ロベルト・バルボン

キューバの野球選手 (1933 - 2023)

ロベルト・バルボンRoberto Barbon , 1933年3月13日 - 2023年3月12日)は、キューバマタンサス州マタンサス[1]出身のプロ野球選手内野手)・コーチ解説者

ロベルト・バルボン
Roberto Barbon
基本情報
国籍 キューバ
生年月日 (1933-03-13) 1933年3月13日
 キューバマタンサス州 マタンサス[1]
没年月日 (2023-03-12) 2023年3月12日(89歳没)
日本の旗 日本兵庫県西宮市
身長
体重
176 cm
72 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション二塁手
プロ入り1954年
初出場NPB / 1955年3月26日
最終出場NPB / 1965年10月21日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 阪急ブレーブス (1974 - 1975)

愛称は「チコ(Chico)」(スペイン語で「坊や」の意[2])。「チコ・バルボン(Chico Barbon)」とも。

経歴

14人兄弟の末っ子として生まれ、10歳頃に野球を覚える。野球はキューバで最も人気のあるスポーツで、多くの子どもが野球に親しんでいたが、物資が乏しかったことから、生地でグラブを作り、煙草の紙箱をボールにしていたという[3]。キューバ高校に入って以降本格的に野球を始め、1950年メジャーリーガーを目指し渡米[1]。最初は、ワシントン・セネタースのマイナーに入る。のち、フロリダ・インターナショナル・リーグ英語版を経て、1954年マイナーリーグベーカーズフィールド・インディアンス英語版や、ホーネル・ドジャース英語版でプレーした。

日本プロ野球時代

阪急球団代表の村上実と懇意だったクリーブランド・インディアンススカウトがバルボンを良く知っていたことをきっかけに、阪急からのオファーを受ける[4]ハバナのホテルのロビーで、バルボンは村上から直接日本行きを誘われたという[5]。来日前、日本韓国中国は同じ言葉を話すと思っていたほど[6]日本の事情を知らなかった。加えて1953年朝鮮戦争が終わったばかりであったため、日本ではまだ戦争をやっているのではと思い、バルボンは来日を相当迷ったが[7]、とにかく1年だけ行ってみようと考え、1955年阪急ブレーブスに入団。年俸は5,000ドルほどであった[5]

来日1年目からシュアな打撃と俊足を武器に活躍[8]、一番・二塁手としてほぼフル出場し、打率.280(リーグ17位)、49盗塁(リーグ2位)を記録。163安打・105得点はリーグトップ、656打席金山次郎を超える当時の日本記録であった。1956年もほぼフル出場して55盗塁(リーグ3位)、94得点で2年連続で得点トップに立つ。同年は佐々木信也と共に前年の最多打席記録を671打席に更新した(1963年に広瀬叔功が更新)。1958年にはチームトップの打率.268(リーグ11位)を打つ一方、38盗塁で外国人選手として史上2人目となる盗塁王になるとともにベストナイン二塁手も獲得した。バルボンはこの頃の正遊撃手であった河野旭輝と、守備では二遊間を組んで見事な併殺網を敷き、打撃では一・二番を組んで二人ともよく走って、当時弱かった阪急の看板になった[9]。この間、1956年・1957年は2年連続で河野が、1958年から1960年にかけて3年連続でバルボンが盗塁王になっている。

1957年までの3年間は、毎年オフにハワイにいる阪急の関係者から給料をドルの現金で受け取っていた。1958年オフに初めて日本で給料を受け取ってキューバに帰国すると、キューバ革命による内戦が起こっており、翌1959年1月カストロが首都・ハバナに入る直前にバルボンは日本に戻っている。革命によって日本・キューバ間の自由な往来が不可能になり、以降ほぼ30年に亘ってバルボンは祖国の土を踏むことができなかった[10]。また、1960年(一説では1962年[11])に西宮球場の近くに住んで、よく試合観戦に訪れていたという妙子と結婚[12]。一人娘を儲けている。

1959年以降、バルボンは2割台前半の低打率が続くようになるが、1963年までは正二塁手の座を守る。しかし、1964年に強打のダリル・スペンサーが入団すると、バルボンは守備固めに回るようになって出場機会が半減。同年末に近鉄バファローズにトレードされた[13]1965年は近鉄では再び二塁手のレギュラーとなり、5年ぶりに規定打席に到達するが、リーグ最下位の打率.231に終わり、同年限りで退団・引退した。

1964年に外国人選手として初めて1000安打を達成するとともに、2007年タフィ・ローズが記録を更新するまでは、歴代外国人選手トップの最多出場数1353試合の記録を持っていた。2020年現在、外国人選手で盗塁王となっているのはバルボンとラリー・レインズの2人のみ。いずれも阪急所属時に記録している。

引退後

引退後は友人の誘いで神戸市三宮でピザやステーキを扱う鉄板焼レストラン「カポネ」を経営する傍ら[11]サンテレビジョンのプロ野球中継「サンテレビボックス席」第1回放送からの初代解説者(1969年 - 1970年)も務めた。店の開店前には、阪急西宮スタジアムにて二軍戦を観戦していたが、そこで当時阪急ヘッドコーチの上田利治と知己を得る[11]。上田の監督就任に伴ってレストランを畳み、1974年から2年間(1974年は一軍、1975年は二軍)は阪急でコーチを務めた[14]

1976年コーチを辞して、以後も阪急・オリックスを通じて球団職員として勤務。ボビー・マルカーノブーマー・ウェルズなど外国人選手の通訳[15]1990年まで続ける[16]1991年からはファンサービス部に移り、試合前のスピードガンコンテストでは参加者にボールを渡しながら、独特のユーモア溢れるコメントで観客を沸かせた[6]。のち、オリックス・バファローズが運営する少年野球教室「オリックス・ベースボール・アカデミー」顧問。2005年にはNPB12球団ジュニアトーナメントにオリックスJr.監督として出場した。アレックス・カブレラのオリックス移籍後の2008年からは、カブレラの相談役として元気な姿を見せている[17]

現役中の1964年には渥美清主演の映画『続・拝啓天皇陛下様』に連合軍兵士の役で出演したほか、1967年には東宝映画『クレージーの怪盗ジバコ』にも名つきの役どころで出演。CMでは1977年ゼネラルのクーラー「ミンミン」であき竹城と共演している[15]1988年オフに広島東洋カープがキューバ遠征を行った際に、バルボンは通訳として同行し、30年ぶりに祖国の土を踏む。この遠征の様子がTBS系のテレビ局で2時間番組として放映されたが、このうち約1/3の時間を使ってバルボンの帰郷が取り上げられた[18]

2009年2010年にはオリックス・バファローズの試合終了後イベント『サラリーマンノック』のノッカーに選ばれる[19][20]2009年6月3日対中日戦時には22時20分の遅い試合終了に伴い午後11時という遅い時間からの開始にもかかわらず集まった約50人のサラリーマンに対してノックを行った。

2012年スターティングメンバー発表ムービーに出演。2014年5月1日にはサンテレビ開局45周年中継にゲスト出演[21]。その後も阪神甲子園球場京セラドーム大阪バックネット裏のスタンドでしばしば観戦する姿が見られた[16]

90歳の誕生日を迎える前日の2023年3月12日、急性肺炎のため、兵庫県西宮市内の病院で死去した。89歳没。訃報は同月17日、オリックス・バファローズより公表された[22][23]

人物

性格が明るく、「チコ」と呼ばれて親しまれた。名付け主は阪急時代のチームメイト河野旭輝との記述もあるが[24]、本人は「チームメイトが名前を言いにくそうだったので、自分からチコと呼ばせた」と語っている[25]

来日後のバルボンは、プレイスタイルはもちろん生活面も河野を手本としていた。本人は河野を「日本での恩人。ティーチャー」と尊敬していた[26]

バルボンは「日本は暖かい国。キューバと気候はあまり変わらない」という代理人の言葉を鵜呑みにして、半袖シャツ1枚で来日したところ、2月半ばに羽田空港に到着するとが降っていたという[6]。また、現在の日本球界のように通訳はいない上に、日本の生活に馴染むのに苦労しており、日本食も口に合わず唯一口に合ったチキンライスを毎日のように食べてしのいだ[24]。この他、すき焼きも好んでいたが、刺身寿司などの生魚はどうしてもだめだったという[25]

当初は3年で帰国しようと考えていたものの、祖国でキューバ革命が勃発。1960年暮れに一時帰国していたものの、年明け早々にアメリカとの国交断絶が起こり、急きょ日本へ戻る。以来、冷戦終結までの間帰国が困難になった[11]。本人によれば、結局1955年の来日後、キューバには1回しか帰っていないという[27]。唯一の帰国は、1988年広島東洋カープがキューバ野球の視察を行った際、監督である山本浩二がバルボンに声をかけ、特別通訳として同行させる計らいによって実現した[24][11]

半世紀以上も日本に在住し、非常に流暢でギャグも交えた関西弁を喋った[28](この為「関西人より関西弁に精通している」とまで評された)。日本語は西宮北口駅の駅員と仲良くなり会話するなどして覚えた[25]

通訳

通訳としては、あまりにアバウトに翻訳することでファンに愛され[29]、ヒーローインタビューの最初のコメントは、「ブーマー、うれしい、言うとるよ」というのがいわば決まり文句となっていた[30][31](ほか、「ブーマー、明日も打ちたい言うとるよ」[32]、「そうやね」[33]、「ええ当たりやった。あしたも頑張る言うとるよ」[29])。本人は、「今でも言われるわ。『お前、選手こんなこと言うとるのに、違うこと訳してんのちゃうか?』って。ハッハッハ」と振り返っている[34]

そのため、外国人選手が長く丁寧に答えれば答えるほど、ファンからはバルボンのアバウトすぎる翻訳に期待が高まった[33]。エピソードとして、ブーマーが自打球で骨折した際、いつもの癖で「ブーマー、うれしい、言うとるよ」と言ってしまい、慌てて「違う、違う。悲しい、言うとるよ」と訂正して爆笑を誘った例[30]、米国人コーチが日本語で「ミナサン、ヨロシクオネガイシマス」と挨拶したら、わざわざ「よろしく言うとるよ」と通訳した例[32]がある。

エピソード

阪急在籍時代初期、テレビで力道山の試合を見たバルボンは、チームメイトに「こういう素晴らしい試合のことを日本では八百長と言うんだ」と嘘の知識を教えられたが、バルボンは報道陣のいる前で「リキ、八百長」と言った。後日、これを伝え聞いた力道山本人が怒鳴り込んできて、バルボンは謝罪した(事の顛末を聞いた力道山はバルボンと和解)[25]。同じく阪急在籍時代初期、チームメイトから日本で挨拶する時は「あじゃぱぁ」(当時のタレント・伴淳三郎の流行語)と言うんだと、また嘘の知識を教えられた。「あじゃぱぁ」を様々な場面で披露したバルボンは受けが良く、喜ばれた。真相を知らないバルボンは、「日本にはなんて便利な挨拶があるんだ」と勘違いしていたという。上記のエピソードは引退後30年以上が経過してから、バルボンのことを特集したテレビ番組で明かされた。なお、この番組内で他の出演者から「悪い先輩もいたもんですねぇ」とのコメントがあり、バルボンは笑ってこれに同意した。

現役時代に、背番号を「8」から「4」に変更している。日本では本来、「4」は「死」に繋がると忌み嫌われる番号とされるが、母国・キューバでは逆に「8」が忌み嫌われる数字で逆に「4」が縁起が良い数字とされる[14]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1955阪急14165658310516323135227484914965602708.280.342.389.731
19561526715909414126862013155231236125778.239.314.341.655
19571225444797510216381483033156256016610.213.296.309.605
19581285715157613827104197323815624444646.268.329.383.712
19591325244816611211321352338117132235113.233.284.281.565
196011643338752871441112223211813413544.225.292.289.581
19611204193914184122010012207612001693.215.254.256.510
19621073333103674113310015146601304382.239.278.323.601
1963114327299266793391221410102304454.224.288.304.593
196496182172234951056104631600203.285.307.326.633
1965近鉄125494459501061221125151181002401548.231.271.272.543
通算:11年135351544666644112316652331492260308126741736992860869.241.299.320.619
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

NPB
  • 盗塁王:3回 (1958年 - 1960年) ※NPB外国人選手として史上2人目、複数回の獲得はNPB外国人選手史上初にして唯一
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1955年) ※1994年より表彰

表彰

NPB

記録

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 1000試合出場:1962年9月5日、対南海ホークス24回戦(大阪球場)、1番・二塁打で先発出場 ※史上76人目
  • 1000安打:1964年8月4日、対南海ホークス20回戦(阪急西宮球場)、5回裏にジョー・スタンカから中前安打 ※史上52人目
  • 300盗塁:1965年5月22日、対東京オリオンズ6回戦(西京極球場)、3回裏に二盗(投手:小山正明、捕手:醍醐猛夫) ※史上10人目
    • いずれの記録もNPB外国人選手史上初
NPBその他の記録

背番号

  • 8(1955年 - 1961年)
  • 4(1962年 - 1964年、1974年)
  • 14(1965年)
  • 73(1975年)

その他

映画

脚注

参考文献

  • 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年
  • 『助っ人列伝 プロ野球意外史』文藝春秋文春文庫ビジュアル版、1987年
  • 小川勝『プロ野球助っ人三国志』毎日新聞社、1994年

関連項目

外部リンク