ロドニー (戦艦)
ロドニー (英語: HMS Rodney, 29) は、イギリス海軍が海軍休日時代に建造した戦艦[注釈 1]。ネルソン級戦艦の2番艦[2][3]。艦名は[4]、ジョージ・ブリッジス・ロドニー提督に因む[5][注釈 2]。日本においては「ロドネー」[7][8][注釈 3][注釈 4]、「ロドネイ」[11][12][13][注釈 5]などの表記がある[注釈 6][注釈 7]。
ロドニー | |
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基本情報 | |
建造所 | キャメル・レアード社 バーケンヘッド造船所 |
運用者 | ![]() |
艦種 | 戦艦 |
級名 | ネルソン級戦艦 |
モットー | Non Generant Aquilae Columbas "Eagles do not breed doves" |
艦歴 | |
発注 | 1922年 |
起工 | 1922年12月28日 |
進水 | 1925年12月17日 |
就役 | 1927年11月10日 |
退役 | 1946年 |
除籍 | 1947年 |
その後 | 1948年3月28日にスクラップとして売却 |
要目 | |
基準排水量 | 33,950トン 36,000トン(1942年) |
満載排水量 | 38,000トン 43,140トン(1942年) |
全長 | 710 ft (216.5 m) |
最大幅 | 106 ft (32.3 m) |
吃水 | 33 ft (10 m) (1945年満載時:10.8 m) |
主缶 | アドミラリティ三胴式重油専焼水管缶8基 |
主機 | ブラウン・カーチス式ギヤード・タービン2基、2軸 |
出力 | 45,000hp |
速力 | 23.8 ノット (44.1 km/h)(公試) |
乗員 | 1,640名 |
兵装 | 竣工時 40.6cm45口径MkI3連装砲 3基 15.2cm50口径MkXXII連装砲 6基 10.2cm45口径MkXIV連装高角砲 4基 2ポンド8連装ポンポン砲 3基 12.7mm4連装機銃 2基 62.2 cm水中魚雷発射管 2門 カタパルト1基 〜1945年 40.6cm45口径MkI3連装砲 3基 15.2cm50口径MkXXII連装砲 6基 10.2cm45口径MkXIV連装高角砲 4基 2ポンド8連装ポンポン砲 6基 20mm連装機銃 5基 20mm単装機銃 58基 |
搭載機 | 竣工時 水偵 1機 〜1945年 無し |
レーダー | 竣工時 79Y型 2基 〜1945年 273R型 1基 281型 2基 282型 3基 283型 6基 284型 1基 285型 1基 |
概要
戦艦ロドニー (HMS Rodney, 29) は、第一次世界大戦後にイギリスがワシントン海軍軍縮条約にもとづいて建造した条約型戦艦[17][注釈 8]。ネルソン級戦艦の2番艦[18]。1927年(昭和2年)末に竣工した[4]。16インチ(40センチ砲)9門(三連装砲塔三基)を艦体の前方に集中させた特異な外観をもつ[注釈 9]。「世界一美しい軍艦」[20]「大英帝国の象徴」[21]と謳われた同世代の巡洋戦艦フッド (HMS Hood) にくらべ[22]、ネルソン級戦艦に対する美的評価は芳しくなかった[注釈 10]。
1939年(昭和14年)9月の第二次世界大戦勃発時、ネルソン級2隻は本国艦隊に所属しており、ドイツ海軍の通商破壊艦(ポケット戦艦、シャルンホルスト級)に備えた[24]。1940年(昭和15年)4月上旬から6月上旬にかけて、ノルウェーの戦いに参加した[25]。
1941年(昭和16年)3月16日、ロドニーはベルリン作戦に従事中の高速戦艦グナイゼナウと遭遇したが[26]、逃げられた[27]。同年5月下旬、ロドニーは機関修理のため輸送船護衛を兼ねてアメリカ合衆国に向かう途中[28]、ビスマルク追撃戦への参加を命じられる[29]。5月27日朝、僚艦と協力して戦艦ビスマルクを撃沈した[30](ビスマルク最期の戦闘)[注釈 11]。
ボストンで修理後[32]、H部隊に編入される。ネルソン級2隻は地中海戦線に投入され、ロドニーは修理期間を挟みつつ、マルタ島への輸送作戦に従事した[注釈 12]。1943年(昭和18年)9月のイタリア降伏で地中海戦線に区切りがつくと、イギリス本国に戻った。1944年(昭和19年)6月のノルマンディ上陸作戦支援をおこなう[35]。酷使されて老朽化が進んでいた本艦は[36]太平洋戦線に投入されず、間もなく予備艦になった[37]。1948年(昭和23年)2月に売却され、解体された。
艦歴
第二次世界大戦以前
ネルソン級戦艦は1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約下で建造された条約型戦艦である[注釈 13]。軍縮条約の既定により、排水量は35,000トンまで制限されていた[17]。また主砲の最大口径も16インチ(約40cm)に制限された[39]。3基の3連装16インチ砲塔は全て艦前方に配置され、副砲は艦後部に配置されている[40]。N3型戦艦 (N3-class battleship) やG3型巡洋戦艦 (G3-class battlecruiser) を縮小したような艦型であった[注釈 14]。魚雷発射管は艦首にある[19]。ヴァイタル・パートの集中化によって重防御を実現したものの[4]、速力を23ノットに抑えざるを得なかった[17]。このようなデザインは非常に斬新的で、列強各国の注目を集めた[注釈 15]。1936年以降に新世代の戦艦が就役するまでの海軍休日 (Naval Holiday) において、40cm砲を搭載したネルソン級2隻、長門型2隻[43][44]、コロラド級3隻[45]、合計7隻の超ド級戦艦は世界七大戦艦[19][注釈 16](或いはビッグ・セブン)と謳われた[47][48][注釈 17]。その中でも、G3型巡洋戦艦をベースにした最新のネルソン級2隻は最強と見做されていた[50][23]。
ロドニーは1922年(大正11年)12月28日、キャメル・レアード社バーケンヘッド造船所で起工した。アームストロング社で建造された姉妹艦のネルソンと、同日の起工であった。ロドニーは1925年(大正14年)12月17日、進水。命名式にはメアリー王女(プリンセス・ロイヤル)が立ち会った[注釈 18]。1927年(昭和2年)11月10日に就役した。建造費は7,617,000ポンドに上る。1929年(昭和4年)にはジョージ・キャンペル・ロス少佐(アーチボルド・ロス卿の息子)が艦長に就任した。
就役後は第二次世界大戦が勃発する1939年(昭和14年)9月まで本国艦隊及び大西洋艦隊で活動する。1931年(昭和6年)には乗員がネルソン乗員と共にインバーゴードン反乱に参加した。1937年(昭和12年)5月20日、イギリスはジョージ6世戴冠記念観艦式を実施[21]、ネルソン級2隻も参列した[注釈 19]。同年、イギリスはシンガポールを根拠地とする太平洋艦隊を新編することを検討し[注釈 20]、各艦隊から主力艦4隻(ロドニー、ロイヤル・サブリン、フッド、レパルス)や巡洋艦多数を引き抜いて極東に派遣する計画をたてたが、実現しなかった[注釈 21]。
第二次世界大戦
1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦が勃発したとき、ネルソン級戦艦2隻は本国艦隊(司令長官フォーブス提督)麾下の第2戦艦戦隊に所属していた[24]。エドワード・ネヴィル・サイフレットがロドニー艦長を務めていた。劣勢のドイツ海軍は[53]、ポケット戦艦や仮装巡洋艦を大西洋に放ち、通商破壊作戦を実施した[54]。11月23日[55]、大西洋に進出してきたシャルンホルスト級戦艦2隻が[56][注釈 22]、イギリス軍の補助巡洋艦(仮装巡洋艦)ラワルピンディ (HMS Rawalpindi) をフェロー諸島沖海戦で撃沈した[58][59]。イギリス海軍は敵艦をポケット戦艦ドイッチュラント (Deutschland) と判断する[注釈 23]。イギリス本土所在のネルソン級戦艦2隻[62]、巡洋戦艦ダンケルク(フランス海軍)[63]および巡洋戦艦フッドを出撃させると共に[64][65]、船団任務に従事中の戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) [66]や巡洋艦を[67]、敵通商破壊艦の捜索に投入した[68]。英海軍の大捜索は、空振りで終わった[69][注釈 24]。12月後半、ロドニーは操舵装置の問題を改修するためドック入りした[24]。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ae/HMS_Rodney_Aircraft.jpg/200px-HMS_Rodney_Aircraft.jpg)
1940年(昭和15年)4月初旬、イギリス軍もドイツ軍も中立国ノルウェーに注目していた[72]。ドイツ軍はヴェーザー演習作戦を発動し[73]、ノルウェーの戦いがはじまった[74]。イギリス軍もノルウェーへの機雷敷設と占領を計画してウィルフレッド作戦とR4計画を準備していたが、ドイツ軍に先を越された格好になった[75][76]。しかもノルウェーにむかうドイツ艦隊の行動を通商破壊作戦と判断し、対応が遅れた[77]。
4月9日、ノルウェーのカーモイにおいてドイツ軍機による攻撃を受け、500kg爆弾が直撃した[78]。爆弾は装甲甲板を貫通したものの、不発であった[34]。10日、本国艦隊司令長官フォーブス提督は戦艦3隻(ロドニー、ウォースパイト、ヴァリアント)、空母フューリアス (HMS Furious, 47) 、重巡3隻(ヨーク、デヴォンシャ―、バーウィック)などを直接指揮する[25]。本国艦隊主力艦は、ドイツ海軍の巡洋戦艦や重巡を撃沈できなかった[注釈 25]。
連合軍はナルヴィクで孤立したドイツ軍を撃滅するためノルウェーに上陸したが[81]、一進一退の戦いが続いた[82]。さらに欧州戦線ではフランスの降伏によりダンケルク撤退(ダイナモ作戦)をおこなうことになり[83]、ノルウェーからも撤退する[84][85]。6月上旬[86]、連合軍はアルファベット作戦を発動して撤退作戦をおこなうが、英空母グローリアス (HMS Glorious, 77) と駆逐艦2隻がユーノー作戦従事中のシャルンホルスト級戦艦2隻と遭遇し、撃沈されている[87](ノルウェー沖海戦)[88]。連合軍の撤退作戦そのものは成功した[89]。
同年9月13日[34]、ドイツ軍によるイギリス侵攻に備えて[90]、ロドニーはスカパ・フローからロスサイスに移動した。10月下旬、ポケット戦艦アドミラル・シェーア (Admiral Scheer) がドイツ本国を出発[91]、デンマーク海峡を突破して大西洋に進出し[92]、イギリス海軍の懸念材料となった[93]。11月15日、シェーアはHX84船団を襲い[94]、補助巡洋艦ジャーヴィス・ベイ (HMS Jervis Bay) と商船5隻を撃沈した[95][96]。イギリス海軍は、巡洋艦や駆逐艦のほかに主力艦5隻(ネルソン、ロドニー、フッド、レナウン、レパルス)をポケット戦艦捜索に駆り出した[97]。さらに、大西洋を横断する輸送船団に、護衛として戦艦1隻を付随させる方針が決まる[98]。英海軍は、ロドニーすら船団護衛任務に投入せざるを得なくなった[99]。11月から12月にかけて、イギリスとカナダ間の船団護衛任務に従事した。
1941年(昭和16年)1月下旬、ギュンター・リュッチェンス提督が指揮するシャルンホルスト級戦艦が、ベルリン作戦により大西洋へ乗り出した[100]。イギリス海軍は、またもやドイツ通商破壊艦の捜索に大艦隊を投入する[101]。その中に、ネルソン級2隻と最新鋭の戦艦キング・ジョージ5世 (HMS King George V) の姿もあった[27]。北大西洋で船団護衛中の3月16日、ロドニーはシャルンホルスト級戦艦2隻と遭遇する[102][103]。ロドニーは戦艦グナイゼナウ (DKM Gneisenau) に対し「艦名を知らせよ」と問いただした[104]。グナイゼナウ(リュッチェンス提督旗艦)が英軽巡エメラルド (HMS Emerald,D66) の識別番号を返信したので、ロドニーは砲撃を控えた[104]。この隙にグナイゼナウは最大速力を発揮して逃走し、23ノットしか発揮できないロドニーは追いつけなかった[注釈 26][注釈 27]。
ビスマルク追撃戦
1941年(昭和16年)5月、ハミルトン卿(ロドニー艦長)[109][注釈 28]の指揮下、ロドニーと駆逐艦複数隻はカナダへ向かう客船(兵員輸送艦)ブリタニック (RMS Britannic) の護衛を命じられる[111][注釈 29]。ロドニーは、ボストンで改修を受ける予定だった[112]。機関故障により片舷一軸推進となっていたロドニーは、早急な修理が必要であった[5]。さらに500名ほどの兵士と、アメリカ海軍の将校2名も乗せていた[5]。任務途中の5月24日、ロドニーはドイツ戦艦ビスマルク追撃戦への参加を命じられる[34][113]。リュッチェンス提督が指揮するドイツ軍艦2隻(ビスマルク、プリンツオイゲン)はデンマーク海峡海戦で巡洋戦艦フッド (HMS Hood) を撃沈してランスロット・ホランド中将を葬り、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ (HMS Prince of Wales) を撃破して後退させた[114][115]。ブリタニックの護衛に駆逐艦エスキモ-を分派し、ロドニーは駆逐艦3隻(ソマリ、タータ―、マショーナ)を引き連れてビスマルク迎撃にむかった[5]。ロドニーは「ビスマルクがフランスに向かっている」という想定で独自行動をとった[109]。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1d/Map_Rheinuebung.svg/220px-Map_Rheinuebung.svg.png)
ビスマルク追撃戦の最中、イギリス海軍軍令部はロドニーに対し、本国艦隊司令長官ジョン・トーヴィー大将が率いる本隊に合流するよう命じた[116]。5月26日、ロドニーは本国艦隊旗艦の戦艦キング・ジョージ5世 (HMS King George V) および護衛部隊と合流する[117]。駆逐艦は燃料が不足したため、トーヴィー提督はそれらに帰還を命じた[注釈 30]。このとき、もともと低速の上に機関故障を抱えていたロドニーは、キング・ジョージ5世が発揮する22ノットについてゆけなかった[119]。ビスマルクはイギリス艦隊の追跡を振り切りかけていたが、H部隊の空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) から発進したソードフイッシュの雷撃で舵を破壊され[120]、進退窮まった[121][122]。
5月27日朝、新鋭戦艦キング・ジョージ5世(トーヴィ―提督旗艦)、戦艦ロドニー、重巡洋艦ノーフォーク (HMS Norfolk, 78V) [注釈 31] 、重巡ドーセットシャー (HMS Dorsetshire, 40) はビスマルクと遭遇する[26][124]。ビスマルクは英国艦隊との砲戦序盤においてロドニーの砲撃により前部2基の主砲が1弾によって沈黙[125]、さらにノーフォークが放った1弾によって前部射撃指揮所を直撃され、射撃指揮ができなくなった。砲撃指揮を引き継いだ後部射撃指揮所は、目標をロドニーからキング・ジョージ五世に変更した[126]。それまでに、ビスマルクの主砲第三斉射がロドニーを夾叉し、断片が右舷の高角砲射撃方位盤室に被害を与えた[127]。またロドニー自身の主砲発射の衝撃で各部に損傷が生じ、甲板では漏水が始まって防水処置を行わねばならなくなった[32]。しかしトーヴィー戦隊は決定的な被害を受けることなく、各艦の砲撃はビスマルクの装備を破壊して抵抗手段を奪っていった[128]。火達磨のビスマルクに直撃弾は続き、1番砲塔が完全に破壊されてその破片が2番砲塔を破壊、ロドニーの16インチ砲弾が2番砲塔(ブルーノ)に再度命中し、砲塔後部を吹き飛ばした。復讐の念にかられた英国艦隊はこの後も砲撃と魚雷攻撃を続行し、最後はドーセットシャーによる雷撃によってビスマルクを撃沈した[129]。その後ロドニーは燃料切れにより戦場を離脱、ノーフォークなどと共にクライドに到着した[130]。
ビスマルクとの交戦において[131]、ロドニーはビスマルクの艦首をジグザグに横切りながら魚雷攻撃も行い、艦首水中発射管から24.5インチ魚雷を合計8本[注釈 32]発射してビスマルクの左舷中央部に1本の命中を観測した[134]。この雷撃は致命傷にはならなかったものの、作家のルドヴィック・ケネディによると、「もし本当ならば、史上唯一戦艦が他の艦を雷撃した例である」という[注釈 33][注釈 34]。
H部隊で
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/af/The_Royal_Navy_Off_the_Caen_Coast%2C_Normandy%2C_June_1944_A23961.jpg/200px-The_Royal_Navy_Off_the_Caen_Coast%2C_Normandy%2C_June_1944_A23961.jpg)
ビスマルク戦後、アメリカ合衆国のマサチューセッツ州ボストンで主機の修理を受ける[32]。9月にジブラルタルでH部隊 (Force H) に配属されたロドニーは、マルタ島への輸送船団を護衛する[34](ハルバード作戦)[33]。戦艦3隻(プリンス・オブ・ウェールズ、ネルソン、ロドニー)と空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) が参加する大規模輸送作戦であった[137][注釈 35]。イタリア艦隊との砲撃戦は実現しなかったが[33]、輸送作戦は成功し[138]、マルタは急速に立ち直った[139]。
11月に帰国し、一ヶ月間アイスランドに配置されて北極海の警備任務に従事した[34]。その後1942年(昭和17年)5月まで修理、改修が行われた[34]。作業完了後、ふたたび地中海戦線に派遣された[34]。マルタ島攻防戦で窮地に陥っていたイギリス軍は、ジブラルタルからマルタへむかう輸送船団を編成した[140][141]。ネルソン級2隻と空母3隻(ヴィクトリアス、インドミタブル、イーグル)などは、8月中旬のペデスタル作戦に参加した[142][143]。このペデスタル作戦以後、マルタ島の防備は盤石になった[144]。10月下旬、連合軍は第二次エル・アラメイン会戦でロンメル元帥が率いる枢軸軍に勝利する[145]。11月上旬、ロドニーはトーチ作戦に参加した[34]。
北アフリカ戦線で連合軍の優勢が明確になると、1943年(昭和18年)7月のハスキー作戦[146]にともなうシチリア島上陸、サレルノ上陸の支援を行う[注釈 36]。同年10月からは本国艦隊に所属し、1944年(昭和19年)6月にはノルマンディ上陸作戦に参加、カーンとオルダニー島への攻撃を行った。9月にはムルマンスクへの船団護衛任務に従事した[37]。
ロドニーは、1942年以降オーバーホールなしで156,000海里以上の距離を航海した。頻繁な機械故障および姉妹艦のネルソンとは異なり近代化が行われなかったこともあり、ロドニーはスカパ・フローで予備役となり、乗組員は新型艦に配属された[37]。なお1944年12月のクリスマス週間の食事メニューが残っている[注釈 37]。ロドニーは1948年(昭和23年)2月にスクラップとして売却されるまで同所で保管された。その後3月26日にインバーキーシングで解体が開始された。
主な活動
ノルウェー防衛戦
大西洋船団護衛
ビスマルク追撃作戦
地中海輸送掩護
北アフリカ
南イタリア
ノルマンディ上陸作戦など
ギャラリー
- マルタのヴァレッタ港にて。
(1943年撮影)
ロドニーのプラスチックモデルキット
- プラスチックモデル組み立てキット。ウォーターラインシリーズ[150]。
出典
注
脚注
参考文献
- 岡部, いさく 著、小川 光二 編『英国軍艦勇者列伝 Legend of British Fighting Ships』(初版)大日本絵画、東京都,千代田区、2012年6月。ISBN 9784499230865。
- 木俣滋郎『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN 978-4-7698-3017-7。
- (3) 英空母グロリアスの沈没/(10) グリーンランド沖の大捕物
- テオドール・クランケ、H・J・ブレネケ『ポケット戦艦 ― アドミラル・シェアの活躍 ―』伊藤哲 訳 (第11版)、早川書房〈ハヤカワ文庫ノンフィクション〉、1980年12月。ISBN 4-15-050066-5。
- エドウィン・グレイ『ヒトラーの戦艦 ドイツ戦艦7隻の栄光と悲劇』都島惟男 訳 、光人社〈光人社NF文庫〉、2002年4月。ISBN 4-7698-2341-X。
- ルードヴィック・ケネディ『戦艦ビスマルクの最期』内藤一郎 訳 、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1982年9月。ISBN 4-15-050082-7。
- ピーター・シャンクランド、アンソニー・ハンター「第2章 マルタ島の苦境」『マルタ島攻防戦』杉野茂 訳 、朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1986年12月。ISBN 4-257-17078-6。
- 世界の艦船増刊第67集
- 編集人 高田泰光『世界の艦船 2015.12、NO.826 ビッグ7 条約時代最強の日米英7大戦艦』株式会社海人社〈2015年12月号(通巻826集)〉、2015年10月。
- 永井喜之、木俣滋郎『撃沈戦記』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8。
- 第2部 第二次大戦 ― 外国編/1.イギリス仮装巡洋艦「ラワルピンディ」/2.イギリス駆逐艦「グロウウォーム」/7.イギリス巡洋戦艦「フッド」
- V.E.タラント『戦艦ウォースパイト 第二次大戦で最も活躍した戦艦』井原祐司 訳 、光人社、1998年11月。ISBN 4-906631-38-X。
- リチャード・ハンブル『壮烈!ドイツ艦隊 悲劇の戦艦「ビスマルク」』実松譲 訳 、サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫 26〉、1985年12月。ISBN 4-383-02445-9。
- 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第一巻 日本戦艦物語〔Ⅰ〕』光人社、1992年5月。ISBN 4-7698-0607-8。
- 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『新装版 福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第六巻 世界戦艦物語』光人社、2009年3月。ISBN 978-4-7698-1426-9。
- カーユス・ベッカー『呪われた海 ドイツ海軍戦闘記録』松谷健二 訳 、フジ出版社、1973年7月。
- ジョン・ディーン・ポター『高速戦艦脱出せよ!』内藤一郎 訳 (第5版)、早川書房〈ハヤカワ文庫ノンフィクション〉、1977年4月。
- M・ミドルブック、P・マーニー『戦艦 ― マレー沖海戦 ―』内藤一郎 訳 、早川書房、1979年6月。
- 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1。
- ミリタリー・クラシックス編集部、執筆(松代守弘、瀬戸利春、福田誠、伊藤龍太郎)、図面作成(田村紀雄、こがしゅうと、多田圭一)「第三章 イギリスの戦艦」『第二次大戦 世界の戦艦』イカロス出版〈ミリタリー選書6〉、2005年9月。ISBN 4-87149-719-4。
- 歴史群像編集部『ミリタリー・戦史 Magazine 歴史群像 2016年2月号(第25巻第1号、通巻135号) ●巡洋戦艦から戦艦、そして高速戦艦へ戦艦『金剛』の生涯 』株式会社 学研プラス、2016年1月。
- (32頁)文・調理・撮影=水梨由佳「再現!軍艦グルメ 戦士の食卓 Table30 1944年12月、スカパ・フローで供されたイギリス海軍戦艦『ロドニー』のクリスマスディナー」
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
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