃された人物を下山本人と見るか、替え玉と見るかで意見が錯綜した。
下山は東武伊勢崎線ガード下の国鉄常磐線下り線路上にて、付近を0時20分頃に通過した田端発平行きの下り貨物第869列車(D51 651牽引)にひかれたことが判明[注釈 2][注釈 3]した。遺体の司法解剖の指揮を執った東京大学法医学教室主任の古畑種基教授は、回収された下山の遺体に認められた傷に生活反応が認められないことから、死後轢断と判定した(解剖の執刀は同教室の桑島直樹講師)。
また、遺体は損傷が激しく確実な死因の特定には至らなかったものの、轢断現場では血液がほとんど確認されず、失血死の可能性が指摘された。加えて、遺体の局部などの特定部位にのみ内出血などの生活反応を有す傷が認められたことから、該当部分に生前かなりの力が加えられたことが予想され、局部蹴り上げなどの暴行が加えられた可能性も指摘された。
一方、現場検証で遺体を検分した東京都監察医務院の八十島信之助監察医は、それまでの轢死体の検視経験から、すでに現場検証の段階で自殺と判断していた。遺体の局部などの特定部位にみられた内出血などの生活反応を有す傷については、轢死体では頻繁に生じる事象であり、血液反応がわずかなことも、遺体発見時の現場周辺で降った雨に流され確認できなかったもので、他殺の根拠にはなり得ないと主張した。
さらに、慶應義塾大学の中舘久平教授が生体轢断を主張した。自殺の根拠となる生体轢断と見るか、他殺の有力な根拠となる死後轢断[注釈 4]とするかで意見が対立した。1949年(昭和24年)8月30日には古畑、中舘、小宮喬介(元名古屋医科大学教授)の3人の法医学者(ただし中館、小宮の両者は下山の遺体を実見していない)が衆議院法務委員会に参考人招致され、国会や法医学界をも巻き込んだ大論争となった。法務委員会委員の質問に対し古畑は、「解剖執刀者桑島博士は、いまだかつて公式には他殺、自殺のいずれともいっていない。死後轢断という解剖所見を述べているだけである。研究は継続中であり、研究結果も知らない者が勝手に推論することは、学者的態度ではない」と述べた[4]。
朝日新聞記者の矢田喜美雄と東大法医学教室による遺体および遺留品の分析では、下山のワイシャツや下着、靴下に大量の油(通称「下山油」)が付着していたが、一方で上着や革靴内部には付着の痕跡が認められず、油の成分も機関車整備には使用しない植物性のヌカ油であった[注釈 5]ことや、衣類に4種類の塩基性染料が付着していたこと、足先が完存しているにもかかわらず革靴が列車により轢断されているなど、遺留品や遺体の損傷および汚染状況などに、矢田と法医学教室が極めて不自然と判断した事実が浮かび上がっていた。特にヌカ油と染料は、下山の監禁および殺害場所を特定する重要な手がかりになる可能性もあるとして注目された。
加えて、連合国軍憲兵司令部・犯罪捜査研究室(CIL)でアメリカ軍所属のフォスター軍曹より、轢断地点付近にわずかな血痕を認めたとの情報を入手した。そこで微細血痕を暗闇で発光させ、目視確認を可能とするルミノール薬を用いた検証を実施した[注釈 6]。轢断地点から上り方の枕木上に、わずかな血痕を発見した。
その後、警視庁鑑識課を加えたうえで改めてルミノール検証が行われた結果、轢断地点から上り方の荒川鉄橋までの数百メートルの間の枕木上に、断続的に続く多数の血痕を確認した。血痕は、最後に上り方向の線路へ移り途切れていた。
さらに、その土手下にあった「ロープ小屋」と呼ばれる廃屋の扉や床にも血痕が確認されたため、これらの血痕は下山の遺体を運搬した経路を示しているのではないかと注目された。しかし、警視庁捜査一課は釣り糸製造業の角田という人物を探し出し、1946年2月から1948年5月まで所有者から小屋を借り受け、その間に薪割り中に斧で大けがをしたため血痕が付着したと主張した。だがこれを重視した東京地検が本人の血液を採血し、東大法医教室で血液型を検査したところ、血液型は一致しなかった。[5]
1949年(昭和24年)8月、捜査一課は本事件を自殺という形で決着させることとし[1]、捜査報告書の作成を始めていた。しかし、この決定にGHQから制止がかかり、自殺説の発表は見送られた。他方、他殺説を重視する捜査二課は、東京地検、東大裁判化学教室と連携してその後も植物油や染料の全国捜査を地道に続けていた。これに気付いた捜査一課は、情報入手のため塚本鑑識課長に東大裁判化学教室の秋谷教授を訪ねさせた。その結果、捜査二課が全刑事を動員して油と染料の捜査を行っていることを知り、この報告を聞いた堀崎捜査一課長は驚愕した。このまま二課の捜査が進むと、一課が決定した自殺説の決着が覆されるだけでなく捜査本部の解散もできなくなるため、大きな危機感を感じた堀崎は田中警視総監と坂本刑事部長を担ぎ、12月初めに捜査二課二係長の吉武辰雄警部を上野警察署次席に配転させたのを皮切りに、12月31日には捜査本部を解散、翌1950年(昭和25年)4月には二課の刑事たちのほとんどを都内23区の警察署に分散異動させるという強引な人事を断行させ、事実上二課の捜査を強制終了させた。
1949年(昭和24年)12月15日、警視庁下山事件特別捜査本部が作成した内部資料「下山国鉄総裁事件捜査報告」(通称「下山白書」)は、1950年(昭和25年)1月に『文藝春秋』と『改造』誌上に掲載された[1]。警視庁記者クラブは、事件白書のようなものは記者クラブで共同発表すべきものとして抗議し、漏洩元を調査して回答せよと要求した。これに対し坂本刑事部長は「あれは正式なものではない、事実関係は調査の上回答する」とした。しかしその後も回答はなく、坂本は言を左右にして回答を避け続けたため、記者クラブは独自に調査を行い、次のような事実が判明した。
本報告書が完成したのは12月はじめで、15日にはガリ版刷り五百枚の冊子二十部が完成した。総監や部長クラスには各一冊宛、残った部数が捜査一課の金庫にしまわれた。捜査本部の看板も数日中に外されることになったものの、世間ではまだ殺人事件だと騒いでいた。捜査本部解散のあとではせっかくの報告書も世に出ぬままになる可能性がある。むしろ世論を「自殺」に落ち着けるには「極秘」の報告書を世に出したほうがいい。そう考えた男が捜査一課の幹部の中にいた。その男は自分で金庫を開けることのできる地位の人物だった。この男はなかなか頭のいい人物で、捜査一課の自殺説を支持している毎日新聞には話を持ち込まず、全国ネットでニュースを流す共同通信社の山崎記者に渡りをつけた。金庫は開かれ、山崎記者は分厚い報告書を抱えて日比谷の自社に走った。こうして12月17日には共同通信社会部は、三千字の活字にまとめて全国各地に流したのである。東京では東京タイムズと朝日が小さくこれを扱ったが、他紙は毎日を含めて黙殺した。地方紙でもこの事象には冷淡で、ほとんどの各紙がニュースにしなかった。ニュースにしないばかりか、地方紙のなかには「共同通信は自殺説を支持しているのか」と文句をつけるという一幕もあった。どうして各紙ともこのニュースを無視したかというと、東大法医教室ではすでに五反野現場で、総裁の血液型と一致するAMQ型血液[要曖昧さ回避]を数ヶ所で検出しており、ついで同裁判化学教室では、遺品の衣類からヌカ油や染料が多量に発見され、これらの事実は「自殺」ではあり得ないことを物語っていたからだった。問題の報告書は、ニュースになったときにはもちろん警視庁に返されていたのだが、次に動いたのは雑誌社だった。三千字の内容ではくわしいことはわからない。新聞がとりあげないなら自分のところで全文をいただこうという算段である。「文藝春秋」では十二月二十六日に山崎記者を通じて、また金庫から報告書を持ち出してもらい、四百字詰原稿用紙百五十枚に要約して昭和二十五年二月号に発表した。捜査一課の金庫というのは常時開けっ放しだったとみえて、山崎記者でなくても報告書は手に入れることができたようである。新顔の「改造」は「文藝春秋」がすでに原稿を手に入れたのも知らず、別の仲介者の手を借りて同じものを要約した。しかし「改造」のほうは「文藝春秋」の二倍くらいの枚数にまとめた。しかたなく二、三月号に分載することになったわけである。 — 謀殺・下山事件[要文献特定詳細情報] 186-187ページ
本報告書は自殺と結論づける内容となっているが、矢田や松本清張などは報告書の内容に矛盾点や事実誤認を指摘している。特に矢田は報告書に書かれている目撃証言のうち、1964年(昭和39年)時点で生存していた目撃者に直接聴き取りを行い、いくつかの証言に捜査一課刑事による改竄や創作が盛り込まれていることを解明した。同年7月6日、殺人事件である場合の公訴時効が成立した。
下山事件が起こった1949年は冷戦の初期であり、中国では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも38度線を境に共産主義政権と親米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような世界情勢の中で、日本占領を行うアメリカ軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの「民主化」から「反共主義の砦」に転換した。まずは高インフレに喘ぐ経済の立て直しを急ぎ、いわゆるドッジ・ラインに基づく緊縮財政策を実施する。同年6月1日には行政機関職員定員法を施行し、全公務員で約28万人、同日発足した国鉄に対しては約10万人近い空前絶後の人員整理を迫った。
同年1月23日に実施された戦後3回目の第24回衆議院議員総選挙では、吉田茂の民主自由党が単独過半数264議席を獲得するも、日本共産党も4議席から35議席へと躍進した。共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や国鉄労働組合も、その余勢を駆って人員整理に対する頑強な抵抗を示唆し、吉田内閣の打倒と「人民政府」樹立を公然と叫び、世情は騒然とした。下山は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の7月4日には、3万700人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われた[6]。
他殺説の中で最も著名なのは松本清張が『日本の黒い霧』の中の一篇として著した「下山国鉄総裁謀殺論」である。清張は当時日本を占領下に置いていた連合国軍の中心的存在であるアメリカ陸軍対敵諜報部隊が事件に関わったと推理した[注釈 7]。ただ、アメリカ軍関係機関による下山謀殺論は清張が嚆矢だったわけではなく、1960年 (昭和35年) に大野達三が刊行した『謀略』(三一書房) の中で既に、CIA東京支部による計画だと推理されている[8]。なお、秦郁彦は「再考「日本の黒い霧」(上)」(『昭和史の謎を追う・下』所収) の中で、後述の1201列車の存在を調べだしたのも大野が最初であるらしい、と書いているが[8]、これは誤りである[注釈 8]。
本事件が時効を迎えると、松本をはじめとする有志が「下山事件研究会」を発足し、資料の収集と関係者からの聞き取りを行った。同研究会では連合国軍の関与した他殺の可能性を指摘した。研究会の成果は、みすず書房から『資料・下山事件』として出版された。
清張が「下山国鉄総裁謀殺論」の中で展開した推理は、現在では完全に否定されている。清張は、下山が着ていたワイシャツに付着していた色のついた細かなゴミを根拠にして、下山は赤羽にあった米軍修理工廠内で殺害された、と推理した[10]。さらに、その死体は油の付着したドラム缶に横倒しにされて入れられ田端機関庫まで運ばれ、そこで1201列車(下山を轢いた869貨物列車[注釈 9]の1つ前に現場を通過した占領軍専用列車)に積まれた後、轢断現場付近で停車、死体を現場から数百メートル荒川側に寄ったところにあったロープ小屋に一旦隠した後で、死体を轢断現場まで運び、後続の貨物列車に轢かせたと推理を展開したが[10]、佐藤一の調査により、この1201列車は事件当日、ダイヤグラム通り定時で運行されたこと、田端駅では停車していないこと、下山事件当時に警察が調べにやってきており、警察側は1201列車に関して疑わしい点がなかったのを調査済みだったことが、乗務員への聞き取り調査で確認されている[注釈 10][注釈 11]。
大新聞の中では、朝日新聞と読売新聞が他殺説を報じた。朝日新聞記者の矢田喜美雄は1973年(昭和48年)、長年の取材の成果を『謀殺・下山事件』に収め、自殺説を否定するとともに取材の過程でアメリカ軍内の防諜機関に命じられて死体を運んだとする人物に行き着いたとして、その人物とのやりとりを記載している。
1999年、『週刊朝日』誌上で「下山事件-50年後の真相」が連載される。その後、取材を共同で進めていた諸永裕司著『葬られた夏』、森達也著『下山事件(シモヤマ・ケース)』、柴田哲孝著『下山事件-最後の証言-』が相次いで出版され、いずれも元陸軍軍属が設立した組織と亜細亜産業関係者による他殺と結論づけている。また、下山の友人および知人には「彼の性分からしてあれほどの首切りを前に自殺するというのであれば遺書の一つは残すはずである」として他殺説を支持する者が多かった。
また下山は、かねてよりいずれ運輸省を辞して参議院選挙に出馬したいとの意向を周囲に語っていた。ただ下山は、同じ鉄道官僚出身で議員になった佐藤栄作と違い政治的バックボーンを持たなかったため、議員当選のためには「元国鉄総裁」という肩書が必要だったのではないかと推測される。つまり、下山は国鉄で9万5,000人の大合理化さえ達成すれば役目は終わり、その後は国鉄を辞して参議院選挙に立候補し、元国鉄総裁というネームバリューと佐藤栄作や民主自由党のバックアップによって当選して参議院議員になるという明るい未来が約束されていたはずであった。
事件発生直後から毎日新聞は自殺を主張(毎日新聞が自殺証言のスクープを出したため)。同紙記者平正一は取材記録を収めた『生体れき断』1964年を出版。大規模な人員整理を進める責任者の立場に置かれたことによる、初老期鬱憂(うつゆう)症による発作的自殺と推理した。
1976年には、佐藤一が自殺説の集大成と言える『下山事件全研究』を出版。佐藤は松川事件の被告として逮捕・起訴され、14年間の法廷闘争の末に無罪判決を勝ち取った人物であり、下山事件も連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)あるいは日本政府による陰謀=他殺と当初は考え、「下山事件研究会」の事務を引き受けていた。しかし、調査を進める過程で次第に他殺説に疑問を抱き、発作的自殺説を主張するようになる。他殺の根拠とされた各種の物証に関して、地道な調査に基づいて反論を加えた。
冤罪事件の被害者を支援してきた山際永三は「我々,冤罪に関わる人間が,一つのリトマス試験紙にしているのが下山事件なんです。下山事件は他殺だっていう人は私らの仲間ではないんです」とまで言い切っている[16]。
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