ユッスー・ンドゥール

セネガルの歌手、作曲家、政治家(1959年生まれ)

ユッスー・ンドゥール(Youssou N'Dour, 1959年10月1日 - )は、セネガル歌手[1]

ユッスー・ンドゥール
ユッスー・ンドゥール(2011年)
基本情報
出生名Youssou N'Dour
生誕 (1959-10-01) 1959年10月1日(64歳)
出身地セネガルの旗 セネガル ダカール
ジャンルンバラ
ワールドミュージック
ポップ
職業歌手パーカッショニスト
活動期間1970年代 - 現在

セネガルの伝統音楽に、さまざまな民族音楽や欧米のポップ・ミュージックのエッセンスを取り入れ、独自の音楽世界を展開している同国音楽界の大御所。セネガルの楽器ジャンベを用いた伝統音楽から、カリブ音楽やその他様々なジャンルの音楽を融合したンバラという音楽ジャンルを確立した[2]。2004年、米国の『ローリング・ストーン』誌は、「アフリカにおいて存命する最も著名な音楽家であろう」と評した[3]。これまで20年以上に渡り、自身のバンドシュペール・エトワール・ドゥ・ダカール英語版 (Super Étoile de Dakar) と共に活動を続けている。

経歴

2008年、トロント国際映画祭にて

1959年ダカールで出生。西アフリカの代表的な民族であるセレール族出身で、古くから伝わる音楽や思想を伝承する「グリオ」(語り部)の家系に生まれ育った。10代から音楽活動を始め、12歳から数年間は、1970年代初頭のダカールで最も人気があったスター・バンド (Star Band) で活躍した。1979年エトワール・ドゥ・ダカール英語版 (Étoile de Dakar) を結成。1980年頃からアフリカの隣国やフランスなどへのツアーやレコーディングを開始。1982年にシュペール・エトワール・ドゥ・ダカールを結成。1980年代に入ると、1982年に英ヴァージン・レコードと契約し、ピーター・ガブリエルと出会い、ライヴや彼のアルバム『So』(1986年)での共演を機に注目を集めるようになった。1986年にアルバム『ネルソン・マンデーラ』を発表。『ザ・ライオン』(1989年)や『セット』(1990年)はヴァージン傘下のガブリエルが関わっているリアル・ワールド・レコードからのリリースとなった。また、ポール・サイモンスティングなど有名ミュージシャンとの共演で、世界的アーティストとしての地位を確立した。

1992年には、映画監督スパイク・リーがソニー傘下で設立したレーベル「40エイカーズ&ア・ミュール・ミュージック・ワークス」に移籍し、『アイズ・オープン』をリリース[4]。同アルバムは、ンドゥールにとって初めてのグラミー賞の候補作品となった[4]。1994年に発表した『ザ・ガイド』、2000年に発表した『ジョコ』、2002年に発表した『ナッシングス・イン・ヴェイン』についてもグラミー賞の候補作品となった[5][6][7]

1994年、ネナ・チェリーと共演したシングル「7 Seconds」は、全仏チャート(SNEP)とスイス・チャートで第1位[8]、全英チャート(Music Week)第3位を記録した[9]。同曲は、MTV・ヨーロッパ・ミュージック・アワードにおいて"Best Song"(最優秀楽曲賞)を受賞している[10]

1998年、ワールドカップ・サッカー・フランス大会の公式アンセム「勇者たちの庭」(La Cour des Grands) を制作したほか、同年、アニメーション映画『キリクと魔女』の映画音楽を手掛け[11]、日本でも2003年夏にスタジオジブリ配給で公開された。日本ではさらに「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」がホンダ・ステップワゴンのTV-CMソング[12]や『笑う犬の発見』のオープニングテーマに起用された。

2003年、反戦の意を込め、全米ツアーをキャンセルした。2004年、アルバム『エジプト』で第47回グラミー賞のベスト・コンテンポラリー・ワールドミュージック・アルバム部門で受賞[13]2006年ワールドカップ・サッカー・ドイツ大会ではファイナル前イベントのプロデュースを行った。同年夏には、〈東京の夏〉音楽祭にてンドゥールとシュペール・エトワール・ドゥ・ダカールによるフルステージ日本公演が10年ぶりに開催された。2007年に発表したアルバム『ロック・ミー・ロッカ』はローリング・ストーン誌選定の2007年ベストアルバムの30位に選ばれている。

2011年11月より政治活動に専念するため音楽活動を停止し、当時のセネガル大統領アブドゥライ・ワッド批判の急先鋒に立った[1]。自ら大統領選に立候補を申請したが署名数が足りず申請を却下され[1]、ワッドの対立候補で元首相のマッキー・サルを支援する立場に回った。ワッドが選挙に敗れた場合には音楽活動に復帰すると発表した[1]。結果、サルが大統領選に勝利し、ンドゥールは2012年4月にセネガルの文化観光大臣に任命された[14]。2013年9月2日、女性首相アミナタ・トゥーレ英語版の新内閣発足時に、ンドゥールは大臣から解任された[15]。その代わり、サル大統領から国家を宣伝する大臣格の特別顧問に任命された[16][17]

大臣をやめて音楽界に復帰したンドゥールは、2013年に音楽界のノーベル賞ことポーラー音楽賞英語版を受賞した[18]。2017年には7年ぶりにインターナショナル・アルバム『アフリカ Rekk』を発表すると、同年9月12日には日本の高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した[19][20]

評価

スティーヴィー・ワンダーDREAMS COME TRUE[21]坂本龍一[22]の作品に参加したこともある。LIVE 8などのチャリティー企画への参加、ユニセフ親善大使としての活動など、音楽を通じて社会に関わる姿勢は「歌うジャーナリスト」とも称される。2007年には、アメリカの『タイム』誌による世界で最も影響力のある100人に選ばれた[23]

ディスコグラフィ

アルバム

原題日本語題備考
1984Bitim Rew
1986Nelson Mandelaネルソン・マンデーラ
1988Immigrés
1989The Lionザ・ライオン
1990Setセット
1992Eyes Openアイズ・オープン第35回グラミー賞最優秀ワールドミュージック・アルバム賞ノミネート
1994Guide (Wommat)ザ・ガイド第37回グラミー賞最優秀ワールドミュージック・アルバム賞ノミネート
1996Djamil
1997Inedits 84-85
1999Special Fin D'annee Plus
2000Lii
2000Joko: The Linkジョコ第43回グラミー賞最優秀ワールドミュージック・アルバム賞ノミネート
2000Rewmi
2000Le Grand Bal
2000St. Louis
2001Le Grand Bal a Bercy
2002Ba Tay
2002Nothing's In Vainナッシングス・イン・ヴェイン第45回グラミー賞最優秀コンテンポラリー・ワールドミュージック・アルバム賞ノミネート
2002Youssou N'Dour and His Friends
2004Kirikouキリクと魔女
2004Egyptエジプト第46回グラミー賞最優秀コンテンポラリー・ワールドミュージック・アルバム賞受賞
2007Rokku Mi Rokkaロック・ミー・ロッカローリング・ストーン誌選定の2007年ベスト50アルバム30位
2009Special Fin D'annee : Salegne-Salegne
2010Dakar - Kingston
2011Mbalakh Dafay Wakh
2014Fatteliku
2016#Senegaal Rek
2016Africa Rekkアフリカ Rekk
2017Seeni Valeurs

ベスト盤

原題日本語題備考
1995The Best of Youssou N'Dourベスト
1997Immigrés/Bitim Rewイミグレ
1998Best of the 80'sベスト・オブ80's
1998Hey You: The Essential Collection 1988–1990
2001Birth of a Star
2002Rough Guide to Youssou N'Dour & Etoile de Dakarラフ・ガイド・トゥ ユッスー・ンドゥール&エトワール・ドゥ・ダカール
20047 Seconds: The Best of Youssou N'Dour (Remastered)7セカンズ:ベスト・オブ・ユッスー・ンドゥール

シングル

タイトル順位アルバム

Hot 100

モダン・ロック

メインストリーム・
ロック

シングル

シングル

シングル

シングル
1989"Shaking the Tree"-# 9-----『ザ・ライオン』より。
1994"7 Seconds"#98--# 3# 8--ネナ・チェリーとのデュエット。
2002"So Many Men"-----# 15-『ナッシングス・イン・ヴェイン』より。パスカル・オビスポとのデュエット。

脚注

外部リンク