フレデリック・キャヴェンディッシュ (1836-1882)

フレデリック・チャールズ・キャヴェンディッシュ卿(Lord Frederick Charles Cavendish1836年11月30日 - 1882年5月6日)は、イギリスの政治家。自由党所属。庶民院議員、大蔵省財務担当政務次官英語版を務めた。1882年にアイルランド主席政務官英語版に任命されたが、就任宣誓と同日に殺害された。

フレデリック・キャヴェンディッシュ卿
Lord Frederick Cavendish
生年月日1836年11月30日
出生地イギリスの旗 イギリスサセックス州、イーストボーン、コンプトン宮殿
没年月日1882年5月6日 (満45歳没)
死没地イギリスの旗 イギリスダブリン県ダブリンフェニックス・パーク
出身校ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
所属政党自由党
称号枢密顧問官 (PC)
配偶者ルーシー・リトルトン
親族第6代カーライル伯爵(祖父)
第8代デヴォンシャー公爵(兄)
第9代デヴォンシャー公爵(甥)
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生涯

第2代バーリントン伯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ英語版(後の第7代デヴォンシャー公爵)と妻ブランシュ(第6代カーライル伯爵ジョージ・ハワードの娘)の次男として、1836年11月30日にサセックスイーストボーンにあるコンプトン宮殿英語版で生まれる[1]。兄に第8代デヴォンシャー公爵となったスペンサーがいる。

家庭で初等教育を受けた後、1854年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学し、1858年にM.A.の学位を修得した[2]。1864年6月7日、ルーシー・リトルトン英語版第4代リトルトン男爵ジョージ・リトルトン英語版の娘)と結婚した[1]

1865年イギリス総選挙英語版自由党候補としてノーザン・ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー選挙区英語版から当選し、以後3期庶民院議員を務める[1]ウィリアム・グラッドストン首相の秘書官を務めた後、下級大蔵卿(Lord of the Treasury)を務め、第一次グラッドストン内閣の総辞職とともに辞任した[1]

第二次グラッドストン内閣では1880年4月から1882年5月まで大蔵省財務担当政務次官英語版を務めた[1]。1882年5月にアイルランド主席政務官英語版ウィリアム・エドワード・フォースター英語版が辞任すると、その後任となってダブリンへと赴任した[1]。キャヴェンディッシュは5月6日に就任宣誓をしたが、その日の午後に市内のフェニックス・パークアイルランド人民族主義者(Irish National Invincibles)によりナイフで刺されて暗殺された(フェニックス・パーク事件英語版[1]。このとき、キャヴェンディッシュと一緒に歩いていたアイルランド事務次官英語版トマス・ヘンリー・バーク英語版も同様に刺殺されており、1883年の暗殺者の裁判で暗殺の標的がキャヴェンディッシュではなくバークであることが判明した[1]

キャヴェンディッシュの遺体はイングランドに運ばれ、5月11日にエンザー英語版の墓地に埋葬された[1]

出典

外部リンク

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
新設選挙区庶民院議員(ノーザン・ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー選挙区英語版選出)
1865年 – 1882年
同職:サー・フランシス・クロスリー準男爵英語版 1865年 – 1872年
フランシス・シャープ・ポウェル英語版 1872年 – 1874年
サー・マシュー・ウィルソン準男爵英語版 1874年 – 1882年
次代
サー・マシュー・ウィルソン準男爵英語版
アイザック・ホールデン英語版
公職
先代
サー・ヘンリー・セルウィン=イベットソン準男爵英語版
大蔵省財務担当政務次官英語版
1880年 – 1882年
次代
レオナード・コートネイ英語版
先代
ウィリアム・エドワード・フォースター英語版
アイルランド主席政務官
1882年
次代
ジョージ・トレヴェリアン英語版