マイク・スウィーニー

マイケル・ジョン・スウィーニーMichael John "Mike" Sweeney, 1973年7月22日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州オレンジ出身の元MLBプロ野球選手指名打者一塁手)。

マイク・スウィーニー
Mike Sweeney
基本情報
国籍アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地アメリカ合衆国 カリフォルニア州オレンジ
生年月日 (1973-07-22) 1973年7月22日(50歳)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
225 lb =約102.1 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション指名打者一塁手
プロ入り1991年 ドラフト10巡目
初出場1995年9月14日
最終出場2010年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

デビューから2007年までロイヤルズ一筋で、チームの看板選手として活躍した。

略歴

高校時代から強打の捕手として活躍し、1991年、ドラフト10巡目でカンザスシティ・ロイヤルズに捕手として入団。

1995年9月14日にメジャーデビュー。結局その年は4試合のみの出場だったが、シーズン最終戦で初安打を放っている。

1996年はマイナーリーグからのスタートとなったが、オールスター明けに再びメジャーに昇格。7月18日に捕手として初のスタメン出場を果たし、8月12日のマリナーズ戦でジェイミー・モイヤーから初本塁打を放った。最終的に打率.279、4本塁打、24打点とまずまずの成績を残した。

1997年は開幕ロースターから外れ、メジャーとマイナーを往復する時期が続いた。

1998年までは強打の捕手マイク・マクファーレンが在籍していたためレギュラーを確保することが出来ずに、何回かトレードされそうにもなった[1]

開花できずにいたスウィーニーだったが1999年の5月に正一塁手のジェフ・キングが突如引退を表明したため、その穴埋めとして一塁手へコンバートされた。守備の負担が軽くなったことで打撃成績も上昇し、7月18日から8月13日にかけて球団歴代3位の25試合連続ヒットを記録。最終的に打率.322、22本塁打、102打点とチームトップの成績を残し、チームの中心選手となった。

2000年も好調を維持し、206安打、打率.333、29本塁打、球団新記録となる144打点(リーグ2位)といずれも前年以上の成績を残すと共に、その年のオールスターにも初選出された。

2001年は6月に打率.392、11本塁打、29打点を記録し、プレイヤー・オブ・ザ・マンスに初選出された。8月10日のデトロイト・タイガース戦ではマウンドのジェフ・ウィーバーから吐きかけられた言葉に激怒してウィーバーに殴りかかる乱闘騒ぎを起こし、自身初の退場処分を受けている。

2002年は自己最高となる打率.340(リーグ2位)を記録。シーズン終了間際まで首位打者を争っていたが、最後の4試合で16打数2安打に終わり、マニー・ラミレス(.349)にタイトルを奪われた。

2003年まで4年連続でオールスターにも選出された。しかしこの頃から腰の故障に悩まされ、シーズンを通しての出場が困難となった。それでも2003年から2005年にかけては打率.300前後、20本塁打前後、80打点前後の成績を残している。

2006年は開幕直後から故障に悩まされ、5月初旬から8月初旬までの3カ月ほど戦線を離れた。復帰後は調子を取り戻したが、終わってみれば60試合の出場で打率.258、8本塁打、33打点という成績だった。2007年もシーズン半ばで故障し、打率.260、7本塁打、38打点と満足のいく成績を残せなかった。

2008年オークランド・アスレチックスとマイナー契約を結び、招待選手としてキャンプに参加したが、3月24日に正式契約しロースター枠に入った。指名打者として左打ちのジャック・カストと併用される予定であった。5月19日に左ヒザ痛のためDL入り。左ヒザの軟骨に穴を開ける手術を勧められたものの、復帰まで約半年間かかるために拒否。そのため、内視鏡手術を受ける。9月4日に戦線復帰を果たした。しかし、同年9月9日に戦力外通告を受けた。9月14日には、キャットフィッシュ・ハンター賞を受賞。

2009年1月29日、アスレチックス時代のベンチコーチだったドン・ワカマツが監督に就任したシアトル・マリナーズとマイナー契約。開幕ロースター入りし、5月3日のアスレチックス戦で通算200号本塁打を達成した。

2011年3月25日、現役引退を表明。翌3月26日に古巣ロイヤルズと1日契約を結び、引退セレモニーを行った。また、3月31日のシーズン開幕戦では始球式を務めた。(この時の捕手は同じくロイヤルズの看板選手だったジョージ・ブレット)

人物

スペイン語が堪能で、中米出身の選手ともよくコミュニケーションをとる。また、一塁の守備についている際にも、相手の選手とよく談笑している[2]。2003・2004年にはスポーティングニューズ誌からグッドガイに選出されるなど“良い人”として知られる。ロイヤルズ時代にはキャプテンも務めた。敬虔なカトリック教徒であり、CACの役員も務めている[3]

2002年に往年のヤンキースの三塁手グレイグ・ネトルズの弟で南海ホークスでもプレー経験がある元メジャー選手ジム・ネトルズの娘と結婚し、2男1女を授かっている[4]。また、妻と共にスウィーニー家族財団で様々な慈善活動を行っている。

2007年シーズン最終戦の前日である9月29日、彼は地元紙カンザスシティ・スター紙に、地元ファン、チーム、選手達への感謝をこめた全面広告を載せた[1]。翌日30日の対クリーブランド・インディアンス戦には、久々に一塁を守り4番で出場。1回の第一打席をファンはスタンディングオベーションでむかえた[1]。第二打席でもプレーが遅れるほど鳴り止まず、7回に退いた際にも3回目のスタンディングオベーションが起こり、彼はダッグアウトから出てそれに応えた。最後のロイヤルズ選手としての試合は3打数ノーヒットであった[5]

なお、パドレスなどでプレーしたマーク・スウィーニーとは縁戚関係にない。

選手としての特徴

積極的で初球打ちを好んだ。選球眼が良く、外角の変化球に惑わされて三振することは少なかった。勝負強いバッティングと右方向への強い打球が特徴で、内角をさばくのも上手かった。健康であれば手ごわい打者であったが、背中の怪我に悩まされていた[6][7]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1995KC4441100010000000000.250.250.250.500
19965019016523461004682412031804217.279.358.412.770
1997842662403058807873132121706338.242.306.363.669
199892311282327318081153523212412387.259.320.408.728
1999150643575101185442222991026104540104821.322.387.520.907
20001597176181052063002932314483013715156715.333.407.523.930
200114763255997170460293039910316641326413.304.374.542.916
2002126545471811603112426586970761106469.340.417.563.980
2003108463392621152811618383320564525613.293.391.492.883
200410645241156118230222077932023396447.287.347.504.851
2005122514470631413902124383301633746116.300.347.517.864
20066025221723561508953320032854485.258.349.438.787
200774289265266915171073800021745299.260.315.404.719
2008OAK4213612613368025012000170263.286.331.397.728
2009SEA74266242256815081073400031724314.281.335.442.777
20103011099112630647182001901143.263.327.475.802
PHI2658521012202208100050172.231.310.385.695
'10計561681512138508672630011402215.252.321.444.765
通算:16年14545848518875915403255215252090953255595226174613142.297.366.486.851
  • 2010年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル・表彰

カンザスシティ・ロイヤルズ球団記録

  • シーズン打点:144(2000年)
  • シーズン犠飛:13(2000年)※タイ記録
  • 1試合打点数:7(2004年7月22日)※タイ記録
  • 1試合敬遠数:3(2004年5月9日)※タイ記録

その他の記録

  • MLBオールスターゲーム選出 5回:2000年 - 2003年、2005年
  • 最多死球 1回:2000年
  • 最多補殺(一塁手部門) 1回:2002年

参考資料

外部リンク