ヴィットーリオ・アメデーオ3世
ヴィットーリオ・アメデーオ3世(イタリア語: Vittorio Amedeo III、1726年5月24日 - 1796年10月16日)は、サルデーニャ王国の第3代国王(在位:1773年2月20日 - 1796年10月16日)。カルロ・エマヌエーレ3世と、2度目の妃ポリッセナ・ダッシア=ローテンブルグの子。
ヴィットーリオ・アメデーオ3世 Vittorio Amedeo III | |
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サルデーニャ国王 | |
![]() ヴィットーリオ・アメデーオ3世 | |
在位 | サルデーニャ王 1773年2月20日 - 1796年10月16日 |
別号 | サヴォイア公 |
全名 | Vittorio Amedeo Maria di Savoia ヴィットーリオ・アメデーオ・マリーア・デ・サヴォイア |
出生 | 1726年5月24日![]() |
死去 | 1796年10月16日(70歳没)![]() |
埋葬 | ![]() |
王太子 | カルロ・エマヌエーレ4世 |
配偶者 | マリーア・アントニア・ディ・スパーニャ |
父親 | カルロ・エマヌエーレ3世 |
母親 | ポリッセナ・ダッシア=ローテンブルグ |
生涯
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f4/Dupr%C3%A0%2C_Domenico_-_Victor_Amadeus_III_in_Armour.jpg/180px-Dupr%C3%A0%2C_Domenico_-_Victor_Amadeus_III_in_Armour.jpg)
1726年にトリノで生まれ、即位するまでは「サヴォイア公」という称号だった[1]。1773年に父が亡くなると王位についた。
フランス革命が勃発する前は、サルデーニャ王国で内政改革を推進した[2]。
フランス革命の勃発直後、亡命してきた娘婿アルトワ伯爵とその妻子を保護し、1791年にはアデライード王女とヴィクトワール王女を保護した。第一次対仏大同盟にも参加したが、モンテノッテの戦い、ミッレージモの戦い、モンドヴィの戦いなどで連敗し、パリ条約を結ばされて同盟から脱落した。同年に病没し、トリノのスペルガ聖堂に埋葬され[3]、後を長子のカルロ・エマヌエーレ4世が継いだ。
人物
ナイーブだが、家臣にはその寛大さで愛されたという[4]。
家族
1750年に、スペイン王フェリペ5世と後妻エリザベッタ・ファルネーゼの娘マリーア・アントニア(1729年 - 1785年)と結婚した[5]。結婚生活は良好で、マリーア・アントニアがヴィットーリオ・アメデーオ3世の政策に影響を与えることはなかったという[5]。2人は6男6女をもうけた[6]。
- カルロ・エマヌエーレ4世(1751年 - 1819年)
- マリーア・エリザベッタ(1752年 - 1753年)
- マリーア・ジュゼッピーナ・ルイーザ(1753年 - 1810年) - フランス王ルイ18世と結婚(夫の即位前に死去)
- アメデーオ・アレッサンドロ(1754年 - 1755年) - モンフェッラート公。
- マリーア・テレーザ(1756年 - 1805年) - フランス王シャルル10世と結婚(夫の即位前に死去)
- マリーア・アンナ(1757年 - 1824) - 叔父シャブレー公ベネデットと結婚
- ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世(1759年 - 1824年)
- マリーア・クリスティーナ・ジュゼッピーナ(1760年 - 1768年)
- マウリツィオ・ジュゼッペ・マリーア( 1762年 - 1799年) - モンフェッラート公
- マリーア・カロリーナ・アントニエッタ(1764年 - 1782年) - ザクセン王アントンと結婚(夫の即位前に死去)。
- カルロ・フェリーチェ(1765年 - 1831年)
- ジュゼッペ・ベネデット(1766年 - 1802年) - モリアーナ伯( - 1796年)、アスティ伯(1796年 - 1802年)