ポール・コネルコ

アメリカの野球選手 (1976 - )

ポール・ヘンリー・コネルコPaul Henry Konerko, 英語発音: [pɔl ˈhɛnri ˌkʌnɚˈkoʊ][1]; 1976年3月5日 - )は、アメリカ合衆国ロードアイランド州プロビデンス出身の元プロ野球選手一塁手)。右投右打。現役時代はMLBシカゴ・ホワイトソックスで長く活躍し、2005年のワールドシリーズ優勝に貢献した。背番号「14」は永久欠番に制定されている。

ポール・コネルコ
Paul Konerko
基本情報
国籍アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地ロードアイランド州プロビデンス
生年月日 (1976-03-05) 1976年3月5日(48歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
220 lb =約99.8 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション一塁手
プロ入り1994年 MLBドラフト1巡目(全体13位)
初出場1997年9月8日
最終出場2014年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴

アリゾナ州シャパラル高等学校英語版時代のポジションは捕手で、高校通算打率は5割を超えていた。1994年のMLBドラフト1巡目(全米13位)指名でロサンゼルス・ドジャースへ入団した。

1997年にはベースボール・アメリカ・マイナーリーグ年間最優秀選手賞に選出され、9月にはメジャーデビューを果たした。

1998年のシーズン開幕時には新人王の有力候補だったが、不振で7月にジェフ・ショウとのトレードでデニス・レイエスと共にシンシナティ・レッズへ移籍した。シーズン終了後にはマイク・キャメロンとのトレードでホワイトソックスへ移籍した。

それまでホワイトソックスは一塁手としてグレッグ・ノートンなどが起用されながらも固定できていなかったが、コネルコは移籍1年目の1999年に142試合の出場で打率.294、24本塁打、81打点、OPS.862の好成績を残して正一塁手となった。

2002年2002年のMLBオールスターゲームに初選出された。本塁打競争にも出場し、予選を3位で通過したが、準決勝でジェイソン・ジアンビに敗れた。

2003年は臀部の筋肉を痛め[2]、前半の打率が1割台と低迷し、本拠地のUSセルラーフィールドで開催された2003年のMLBオールスターゲームへの選出には遠く及ばなかった。打率.234、18本塁打はホワイトソックス移籍後最低の成績となった。

2004年は本塁打・塁打・打点・四球などで自己最高の成績を記録し、カムバック賞を受賞。早打ちをしなくなったため、四球・三振数はともに増加した[2]

2005年は3年ぶりにオールスターに選出され、2年連続40本塁打・100打点を記録。リーグチャンピオンシップシリーズでは2本塁打を記録してMVPを受賞するなど、球団として88年ぶりの2005年のワールドシリーズの優勝に貢献した。

2005年シーズン終了後、FAになったコネルコヘロサンゼルス・エンゼルスボルチモア・オリオールズなどから5年総額6000万ドルから6500万ドル規模のオファーがあったが、ホワイトソックスと5年総額6000万ドルで契約延長[3]オジー・ギーエン監督などからはチームキャプテン英語版の肩書を与えようという声があがり、このときは「チーム内はそれぞれの選手に平等に発言の機会が与えられなければならず、1人が突出するのは好ましくない」と断るも、チームメイトが望んでいたためチームのキャプテンに就任[4]

チームキャプテンとなり、フランク・トーマスが移籍したためチーム最古参となった2006年は35本塁打と3年ぶりに40本塁打の大台を下回ったが、6月25日のアストロズ戦で通算222本塁打を記録し、ハロルド・ベインズを抜き、球団史上歴代単独2位となった[5]。打率は自己最高の.313を記録した。

2007年は31本塁打と30の大台を上回ったが、打率は.259と低迷。

2008年は、左腹斜筋痛のため6月15日から自身初の故障者リスト入り[6]。ホワイトソックス移籍後ワーストとなる122試合の出場にとどまり、打率.240、22本塁打は2003年以来の低い水準。本塁打は9月に9本塁打を記録し、20本台に乗せた。

2009年は、2年ぶりにシーズン150試合以上に出場したが、打撃成績は打率.277、28本塁打、88打点にとどまり、打率と打点は3年連続で3割・100打点に届かず、本塁打も2年連続での20本台となった。

2010年は、シーズン通じて安定した活躍で、打率.312はキャリアで2番目に高い数字であり、30本塁打以上は3年ぶり、100打点以上は実に4年ぶりとなる数字であった。特に39本塁打はリーグ2位であり、MVPの投票では自己最高の5位だった[7]。オフにFAとなったが、12月8日に3年3750万ドルでホワイトソックスと再契約した[8]。この年から引退まで指名打者での出場が毎年20試合以上となった。

2011年は前年に続いて3割・30本塁打・100打点をクリア。オフにオジー・ギーエン監督がマイアミ・マーリンズへ移籍すると、具体化こそしなかったが、ケニー・ウィリアムズGMはコネルコを選手兼任監督にする案も考えていた[9]が、ロビン・ベンチュラが監督に就任した。

2012年は4月25日に通算400号本塁打を達成。5月27日にはフランク・トーマスに次いで2人目のホワイトソックスでの400号本塁打(通算407号)に到達した[10]。この時点で打率.399と序盤は絶好調だったが、後半戦に失速して最終的な成績は過去2年の水準に届かなかった[11]

2013年10月31日にFAとなったが、12月4日にホワイトソックスと1年250万ドルで再契約し、その契約満了に伴って引退することが発表された[12]

2014年は同じポジションのホセ・アブレイユ新人王の活躍もあって、出場機会は激減した。孤児の養子縁組を支援する活動が評価され、フィラデルフィア・フィリーズジミー・ロリンズと共にロベルト・クレメンテ賞を受賞した。2名の同時受賞は、史上初である[13]

コネルコのホワイトソックス在籍時の背番号「14」。
シカゴ・ホワイトソックスの永久欠番2015年指定。

引退の翌2015年5月23日、ホワイトソックスはコネルコの在籍時の背番号『14』を永久欠番に指定した。

2020年1月アメリカ野球殿堂の被投票資格を得たが、得票率がわずか2.5%で資格を失った。

選手としての特徴

  • 打撃では、速球にめっぽう強かったといわれる。その反面、走塁では『メジャーNo.1の鈍足』と呼ばれており、盗塁三塁打は非常に少ない。また併殺打も非常に多かった。2006年にスポーツ・イラストレイテッド誌が実施した選手へのアンケートでも「足が遅い男」部門の2位に選出されている[14]。ただし、足の遅さよりも「あきらめが早いのが難点」[15]ともいえる。
  • マーク・バーリーとは12年間一緒に出場し、バーリーの内野ゴロの多さも影響して通算15936刺殺は一塁手として歴代36位であった(引退当時)[16]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1997LAD6870100010000010021.143.250.143.393
1998491581441431104441601021002305.215.272.306.578
CIN26817371630328130001601105.219.284.384.668
'98計7523921721474077229010316034010.217.276.332.608
1999CWS142564513711513142426281101345026819.294.352.511.862
20001435865248415631121252971005470107222.298.363.481.844
2001156650582921643503229599100554698917.282.349.507.856
20021516305708117330027284104000744297217.304.359.498.857
2003137495444491041901817765000443745028.234.305.399.704
200415564356384156220413011171005695610723.277.359.535.894
2005158664575981632404030710000038110510910.283.375.534.909
200615264356697177300353121131009603810425.313.381.551.932
20071516365497114234031269900106789310221.259.351.490.841
2008122514438591051912219262200465478017.240.344.438.783
20091526215467515130128267881007584108915.277.353.489.842
20101496315488917130139320111010672651109.312.393.584.977
2011149639543691632503128110511011771788914.300.388.517.906
2012144598533661592202625975000256478316.298.371.486.857
2013126520467411141601216654000445247412.244.313.355.669
2014812242081543805662200021004517.207.254.317.572
MLB:18年2349950583931162234041084394083141294186921801041391282.279.354.486.841
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

内野守備


一塁(1B)三塁(3B)
























1997LAD130011.00010000----
1998231701518.9951151511.952
CIN7386011.0009218001.000
'98計302082119.9962073311.976
1999CWS9274058472.99510000----
200012210516710118.99172711.900
20011441276908120.994-
20021401146758113.993-
2003119889802102.998-
20041391150786136.995-
20051461321825135.996-
20061401173676113.995-
20071411180715131.996-
2008116101075794.994-
20091341159794112.997-
20101251069837124.994-
201111197568589.995-
201210581860196.999-
20137660048470.994-
20142316890251.000-
MLB1904159361111831660.9952994022.961
外野守備


左翼(LF)












1998LAD11120001.000
CIN780001.000
'98計18200001.000
MLB18200001.000
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

背番号

  • 66(1997年)
  • 7(1998年 - 同年途中)
  • 28(1998年途中 - 同年終了)
  • 14(1999年 - 2014年)※ホワイトソックスの永久欠番

脚注

関連項目

外部リンク