ミチェル

スペインのサッカー選手、監督

ミチェル (Michel) こと、ホセ・ミゲル・ゴンサレス・マルティン・デル・カンポ(José Miguel González Martín del Campo, 1963年3月23日 - )は、スペインマドリード出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代はスペイン代表で、ポジションはミッドフィールダーRMF)、フォワードRWG[1]

ミチェル
名前
本名ホセ・ミゲル・ゴンサレス・マルティン・デル・カンポ
José Miguel González Martín del Campo
愛称El Guapo (美男子)
ラテン文字MÍCHEL
基本情報
国籍スペインの旗 スペイン
生年月日 (1963-03-23) 1963年3月23日(61歳)
出身地マドリード
身長182cm
体重77kg
選手情報
ポジションMFRMF[1]
FWRWG[1]
利き足右足
クラブ1
クラブ出場(得点)
1981-1984スペインの旗 R・マドリードB 108 (25)
1982-1996スペインの旗 R・マドリード 404 (97)
1996-1997メキシコの旗 セラヤ 34 (9)
通算546 (131)
代表歴
1980スペインの旗 スペイン U-163 (0)
1980-1981スペインの旗 スペイン U-1821 (11)
1983-1984スペインの旗 スペイン U-217 (1)
1984スペインの旗 スペイン アマチュア1 (0)
1985-1992スペインの旗 スペイン66 (21)
監督歴
2005-2006スペインの旗 ラーヨ・バジェカーノ
2006-2008スペインの旗 R・マドリードB
2009-2011スペインの旗 ヘタフェ
2012-2013スペインの旗 セビージャ
2013-2015ギリシャの旗 オリンピアコス
2015-2016フランスの旗 マルセイユ
2017-2018スペインの旗 マラガ
2019-2020メキシコの旗 UNAM
2021スペインの旗 ヘタフェ
2022-ギリシャの旗 オリンピアコス
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

クロスの精度や決定力などが持ち味であった[2]。10年以上に渡ってレアル・マドリードに在籍し、数々のタイトルを獲得している。スペイン代表としては66試合に出場して21得点を挙げ、2度のFIFAワールドカップと1度のUEFA欧州選手権に出場した。現役引退後は指導者としての道を歩んでいる。

父親もサッカー選手であったが、道路事故により27歳での現役引退を余儀なくされた。息子のアドリアン・ゴンサレスもサッカー選手である。

経歴

選手時代

クラブ

1976年、13歳の時にレアル・マドリードの下部組織に入団し[3]、技術やフィジカル能力などから目立つ存在となった。1981年にレアル・マドリード・カスティージャに昇格し、19歳になってすぐの1982年4月11日、CDカステリョン戦でトップチームデビューした。しかし以降は出場機会が与えられることはなく、カスティージャでプレーを続けた。21歳だった1983-84シーズンにはセグンダ・ディビシオン(2部)優勝を果たし[3]、ミチェル、エミリオ・ブトラゲーニョマヌエル・サンチスマルティン・バスケスミゲル・パルデサらはキンタ・デル・ブイトレ(ハゲワシ部隊)と呼ばれた。その他のメンバーとともにトップチームに昇格すると、1985-86シーズンから1993-94シーズンの間は常にリーグ戦31試合以上に出場した。1984-85シーズンはUEFAカップ決勝でヴィデオトンFCと対戦し、先制点を挙げて優勝に貢献した[3]。1985-86シーズンにはUEFAカップ2連覇を果たし、自身初のリーグタイトルを獲得した。リーグ戦ではこのシーズンから5連覇し、コパ・デル・レイでもたびたび優勝するなど、クラブの黄金期の中心メンバーとして歴史に名を残した。UEFAチャンピオンズカップの優勝はならなかったが、獲得したタイトルは16にも及んだ。

1989年にはイタリアのクラブと契約してスペインを去る可能性があると発表したが、1996年までレアル・マドリードに在籍した。1994-95シーズンには深刻な膝の負傷に苦しみ、リーグ優勝したシーズンのほとんどの期間を欠場した[3]。1995-96シーズンには回復し、ホルヘ・バルダーノ監督の下で満足なシーズンを送ったが、ロレンソ・サンス会長が就任した1996年夏、ブトラゲーニョがプレーしていたメキシコアトレティコ・セラヤスペイン語版に移籍した。1997年に現役引退した[2]。このようにミチェルは輝かしいキャリアを送ったが、彼の経歴には常に事件が付きまとった。1988年には試合中に投げられた瓶が頭に直撃したし、1992年にはレアル・バリャドリード戦中に非倫理的な方法でカルロス・バルデラマの集中を妨げたとして欧州サッカー連盟 (UEFA) から制裁措置を受けた[4]

代表

世代別スペイン代表で活躍し、U-18スペイン代表としては21試合に出場して11得点を挙げた[2]。1985年11月20日のオーストリア戦でスペイン代表デビューし、1986年にメキシコで開催された1986 FIFAワールドカップでは5試合に出場した。1988年に西ドイツで開催されたUEFA欧州選手権1988では3試合に出場して1得点した。1990年にイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップでは、グループリーグ2戦目の韓国戦 (3-1) でハットトリックを達成し、3戦目のベルギー戦ではペナルティキックを決めた。1992年にハビエル・クレメンテ監督が就任すると余剰戦力とみなされ、代表に招集されることはなくなった。最後に出場した時はまだ20歳代であった。

指導者時代

レアル・マドリードに所属していた1994年には1994 FIFAワールドカップの解説を務め、現役引退後は本格的にスペイン国営放送 (TVE) の解説者の仕事を、またマルカ紙のコラムニストを務めた[3]。2005年夏にはセグンダ・ディビシオンB(3部)のラーヨ・バジェカーノの監督に就任し、1シーズン指揮した。2006年夏にはシウダード・レアル・マドリードのディレクターに就任、カンテラの総責任者となるとともにセグンダ・ディビシオン(2部)のレアル・マドリード・カスティージャの監督も務め、息子のアドリアンも指導した[5]。しかしカスティージャは2006-07シーズン終了後にセグンダ・ディビシオンBに降格し、ミチェルは監督を解任された。2008年12月、ラモン・カルデロン会長との意見の相違から、「(このクラブは)優秀なカンテラ選手を起用せず、他から選手を買うことしか考えていない」と言い残してディレクター職からも辞任した[6]

2009年4月27日、ビクトル・ムニョスの後任としてリーグ戦で苦戦するヘタフェCFの監督に就任した[7]。契約はシーズン終了までであり、再びアドリアンのチームの指揮官となった。18位で降格したレアル・ベティスと勝ち点差なしでの残留を果たし、シーズン終了後に2011年までの2年間の契約延長を勝ち取った。2009-10シーズンはヘタフェをクラブ史上最高の6位[8] に躍進してUEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得したが、2010-11シーズンは16位と低迷し、シーズン終了後の2011年5月に解任された[9]

2012年2月6日にマルセリーノ・ガルシア・トラルの後任としてセビージャFCの監督に就任した[10]。2011-12シーズン9位で終わったチームの欧州カップ戦の出場権獲得を託されたが、直近のリーグ戦では11試合でわずか2勝と振るわず責任を負わされる形で2013年1月に解任される[8]

2013年2月からギリシャのオリンピアコスFCと2年半契約を結ぶ[11]。指揮官に就任すると、すぐさまチームをリーグとカップの2冠に導く。2013-14シーズンにはリーグ連覇を達成するとともに、UEFAチャンピオンズリーグ 2013-14で4シーズンぶりとなる決勝トーナメント進出へ導いた[12]。しかし、クラブオーナーがチームのプレー内容に不満を感じていたとも伝えられ、MFイブラヒム・アフェレイとの衝突など、チームの統制を失いつつあったところで2015年1月に解任された[13]。その後、アギーレ監督解任後の日本代表監督選定の中で候補者の1人して報道されることもあった[14]

マルセロ・ビエルサ前監督がリーグ・アン2015-16開幕節となったカーン戦後の会見で突然の辞任を発表後話題となった後任監督選びだが2015年8月その後任としてマルセイユの監督に就任[15]。しかし2016年4月19日、リーグ戦で15位(第34節時点)という低迷ぶりからクラブから解任が発表された[16]

2017年3月7日、マラガCFの監督就任が発表された。契約期間は2017-2018シーズンまで[17]。しかし2018年1月13日に解任された。

2019年5月20日、リーガMXUNAMプーマス監督に就任。

2021年5月26日、ホセ・ボルダラスの後任として再びヘタフェCF監督に就任したが[18]、2021-22シーズンのラ・リーガで8節時点で勝ち点1の最下位と極度の不振に陥ったことから10月4日に解任された[19]

タイトル

選手時代

レアル・マドリード
個人

指導者時代

オリンピアコスFC

個人成績

クラブでの出場記録


クラブ成績リーグカップ通算
シーズンクラブリーグ出場得点出場得点出場得点
スペインリーグ国王杯通算
1984-85レアル・マドリードリーガ・エスパニョーラ26282437
1985-8631750489
1986-8744560585
1987-883514715019
1988-8936131025115
1989-90378604610
1990-91368414610
1991-923811635416
1992-93379615113
1993-943711414714
1994-9513200182
1995-9633611428
メキシコリーグカップ通算
1996アトレティコ・セラヤメキシカン・リーグ176
1997173
通算スペイン403966312554128
メキシコ349
総通算437105

代表での得点

#日時場所相手スコア結果大会
1.1985年12月18日 バレンシア ブルガリア1-02-0親善試合
2.1986年11月12日 セビージャ ルーマニア1-01-0UEFA欧州選手権1988予選
3.1987年10月14日 セビージャ オーストリア1-02-0UEFA欧州選手権1988予選
4.1987年11月18日 セビージャ アルバニア3-05-0UEFA欧州選手権1988予選
5.1988年6月11日 ハノーファー デンマーク0-12-3UEFA欧州選手権1988
6.1988年9月14日 オビエド ユーゴスラビア1-01-2親善試合
7.1988年12月21日 セビージャ 北アイルランド3-04-01990 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
8.1989年1月22日 タカリ マルタ0-10-21990 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
9.1989年3月23日 セビージャ マルタ1-04-01990 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
10.2-0
11.1989年9月20日 ア・コルーニャ ポーランド1-01-0親善試合
12.1989年11月11日 ブダペスト ハンガリー0-22-21990 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
13.1989年12月13日 サンタ・クルス・デ・テネリフェ スイス1-02-1親善試合
14.1990年6月17日 ウーディネ 韓国1-03-11990 FIFAワールドカップ
15.2-1
16.3-1
17.1990年6月21日 ヴェローナ ベルギー0-11-21990 FIFAワールドカップ
18.1990年9月12日 ヒホン ブラジル3-03-0親善試合
19.1991年11月13日 セビージャ チェコスロバキア2-12-1UEFA EURO '92予選
20.1992年4月22日 セビージャ アルバニア1-03-01994 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
21.2-0

脚注

外部リンク