いちじょう みゆき 一城 みゆ希 | |
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プロフィール | |
本名 | 岡本 浩子(おかもと ひろこ)[1][2][3](旧姓:千枝(ちえだ))[4] |
性別 | 女性 |
出身地 | ![]() |
死没地 | ![]() |
生年月日 | (1947-08-23) 1947年8月23日 |
没年月日 | (2023-10-24) 2023年10月24日(76歳没) |
職業 | 声優、女優 |
事務所 | ぷろだくしょんバオバブ(最終所属)[8] |
公称サイズ(時期不明)[9] | |
身長 / 体重 | 163 cm / 53 kg |
声優活動 | |
活動期間 | 1960年代 - 2023年 |
ジャンル | アニメ、ゲーム、吹き替え |
デビュー作 | 『アトランティスから来た男』[5] |
女優活動 | |
ジャンル | テレビドラマ |
音楽活動 | |
活動名義 | 南田聖子(1968年 - 1969年) 一城みゆ希(1970年 - 2023年) |
活動期間 | 1968年 - 2023年 |
職種 | 歌手 |
共同作業者 | ヤング101 |
声優:テンプレート | プロジェクト | カテゴリ |
一城 みゆ希(いちじょう みゆき、1947年〈昭和22年〉[10][注釈 1]8月23日[4] - 2023年〈令和5年〉10月24日[12][10])は、日本の声優、女優、歌手。
岩手県奥州市出身[5][6]。 旧芸名:一条 みゆ希 [13]。
岩手県水沢市(現・奥州市)に生まれ、小学校3年生まで過ごす[5]。母は仕事で上京していたため、親戚の家で育つ[6]。小学4年生の時に東京都で母と子の生活が始まり、夏休みや冬休みを水沢で過ごした[5][6]。やがて母は全身リューマチを発病して生活は困窮したが、必死の看病の甲斐あって、体調は上向きになり料理店を開くまでに回復[6]。
物心ついた時から「歌手になりたい」と思っていた[6]。童謡も大人の歌も「上手い」と回りの大人たちが褒めたことから嬉しく思い、ごく自然に歌手になるものだと決めていたという[6]。
中学校卒業後、松竹音楽舞踊学校に入学し、本格的に歌とダンスの基礎を学ぶ[6]。1968年にクラウンレコードから南田聖子名義でシングル・レコードを出す[14]ものの売れず。1969年に、NHKが1970年から放送を予定していた新しい音楽番組『ステージ101』のオーディションに合格して、出演グループとなるヤング101[15]のメンバーとなる[5]。中村八大(作曲)、和田昭治(コーラス)、中川久美(ダンス)、早野寿郎(芝居)、永六輔(トーク)、中島弘子(衣装)、大関早苗(美容)らを先生として、1年間練習の日々を過ごす[5]。
1970年1月10日にNHK総合テレビジョンで『ステージ101』の放送が開始され、一城はヤング101のメンバーとして第一回からレギュラー出演する。番組ではワンマンショーの他、踊りやトーク、コントのコーナーへの出演も多く、次回予告も担当した[5]。番組の生みの親であり演出を担当していたNHKディレクターの末盛憲彦が1972年3月末に異動となったことに納得がいかず、ヤング101のメンバー数人とNHK会長に直訴したが受け入れられず、同年9月24日に自身も番組降板となる[5]。
降板前に『おかあさんといっしょ』のうたのおねえさん役のオファーを受けていたことから、幼児向けの教育番組に出演。番組では山田康雄、大塚周夫、小原乃梨子といった声優と出会い、声優の仕事に憧れを抱くようになる[5]。人形劇で声優がいろんな声を使い分ける様を見てその腕に驚いたことや、うたのおねえさんは続々と若くて新しい人が出てくるため声の技術を磨こうとする[2]。しかし、当時所属していた事務所は声の仕事ではなく歌の仕事を中心に考えており、声優業を行うことはなかった[5]。
転機は自身の結婚により訪れる。所属事務所が結婚後も所属することを了承しなかったため、『おかあさんといっしょ』プロデューサーの薦めでテアトル・エコーに移籍[5]。NHKで放映されたテレビドラマ『アトランティスから来た男』の吹き替えが声優デビュー作であった[5]。続いて映画『オー!ゴッド』のテレビ版吹き替えに起用されるが、自分の不出来のために演出の伊達康将がプロデューサーに怒られ、さらには伊達から「君にはがっかりしたよ」と言われたことで奮起。伊達に褒めてもらうことを目標とし、声優の仕事を本格的にこなすためぷろだくしょんバオバブに移籍した[5]。
2005年には、阿部直美監修で乳幼児教育研究所からCD『一城みゆ希が歌うトア手つなぎドーナツ』を発売した[6]。このCDに関連して毎年夏には歌や手遊びの講師として全国を回っていた[6]。
1972年に『ステージ101』を降板してから2023年に至るまで51年間に渡って、DJ[注釈 2]、声優業の他、自身が作詞作曲した童謡を収録したCDの発表、歌唱指導、ダンス講師、朗読など、幅広く活躍していた[注釈 3][16]。
2016年、乳癌と胃癌が一緒に見つかり、同時に施術できる医師の手術を受け、3週間後に退院、即収録現場に復帰した[2]。
2023年10月24日午前10時13分、多臓器不全のため東京都の病院で死去した[7]。76歳没。
声種はメゾソプラノ - アルト[17]。方言は東北弁(岩手県)[8]。
資格は日本舞踊「葵流名取」[8]。特技はジャズダンス、タップダンス、歌唱。趣味は旅、美術館鑑賞[8]。
アニメ、洋画に多数出演した[18]。役柄としては、母親からキャリアウーマンまで演じていたが、1997年時点では中年の女性を演じる機会が多かった[18]。
『ザ・シンプソンズ』のマージ・シンプソン役とセルマ・ジーブエ役をシーズン14まで担当した[注釈 4]が、『ザ・シンプソンズ MOVIE』では和田アキ子に代わった。一城は自分のブログで、この交代に関して苦しい胸の内を明かした[19]。
藤村歩に尊敬する声優の一人として名前を挙げられ、「若々しくて、いつも輝いている太陽みたいな方」と称された[20]。
1961年、母と一緒に創価学会に入信、題目を唱えるうちに母のリウマチの症状が改善、功徳を感じたという[2]。2022年時点で創価学会女性部副本部長、芸術部中央委員[2]。
レコード会社 規格品番 発売日 | 名義 | 面 | 曲名 | 作詞 | 作曲 | 編曲 |
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クラウン CW-814 '68年5月 | 南田聖子 | A | 私を抱きしめて | 水沢圭吾 | 宮城淳 | 小杉仁三 |
B | 涙の街東京 | 水沢圭吾 | 宮城淳 | 小杉仁三 | ||
東芝 TS-1467 '79年 | 一城みゆ希 フィーリング・フリー 諏訪マリー | A | フラワー・エンジェル | |||
B | 諏訪マリー「海へ行った木馬」 |
典拠管理データベース: 芸術家 ![]() |
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