メリー喜多川

日本の女性実業家、芸能プロモーター (1927-2021)

メリー 喜多川(メリー きたがわ、Mary Y. Kitagawa、本名:藤島メリー泰子〈ふじしま メリー やすこ〉、1927年昭和2年〉12月26日[1] - 2021年令和3年〉8月14日)は、日本実業家、芸能プロモーター。ジャニーズ事務所名誉会長、レコード会社「ジャニーズ・エンタテイメント」の代表取締役社長を務めた。愛称は「メリーさん」。

メリー 喜多川
生誕 (1927-12-26) 1927年12月26日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
死没 (2021-08-14) 2021年8月14日(93歳没)
日本の旗 日本 東京都
出身校ロサンゼルス・シティー・カレッジ
職業実業家
配偶者藤島泰輔
子供藤島ジュリー景子
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3人姉弟の長女で(4人兄弟説もあり)[要出典]、末弟はジャニーズ事務所の創業者のジャニー喜多川であり、長弟の喜多川真一はNASAの関連会社で働いていたが1980年代に50代半ばで[要出典]死去している[2]

略歴

生い立ち

リトル・トーキョーにある高野山真言宗米国別院の僧侶・喜多川諦道の長女として、1927年12月26日アメリカロサンゼルスに生まれる。父は1946年2月から1948年2月まで、プロ野球チーム「ゴールドスター[注 1]」のマネージャーだった。

1933年、喜多川一家(父、母、ジャニー喜多川を含む弟2人)は日本に渡り、大阪市で暮らした。間もなくして母親が死去。やがて第二次世界大戦が始まると、子供たちだけで和歌山県東牟婁郡那智勝浦町疎開した。その後メリーは知り合いのつてで大阪松竹少女歌劇団に顔を出すようになり、戦後に劇団が駐留軍で慰問公演を行う際には通訳も務めた。

1947年、弟2人とともに再渡米。ロサンゼルス・シティー・カレッジ[注 2]を卒業。そして弟のジャニーは1952年に、メリーは1957年に日本に再帰国した。

実業家として

1950年代後半、四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角にてカウンターバー「スポット」を開業し、事業家の道へ。このバーの客だった東京新聞記者(のちに作家)の藤島泰輔との間に藤島ジュリー景子をもうける。

末弟のジャニーが1962年6月に芸能事務所ジャニーズ事務所」を興すと、メリーもバーを閉店して事務所の経理を担当するようになった。 また、フォーリーブスのスタイリストなども受け持った。ジャニーズ事務所副社長時代は、タレントの扱いやショーのプロデュースをする弟・ジャニーに代わり、会社経営の全般を取りしきっていた。

ジャニーズのタレントが舞台上で素早く衣装を変える『早着替え』に使われる『早変わり衣装』の実用新案を1976年に出願している。

2011年中国温家宝国務院総理の要請で実現した北京公演のために訪中したSMAPが、人民大会堂で対日外交担当者の唐家璇と会見した際には、飯島三智とともにメリーも立ち会った[3]

晩年・死去

長年ジャニーズ事務所副社長を務めていたが、2019年7月にジャニーが亡くなったことを受け、同年9月27日付の役員人事にてジャニーズ事務所代表取締役会長に就任した[4]

2020年9月4日付で代表取締役会長を退任し名誉会長となる[5][6]

2021年8月14日午前7時35分、肺炎のため東京都内の病院で死去[7][8]。93歳没。墓は弟のジャニーと同じ和歌山県伊都郡高野町高野山にある[9]

人物

  • ジャニーとともに多くのタレントを育て上げた反面、事務所の方針・決定に従わない所属タレントや不祥事を起こした所属タレントを厳罰に処するなど、企業人および芸能プロモーターとして厳しい側面も持つ。彼女と悶着を起こした元所属者として、元SMAP森且行、元男闘呼組高橋和也などがいる。
  • 芸能を祀ることで知られる豊川稲荷東京別院を古くから贔屓にしており、その豊川稲荷の名から引用して、豊川誕に芸名を命名した[10]
  • 没後に『女帝メリー喜多川』(小菅宏、青志社、2022年4月)が出版。著者は集英社の元・芸能誌編集者。
  • ジャニーズ事務所が設置した外部の専門家で構成されたジャニー喜多川による性的虐待に関する調査チームは、2023年8月29日の会見で、被害の拡大を招いた最大の要因がメリー喜多川にあると指摘した[11]。メリー喜多川の弟であるジャニー喜多川はデビュー前の多数の10代を中心とする少年たちに長期間・広範に性加害を繰り返していたが、メリー喜多川はジャニー喜多川の性加害を知りながらも問題を放置し、外部に対して隠蔽していたとされる[11]

脚注

注釈

出典